まさおレポート

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倉田百三 「出家とその弟子」 世界をつくった仏があるならば仏に罪を帰したい

2019-02-16 | 紀野一義 仏教研究含む

この著名な本の名前だけはいたるところで出会ったが、なかなか当の著作を読む機会がなかった。青空文庫でこの題名を見いだし、読んだ事もないのだがなんだか懐かしさを感じて読み始めた。私は親鸞の浄土真宗の信者でもなく既成教団のいずこにも属する気持ちを持ち合わせていないが、興味を引く文章が多い。

以下青空文庫 倉田百三「出家とその弟子」より引用およびコメント。


『小猿の知識でな。ものの周囲をまわるけれど決してものの中核にはいらない知識でな。・・・お前は姦淫によって生まれたものだ。それを愛の名でかくしてはいるが。・・・私は共食いしなくては生きることができず、姦淫しなくては産むことができぬようにつくられているのです・・それがモータルの分限なのだ。』


原罪の指摘であり、マクベスの魔女達の集会のような台詞が続く。「カラマゾフの兄弟」のイワンが言いそうなセリフでもある。そして仏教の原点である四苦八苦に思いを寄せることになる。更に中観の空へと。ここまで行かないと単なるペシミズムに終わる危険性をはらむ。


『昨夜は心の中に不思議な力があって、私にそのような所業をさせてしまいました。私はその力に抵抗する事ができませんでした。・・・それを業の催しというのです。・・・だれも抵抗する事はできません。・・・ほかの悪人どもに侮辱されるのはいやですからね。・・・私は悪人だと言って名乗って世間を荒れ回りたいような気がするのです。・・・自分が残酷な事をした時にはこの報いが無くて済むものかという気がするのです。これは私の魂の実感です。・・・地獄から免れる道が無くてはならぬと思うのです。それでなくてはこの世界がうそだという気がするのです。・・・あなたの苦しみはすべての人間の持たねばならぬ苦しみです。ただ偽善者だけがその苦しみを持たないだけです。・・・人間は善くなり切る事はできません。絶対に他の生命を損じない事はできません。そのようなものとしてつくられているのです。』


昨夜は心の中に不思議な力があって、私にそのような所業をさせてしまいました。私はその力に抵抗する事ができませんでした。・・・そのように思う人は多いと思う。人の過ちはこの不思議な力による所業が多くあり、かくしてドラマが生まれる。

「薔薇の名前」のフランシスコ会修道士バスカヴィルのウィリアムとベネディクト会の見習修道士メルクのアドソの会話も想起される。

「絶対に他の生命を損じない事はできません。そのようなものとしてつくられているのです。」からはとても真似ができないビーガンの存在に理解をしたくなる。  

『私の心のなかにはその人々には話されぬようなさびしさがあった。人生の愛とかなしみとに対するあくがれがあった。・・・どうだかね。もっとさびしくなるかもしれないね。今はぼんやりさびしいのが、後には飢えるようにさびしくなるかもしれない。・・・お前のさびしさは対象によって癒されるさびしさだが、私のさびしさはもう何物でも癒されないさびしさだ。人間の運命としてのさびしさなのだ。』


「人々には話されぬようなさびしさがあった。」・・・来し方を振り返ると身にしみますね。人は寂しさを突き抜けないと真の歓喜にも行き着けない。空観思想はこんなところにあるのではと思う。


『運命がお前を育てているのだよ。・・・何が自分の心のほんとうの願いかということも、すぐにはわかるものではない。・・・それを見いだす知恵が次第にみがき出されるものだ。・・・知恵は運命だけがみがき出すのだ。・・・この世では罪をつくらずに恋をすることはできないのだ。・・・人間の一生の旅の途中にある関所のようなものだよ。その関所を越えると新しい光景が目の前にひらけるのだ。この関所の越え方のいかんで多くの人の生涯はきまると言ってもいいくらいだ。・・・愛を知る。すべての知恵の芽が一時に目ざめる。魂はものの深い本質を見る事ができるようになる。・・・人間の純な一すじな願いをつき詰めて行けば、皆宗教的意識にはいり込むのだ。・・・人生のかなしみがわかるのだ。地上の運命に触れるのだ。』 


知恵は運命だけがみがき出すのだ。・・・深い。このフレーズも「薔薇の名前」と会話している。


『六角堂に夜参りして山へ帰る道で一人の女に出会ってね。・・・私を山へ連れて登ってくれというのだ。・・・女は連れて登るわけに行かないと断わったのだ。・・・山の上では女は罪深くして三世の諸仏も見捨てたもうということになっているのだ。・・・女は見る見るまっさおな顔をした。やがて胸をたたいて仏を呪う言葉を続発した。それから一目散に走って逃げてしまった。・・・山上の生活をきらう心は極度に達した。・・・三条の橋の欄干にもたれて往来の人々をながめた。むつかしそうな顔をした武士や、胸算用に余念の無さそうな商人や、娘を連れた老人などが通った。あるいは口笛を吹きながら廓へ通うらしい若者も通った。・・・皆許されねばならないような気がしする。・・・「みんな助かっているのでは無かろうか」と。山へ帰っても、もはや、そこは私の住み家ではない気がした。』


皆許されねばならないような気がした。・・・親鸞はここから出発したのだな。「カラマゾフの兄弟」のイワンもここから出発している気がする、つまりドストエフスキーも。


『病気の時は死を恐れ、煩悩には絶えず催され、時々はさびしくてたまらなくなる事もあります。踴躍歓喜の情は、どうもおろそかになりがちでな。時に燃えるような法悦三昧に入る事もあるが、その高潮はやがて灰のように散りやすくてな。私は始終苦しんでいます。』


私は始終苦しんでいます。・・・日本仏教の祖師達の共通項は、この不断の悲しみ、苦しみかと思う。


『あなたがたの一生涯かかって体験なさる内容を一つの簡単な形に煮詰めて盛り込んであるのです。・・・知識がふえても心の眼は明るくならぬでな。』 


知識がふえても心の眼は明るくならぬでな。・・・私も難しくなりすぎる話には要注意という感性を持っている。知識を求めながらも知識では救われぬということが頭を離れない。


『念仏はほんとうに極楽に生まるる種なのか。それとも地獄に堕ちる因なのか、私はまったく知らぬと言ってもよい。私は何もかもお任せするものじゃ。私の希望、いのち、私そのものを仏様に預けるのじゃ。どこへなとつれて行ってくださるでしょうよ。』


私そのものを仏様に預けるのじゃ。・・・このあたりの覚悟も鎌倉仏教の祖師達の共通認識と思う。


『善鸞 きょうは皆騒ぐのだよ。何もかも忘れてしまうのだよ。さびしくても、楽しいものと無理に思うのだよ。人生は善い、調和したものと無理にきめるのだよ。さあ今世界は調和した。人と人とは美しく従属した。人の心の悪の根が断滅した。不幸な人は一人もいない。みんな喜んでいる。みんな子供のように遊んでいる。あゝ川が流れる、流れる。ゆるやかに、平和に。・・・このなみなみとあふれるように盛りあがった黄金色 の液体の豊醇なことはどうだろう。歓楽の精をとかして流したようだ。貧しい、欠けた人の世の感じは、どこにも見えないような気がする。・・・私は悪いのに違いありません。しかしただそれきりでしょうか。私はむしろ人生の不調和に帰したいのです。もし世界をつくった仏があるならば仏に罪を帰したいのです。』


もし世界をつくった仏があるならば仏に罪を帰したいのです。・・・これも又、根源的な疑問。


カラマーゾフの兄弟 イワンを想起する。


『あまり都合よくできあがっている救いですからね。虫のいい極悪人のずるい心がつくり出したような安心ですからね。・・・とても罰なくしてゆるされるような身ではありません。それは虫がよすぎます。・・・そのまま助けてくれと願うほどあつかましくはなっていないのです。それがせめてもの良心です。・・・かくかくの難行苦行をすれば助けてやると言ってほしいのです。』


それは虫がよすぎます。・・・これまた共感を持ってしまう。すべてが許される大慈悲と、「それは虫がよすぎます」という矛盾に真理があるのだろう。

2010-01-11初稿

2019/02/16加筆

倉田百三 「出家とその弟子」 甲を愛しているから、乙を愛されないというのは真の愛ではない

「薔薇の名前」 読書メモ

 


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