えくぼ

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たったひとつの表情

2016-12-12 09:17:48 | 歌う
           たったひとつの表情

 ♥ あの夏の数かぎりなきそしてまたたったひとつの表情をせよ 小野茂樹

 こんな素敵な歌を残して30歳で世を去った小野茂樹が蘇る。12月号「未来」の今月の歌


         玉井綾子歌集『発酵』より五首 

    何本ものマイクとなりて木蓮の蕾は春の声を集める
     
    休日に干す何足ものストッキング日々脱皮せしわれの脱けがら
 
    背中見せ眠る夫の稜線はわが越えられぬ険しさを持つ
                             
    夫も子も寝静まりしのち叫びたくなるのをこらえ鍋の焦げ取る 

    父なれど記憶になければ先祖への祈りに近し四十三回忌
                              
                                  
        この五首について岡崎裕美子は次のように解説している。
   
 「地中海」所属の著者の第一歌集。デパートに勤務し順調にキャリアを重ねるがやがて出産という壁が立ちはだかる。それは自己の能力に委ねられていたデパートの仕事とは違い、思うがままにいかないものだ。四十代女性のリアルな心情が散見されて折々苦しい気持ちになる。ここに登場する「父」とは、著者が一歳のときに亡くなった、歌人の小野茂樹である。

 木蓮の花はよく詠まれる。合掌している手に見立てられたり、でも「春を集めるマイク」
とは冴えている。ストッキングを「日々脱皮せしわれの抜けがら」も上手い。玉井綾子という歌人を私は知らなかったなんて! 岡崎裕美子は最後の1行で『発酵』の著者が小野茂樹の娘であることを読者に知らせる。
                                          
 小野茂樹(1936~1970)、満30歳で亡くなった。玉井綾子はいま40代、子供もいる。もし小野茂樹が生きていたなら孫の表情をどのように詠むだろうかと私は想像する。「数かぎりなきそしてまた」が「たったひとつの表情」を謎にしているのか。その「謎」をさらに膨らませる『発酵』という歌集。わたしは今、窓越しに隣家の庭を見る。木蓮の樹は伐られ二世帯住宅が建てられようとしている。春先にわたしを楽しませてくれたあの花々は「何本ものマイク」だった。「春を集めるマイク」だったのに。

    
      春はまだ彼方の彼方に、、。12月12日 松井多絵子