
列王記下24章
ここに南ユダ滅亡に至る最後の三人の王がでている。ヨアキム(23章34~24章7節)であるが、彼は弟の後任として王位に就いたが、ファラオ・ネコからエルヤキムをヨアキムと改名させられ(34節)、エジプトに貢物を納めていた(BC609年~)。
メギドの戦いで伺われたようにエジプトと新バビロニア(ネブカドネツァル二世)との覇権争いの中で、かろうじて国が保たれている傀儡の政権であった。
1節の「三年間彼に服従した」というのは、BC605年カルケミシュ戦でバビロンが勝利し、バビロンに三年間支配されたことである。BC601年に再度エジプト遠征に出たが、この時バビロンは敗れた。
その時ヨアキムは反旗を翻したためにバビロンは「カルデア人の部隊、アラム人の部隊、モアブ人の部隊、アンモン人の部隊をユダに送ってエルサレムを攻撃したのである(2~7節)。この時ヨアキムは殺され、ヨアキンに替わった。
2節に「主はその僕である預言者たちによってお告げになった主の言葉のとおり、ユダを滅ぼすために彼らを差し向けられた」とある。
また3節に「ユダが主の御前から退けられたのは主のご命令による…」とも示されている。
代ってヨアキンが王に立てられたが(BC598年)、三ヶ月後バビロンの武将たちによってエルサレムは包囲され、ネブカドネツァルが来た時、降伏してエルサレム神殿と王宮の宝物をすべて明け渡したのである(10~13節)。
アッシリアの占領政策は相互移住であったが、バビロンは違っていた。それは国の政治支配を奪い、祭司や高官や指導者(実業家)、職人と鍛冶という産業を支える技術者を捕囚の民としたのである(14節)。残されたのはただ国の民の中の貧しい者だけであった。という。16節に軍人七千人、職人と鍛冶千人、勇敢な戦士全員と数が上げられている。
これを第一回バビロン捕囚という。
預言者エゼキエル(12章)や、ダニエル(1章1~5節)も連れて行かれた。
最後の王マタンヤは、バビロンの王からゼデキヤと改名させられた(17節)。その意味は「神は義しい」という意味。まことにアイロニーに富んだ名前であったろう。
25章に第二回バビロン捕囚が出てくる。
哀歌2章を読む
「なにゆえ、主は憤り
おとめシオンを卑しめられるのか。
イスラエルの輝きを天から地になげうち
主の足台と呼ばれたところを
怒りの日に、見放された。」
写真「台湾・三地門 山岳地帯1500m)
ここに南ユダ滅亡に至る最後の三人の王がでている。ヨアキム(23章34~24章7節)であるが、彼は弟の後任として王位に就いたが、ファラオ・ネコからエルヤキムをヨアキムと改名させられ(34節)、エジプトに貢物を納めていた(BC609年~)。
メギドの戦いで伺われたようにエジプトと新バビロニア(ネブカドネツァル二世)との覇権争いの中で、かろうじて国が保たれている傀儡の政権であった。
1節の「三年間彼に服従した」というのは、BC605年カルケミシュ戦でバビロンが勝利し、バビロンに三年間支配されたことである。BC601年に再度エジプト遠征に出たが、この時バビロンは敗れた。
その時ヨアキムは反旗を翻したためにバビロンは「カルデア人の部隊、アラム人の部隊、モアブ人の部隊、アンモン人の部隊をユダに送ってエルサレムを攻撃したのである(2~7節)。この時ヨアキムは殺され、ヨアキンに替わった。
2節に「主はその僕である預言者たちによってお告げになった主の言葉のとおり、ユダを滅ぼすために彼らを差し向けられた」とある。
また3節に「ユダが主の御前から退けられたのは主のご命令による…」とも示されている。
代ってヨアキンが王に立てられたが(BC598年)、三ヶ月後バビロンの武将たちによってエルサレムは包囲され、ネブカドネツァルが来た時、降伏してエルサレム神殿と王宮の宝物をすべて明け渡したのである(10~13節)。
アッシリアの占領政策は相互移住であったが、バビロンは違っていた。それは国の政治支配を奪い、祭司や高官や指導者(実業家)、職人と鍛冶という産業を支える技術者を捕囚の民としたのである(14節)。残されたのはただ国の民の中の貧しい者だけであった。という。16節に軍人七千人、職人と鍛冶千人、勇敢な戦士全員と数が上げられている。
これを第一回バビロン捕囚という。
預言者エゼキエル(12章)や、ダニエル(1章1~5節)も連れて行かれた。
最後の王マタンヤは、バビロンの王からゼデキヤと改名させられた(17節)。その意味は「神は義しい」という意味。まことにアイロニーに富んだ名前であったろう。
25章に第二回バビロン捕囚が出てくる。
哀歌2章を読む
「なにゆえ、主は憤り
おとめシオンを卑しめられるのか。
イスラエルの輝きを天から地になげうち
主の足台と呼ばれたところを
怒りの日に、見放された。」
写真「台湾・三地門 山岳地帯1500m)