毎日大変興味深く読んでいました。幸運なことに私は
この小説が掲載され始めた2か月位後に、
今年も広島、長崎で核廃絶を訴える平和祈念式典が行われましたたが、
世界の、特に原爆保有国には、被爆国日本の被爆者達の訴えは
どのように届いているのでしょうか?
私の家族は原爆投下の翌年、昭和21年末に爆心地の北、
浦上方面の住吉町に建てた家で生活を始めました。
長崎の場合、爆心地は市の中心より少し北の郊外に差し掛かる地点の松山町でした。
市内の被害の大きさを左右したと思われるのは金比羅山という山と
当時の風向きだったという話を聞いたことがあります。
被害が大変大きかったのは、爆心地の北側の浦上地区、城山町などの西側、
三菱製鋼所や三菱造船所の一部などの南西側であったと実感しています。
市の中心部の繁華街や東側の建造物は辛うじて破壊を逃れています。
大浦天主堂やグラバー邸などは今も長崎の観光に寄与しています。
戦前に住んでいた港の見る丘とは異なり、被爆の影響の大きかった地区での生活でした。
残留放射能のことなど知らずに、水道が敷かれるまで、井戸水をくみ上げての、
私設水道の生活でした。天井裏では夜毎に元気なネズミの運動会でした。
近所で生まれた子猫を飼い始めたせいか、ネズミ捕りが効いたのか、
いつの間にかいなくなったのでした。大きな蛇も堂々と現れていました。
その家での生活を13年、後に父は91歳で中皮腫という癌で亡くなりましたが、
姉弟4人、皆、体力はあまりないのですが、今のところ大病なく過ごせています。
それにしても最近の隣国でのミサイル実験が気がかりな今日の情勢です。
今年からNPOの「てくてく探検隊」に入って歴史散歩に参加しています。以前の梶先生の
街道歩きで「東海道」53里を京都に向かって一緒に歩いていた頃の仲間のKさんご夫妻が
同志と共に立ち上げられた(rapch)には今回6月2日(日)は3回目の参加でした。
生憎、前日の午後から風邪っぽくて体調が悪く腰の痛みと7度6分の熱が出てしまったのですが、
今回は絶対に欠席出来ないと念力をかけて、風邪薬と睡眠導入剤を飲んで早めに寝ました。
それというのも今回の講師は、あの女子校改革で有名な品川女子学院学校長の仙田直人先生なのです。
それに東海道歩きの頃の友人達とも久しぶりに一緒に参加を約束していました。お陰様で翌朝は
元気に立ち直り参加することが出来ました。薄曇りで暑くもなく歩くのには最高のお天気に恵まれました。
仙田先生は飾らない60代の精悍な方で良く透るお声でわかり易い説明をして下さり
最高の1日でした。神谷町駅集合で約40人位の参加者で先ず青松寺へ向かいました。
慈恵医大のお向かいです。都心にこのような美しい緑があったのです。
続いて愛宕神社へ。以前は臆せず出世坂、男坂を上りましたがエレベーターがあると聞きそちらへ。
測量土木関係のお雇いイギリス人の記した几号をあちこちで発見しました。マニアックな
探検なのです。虎ノ門の文部省脇に残る工部大学址碑→地下鉄階段に残る江戸城外堀石垣→
外務省→旧井伊家上屋敷跡→県政会館庭園の几号→桜田門外の現場=警視庁前あたり→
几号(キゴウ)水準点↓
日比谷公園→鹿鳴館跡は帝国ホテル隣
昼食後は→和田倉門→大手門几号発見→皇居東御苑→富士見櫓→松の廊下跡→本丸跡→
江戸城天守台几号→平川門出る→竹橋門で几号確認→北白川宮能久親王像→旧近衛師団司令部庁舎→
北の丸公園→清水門→大隈重信侯雉子橋邸跡碑→常燈明台→大山巌像→最後は靖国神社。
実はくたびれて途中でギブアップしたくなったのですが、最後まで歩き24000歩
(今年初めての記録)が達成出来て大満足でした。
「二人の女王、エリザベスとメアリー」
16世紀半ばのイングランドとスコットランドの二人の女王の生涯を描いています。
(この映画はスコットランド女王メアリー側から撮っていると思いました。)
英国史に疎い私には分かり易く観応えががありました。
ただ現在の英王室にもつながるご先祖様の描写の仕方には首をかしげてしまいました。
二人は異なる宗派でもあり宿敵であり、しかしまた従姉妹同士でもあったのに
片方が最終的には死刑執行にサインを下さざるを得なかったというドラマティクな
運命を辿っています。メアリーとエリザベスの死後、イングランドと
スコットランドは、メアリーの子ジェームス6世(後のジェームス1世)に引き継がれて
永年の住民の悲願であった連合王国が出現したということになり、
二人の女王はグレイトブリティンの生みの親ということになるのでしょうか。
(両者の間では未だに分離独立運動などの動きがあるようですが。
イングランド女王エリザベス1世
スコットランド女王メアリースチュワ―ト
(未だにブログの記事の書き方が手探りの我流で基本がよく分かっていない
状態なのですが、今回、文字数が多すぎるということでなかなか投稿
出来ませんでした。途中で二つに分割してみたら何とか投稿出来ました。)
映画「二人の女王、エリザベスとメアリー」と「トルコ至宝展」を観て(1)の続きです。
「トルコ至宝展」
アジアとヨーロッパにまたがる交易の要地トルコには興味があって
是非一度は訪れたいと思ってたのですが、私は機会を逸して行けず
仕舞いになっています。仕事でトルコに縁のあった夫とじっくり
2時間以上かけて見て回りましたので見応えはあったのですがかなり疲れました。
16世紀にオスマン帝国を軍事的成功で最盛期に導いたスレイマン1世時代の
イスタンブールのトプカプ宮殿博物館の所蔵品が多くオスマン帝国の
栄華を伝える美術工芸品や宝飾品が紹介されていました。
花々、特にチューリップを愛でた宮廷の美意識は🌷はオランダと言う
概念を持っていましたので目からウロコ!の感じでした。
当時のスルタン(皇帝)、スレイマン1世は16世紀に46年の長期に
渡る在位で600年の長いオスマントルコの多くの歴代スルタンの中でも
特に際立っていて「スレイマン大帝」と称されているそうす。
その時代、16世紀には国を治める一人の権力者を頂点に世界中でいろいろな争いが
(日本では天下統一を目指しての「戦国時代」と重なり)同時進行で起きていて
それぞれその国の歴史を作っていたのだと自分なりに整理してみる機会となりました。
近代日本のルーツを訪ねる上州路の旅で①富岡製糸場と②安中へ
バスツアーで行って参りました。往路でいつもK先生(元高校の歴史の先生)が
歴史解説を分かりやすく講義してくださいますのでより多く感動があります。
世界遺産と称されると何か壮麗で豪華なイメージが先行して、既に見学した方達から
「期待外れ」などの言葉を聞いたりしましたが、近代産業に寄与し110年間稼働し続けた
当時世界最大の木骨レンガ造の建造物群が良好な状態で維持されて
いるのですから長い目で大切に見守ってあげたらいいと思いました。
確かに現在公開されているのは敷地の3分の1程度で物足りなさはあります。
国宝などの建造物は工事中で、この先順次公開されて目玉施設の文化財が完全な状態で
見学できるのは、かなり先のようです。修復には大変な費用がかかるようです。
世界遺産に登録されたからと言って、ユネスコからお金が入ってくるわけではないので
観光など自助努力で資金を集めるしかないわけです。
それにつけても最後の持ち主であった片倉工業がバブル期の1987年に閉業した後も
「売らない、貸さない、壊さない」の方針を堅持して固定資産税等1億円以上
掛かったこともあるとされる中、地元の要請もあったと思われますが
この建物の真の価値を見抜いてか、これを他社などに売り払うことをしないで
良好な保存状態で維持し続けたことに私は感動しました。
もし価値の分からない所有者に譲渡され建物が取り壊されていたら
この世界遺産はどうなっていたかなどと思ったりしました。
やはりこの製糸工場は初めから地元に歓迎され所有者に大切されて
今日に至っているのだなと思いました。蛇足ですが私は20代の頃
京橋に在る会社に勤めていましたが、その会社と鍛冶橋通りを挟んで
斜向かいに建っていたのが趣のある片倉工業のビルでした。
富岡製糸場は仏人技師、ポール・ブリュナが設計を主導
冨岡市は平成27年、その生誕地であるブール・ド・ペアージュ(フランス)と
友好都市協定を結んでいるそうです。でも火災が一番怖いですね。
パリ中心部にある世界遺産のノートルダム大聖堂で起きた大火災は
他人事ではありません。修復募金をはじめたそうです。
今日の午後、テレビを消そうとしていたら、「ごごナマ」に宝田明さんが出ていらしたので
思わず見てしまいました。宝田さんに興味をもったのは、主人から「大連会」によく来ていらしたと
聞いていたからです。殆ど同い年で引き揚げ者同士という事もあり、二人の話を合わせると
終戦後の大連での苦労と恐怖体験を通して命からがら帰国した時の様子がよく分かります。
運が悪ければ、山崎豊子氏の著作「大地の子」になっていたかもしれなかったのですから。
二人とも「中国人はよくしてくれた、ロシアの兵隊は恐怖だった」と言います。、
宝田さんは脇腹?に流れ弾の銃弾を受けて麻酔なしに摘出されたという壮絶体験を
語られておられました。今でも仕事の傍ら、反戦の語りべをしていらっしゃるようです。
その「大連会」も高齢化で役目を終えたと2013年に解散となってしまいました。
大陸から引き揚げた方々は同志の繋がりが深く、主人は今大連の小学校の同窓会の
幹事役を仰せつかって頑張っております。
===<以下引用>=======================================
大連会」が高齢化などで解散へ 中国との交流役割果たした66年
終戦後に大連から引き揚げた人たちを中心に結成する親ぼく団体「大連会」(中国内では「日本大連会」、本部・東京都千代田区)が、会員の高齢化などを理由に今年秋に解散することになった。同会は戦後、大連との交流活動にも貢献してきただけに、日中両国側から幕引きを惜しむ声は大きい。
大連は日露戦争後に日本が40年間にわたって統治し、終戦前後には約20万人もの日本人が住んでいたという。大連会は当時、大連に住んでいた日本人を中心に1947年(昭和22)に結成し、会報を年2回ほど発行して戦前、戦後の大連に関する思い出や記録を収録するなど、当時の大連を伝える貴重な記録集にもなっていた。
また、2009年(平成21)末には、大連市史上で記録的な〝空白〟となっていた1936年(昭和11)以降の出来事を記した「続大連市史」(275ページ)を発行。大連建設前史や大連市政、経済・産業、交通・通信・放送、生活、教育・スポーツ・宗教など様々な分野を9編にまとめた。
さらに大連市においては、日本留学の経験者らで結成する大連市中日友好学友会との交流をはじめ、NHK児童合唱団の大連公演を企画したり、小説「アカシアの大連」の著者で芥川賞作家の清岡卓行さんに大連日本人学校の校歌の作詞を依頼したり、親ぼく団体でありながら、日中をつなぐ文化活動の架け橋的な役割を果たしてきた。
しかし、戦後60年以上も経ち、会員の高齢化が顕著になり、最多で2万5000人いた会員は現在2500人に減ってしまった。会運営も赤字が続き、存続が困難となったため、4月に最後の総会を開き、今年秋に解散することになった。
大連会理事で現地担当の金子静雄さんは「戦後は会員の間口を、大連に留学、赴任された方にも広げましたが、会員増にはつながらず、解散の方針が決まったことはとても残念です。今後については、亡くなられたご両親・親戚の大連でのルーツ探しに協力し、故郷の大連を訪れる会員の方への協力を行っていきたいと思っています」と話している。
日経新聞の夕刊で4日から高樹のぶ子氏執筆の小説「業平」が始まりました。私は小説好きの読書家ではないけれど、新聞小説は一応読んでいます。歌人業平については余り知識がないのですが、前々から興味をもっていたので、この機会に一代記を読めるいいチャンスと楽しみにしています。業平は光源氏のモデルだと言われているとか。大体のイメージは描けます。又、高樹のぶ子氏自身、道ならぬ恋を貫いた方として知られ、福岡出身で東女大出の知人から、若き日の出来事についていろいろと聞かされていたこともあり「渾身の作」になるだろうと期待しています。「文学は高樹のぶ子にとって、別れた子供へのメッセージであるとともに、自己救済の手段でもあったのだ」と評する人もいます。一方朝刊の「ワカタケル」もいよいよ佳境に入り、大王の位に就かれ「雄略天皇」としてのこれからを期待しています。因みに私はこの新聞社と何の関わりもございません。
県道21号を右に折れて鎌倉七切通しの一つである「亀ヶ谷の切通」しを登りました。 亀もあまりの急坂に音を上げて帰ってしまうので「亀返しの坂」ともいうそうです。 この坂を登リはじめて、すぐ右側にあるのが「長寿寺」です。
長寿寺の裏山には足利尊氏のお墓があり,遺髪が埋葬されているそうです。(足利歴代のご廟所は京都の等持院です)20年位前に、この美しい庭園のある長寿寺で精進料理を頂く絶好のチャンスを得ました。当時の住職の奥様は凛とした方で先生もピりピりして中に 案内して下さいました。そしてその精進料理の美味しさといったら、一生忘れる事が出来ません。至福のひと時でした。
急坂を下りて間もなく、「岩船地蔵堂」のお堂が見えてきました。ここは源頼朝の長女で 木曽(源)義仲の息子・義高の許嫁となった大姫の墓所となっています。二人はいとこ 同志で仲が良かったのに、父頼朝の都合で 義高は葬られ、それに大姫の心は深い傷を負い以降、病に陥り20歳の若さで失意の中で亡くなったそうです。鎌倉幕府設立時の犠牲者ともいえます。雨が止んで日が射してきました。
寿福寺に行く途中に阿仏尼の墓が道路沿いにありました。十六夜日記を書いた阿仏尼は凄い女性だと思いました。かなり年を取っていたのに、息子の相続権の争いの為、鎌倉幕府への訴訟を思いつき、京都から125里14日かかって訴えに来たのです。それからなんと30年後に息子の為相の勝訴判決が出たとの事でした。
寿福寺は頼朝夫人・政子のお寺です。総門から続く石畳の道が美しく風情があります。 この日もモデルさんの写真撮影が行われていました。
裏に回ると墓地が広がり奥のやぐら(横穴式墳墓)が北条政子と3代将軍実朝の墓です。
皆が集まっている方が実朝のやぐらです。
こちらが北条政子のお墓です。
少し戻ってこの自然のトンネルを潜って(車も行き来していました。)駅に向かいました。
歴史深歩をしていて一番心に残ることは凄まじい権力争いの葛藤と、男性との間に大きな格差のある中を生きた女性の虐げられた歴史です。基本的に男女平等を掲げる今に生かされていることに感謝せずにはいられません。
最後までご覧いただきありがとうございました。ブログを始めてまだ半年足らずで、ヨチヨチ歩きですが、先輩ブロガー様達のブログをお手本に来年も、続けていけたらと思っています。
次に縁切り寺、駆け込み寺として有名な「東慶寺」を訪れました。もう4回目位になります。 このお寺も円覚寺も禅宗の寺で鎌倉には栄西の布教による臨済宗の寺が多いとの事です。
開山(寺を創建した初代の住職)は北条時宗の夫人覚山志道尼(かくさんしどうに)です。 開基(寺を創建するのに資金を出した人、つまりパトロン)は息子の北条貞時です。 時宗が亡くなった翌年開創されたと言われています。尼寺として作られ女性の住職が 続いたとのこと。当時離婚の申し立ての出来なかった女性が、この寺に入って3年尼修行を すれば、晴れて自由になれるという寺法はご開山、覚山尼の願いからだと言われています。
まっすぐ進んで少し急な坂を登りますとそこには東慶寺歴代のご住職の墓地が広がります。
「用堂尼」のお墓です。後醍醐天皇の皇女です。 お兄さんの大塔の宮護良親王の菩提を 弔う為に、この地に来られて東慶寺五代目のご住職になられました。
北条時宗夫人、覚山尼のお墓です。 (初代のご住職です)↓
この卵塔は20代目のご住職のお墓です。天秀尼は豊臣秀吉の息子・秀頼の娘で 側室の子として生まれ、大阪城落城後,捕らわれの身となり女の子ということで何とか助かり、正室千姫の養女として、ここ鎌倉東慶寺に入り8歳の女の子の尼寺での生活がはいじまったそうです。
東慶寺には多くの学者、小説家など著名な方々が沢山眠っておられます。 少し小雨が降り出しました。浄智寺を入口から拝見して亀ヶ谷の切通しに向いました。