髭の梶さんの「歴史文学深歩会」、最終回は原点の鎌倉でした。(1)

2018-12-29 | 歴史、

梶先生が約半世紀の間、地道に続けてこられた歴史深歩会も今年で終了することになり    ました。最後は原点の鎌倉の基本コースを歩きました。今回は60余名の参加者でしたので、  解説は全員がイヤホンで聞きました。昼食を食べる時間も場所もないので、おにぎり持参で  頑張りました。  

今回は円覚寺から東慶寺、浄智寺、亀ヶ谷の切通しを通り抜け、阿仏尼の墓、    そして寿福寺を訪れました。

 

 JR北鎌倉駅で集合、正規の改札口を出て、小さな池 白鷺池(びゃくろち)を渡り、参道を横切って走るJR横須賀線を渡って、総門から 山門に入りました。 

  

 円覚寺は北条時宗によって蒙古襲来の最中、国土の安泰と戦死者供養を込めて建立されたそうです。2001年のNHK大河ドラマで「和泉元彌」さんが時宗を演じていたのを思い出しました。

 居士林。禅を志す一般の人の道場 

↓仏日庵(ぶつにちあん)、白鹿洞(びゃくろくどう)。 円覚寺開基北条時宗の墓堂、 (蒙古襲来との戦いに生涯をついやし撃退し、34歳で没した。) 子の貞時、孫の高時と一緒に葬られている。

まっすぐ進むと突き当りは鎌倉の谷(やと)の風景があり一番奥に黄梅院(おうばいいん)がある。

 

 黄梅院(おうばいいん)

 Uターンして円覚寺方丈に参って、石段を登って洪鐘(おおがね)へ向かいました。

 鋳造を命じた北条貞時、何度も失敗して江の島の弁天様に加護を祈り完成をみたそうです。 これに感謝して建てられたのが 弁天堂だそうです。 

 今年も百八の煩悩除夜の韻を鎌倉の谷戸に響かせることでしょう。 

塔頭、(大寺院の中にある別寺、別坊) 帰源院山門(きげんいんさんもん)です。非公開。    夏目漱石、島崎藤村が滞在し、漱石は「門」を藤村は「春」を書いたそうです。 

 坂を下りて東慶寺に向います。 

 


ひげの梶さん歴史探歩会 隅田川遡上

2018-12-15 | 歴史、

梶先生の歴史探歩会には日帰り深歩を中心に、かれこれ20年ほど断続的に都合を

つけて参加していました。諸般の事情でこの会も今年いっぱいで終了となりました。

梶先生は、「江戸時代からタイムスリップして出てきたような面白い人」で

教科書歴史と違って、話が面白く興味が尽きなくなりました。

好きなウォーキングと合わせて歴史現場でのその臨場感ある説明に惹きつけられて

2万歩ぐらい歩いて軽い疲れを感じるのも楽しみのひとつでした。

今回は隅田川遡上の最終回で都電荒川遊園集合で歩き始めました。

      荒川に身を投げた足立姫伝承の船形神社に参りました。

 隅田川の岸辺に建つ清光時が豊島清光の館跡と言われる。

豊島氏は鎌倉幕府の有力御家人となり、豊島、足立、多摩郡、児玉郡、新座郡の

諸郡に所領を持ち、室町時代まで続くことになる。 やがて扇谷上杉氏の家宰

太田道灌に敗れる。豊島区の区名の由来とか。

      ひたすら隅田川に沿って歩く。

      遠くに見えるのは秩父連山。間もなく荒川と隅田川の合流地点へ。

岩淵水門で隅田川の水量を調節している。岩淵水門資料館に入ったが

時間切れで残念。又改めて来てみたい。

 


埼玉「吉見百穴」と「武州松山城」

2018-12-01 | 歴史、

続いて訪れたのが、6世紀末から7世紀末にかけて造られた吉見横穴古墳(横穴式石室)

の集合墓です。219基もの整然と並んで造られています。木の伐採中の為。中央の

階段を登って見晴らし台に登れなかったが残念です。

江戸時代の中頃から「不思議な穴」として人々に興味を持たれていたそうです。明治20年に

発掘を行い237基の横穴を発掘し住居でなく墓であるとの結論に至りました。下の方の

横穴に幻想的な緑色を放ち自生している「ヒカリゴケ」を肉眼で見ることが出来ました。

太平洋戦争末期(1944~1945年)に、集合墓の一部を陸軍が壊し、巨大なトンネルが

数多く掘られ地下軍需工場が造られた為、10数基の横穴墓が壊されしまいました。

                

吉見百穴から坂道を上って「武州松山城跡」を目指して歩きました。三方は市野川に

囲まれた要害の地にあり、北武蔵地域の要所である為、城をめぐる取り合いの攻防が

激しかったところです。左手の百穴から歩いて25分位だったと記憶しています。

         ここから登って行きました。道なき道でした。

 脇からイノシシが出てきそうな「けものみち」を全員頑張って頂上の城跡まで登りました。

     本曲輪に全員到達できました。城の中枢部であり、本丸御殿のような居住域兼

             政務域を持ち、戦時には最終防衛線となるところ。)

   

ここ比企地方は15~16世紀にかけて扇谷上杉、山内上杉、公方足利氏達の騒乱が

絶えず支配者が頻繁に変わりましたが,やがて後北条の勢力下に加わった上田氏の

支配下に納まりその後、徳川の松平忠頼の時に廃城となったとのことです。

             団体でないと怖くて登れません。皆で登れば怖くない。

   随分盛り沢山に見て回りましたが、地元からのバス旅行の為、歩数計では13000歩の記録でした。 


興味津々、さきたま古墳群

2018-11-28 | 歴史、

漠然と古墳は奈良など大和地方に行って見学するものと思っていましたが

九州から東北の一部にまで散在していることを知りました。行田市のこの辺りは

周囲全体が一面の平野で古代から見晴らしの良い場所だったことがこの場所に

立てば分かります。石田堤を横切って丸墓山古墳に登りました。途中に桜の木が

多く春は桜見物も出来そうです。

丸墓山古墳は日本最大級の円墳としても有名です。埋葬施設は発掘されていない

ため詳しいことは分かっていません。6世紀前半に造られたことが推定されています。

 

割と簡単に登っていけました。いいお天気で頂上からは四方八方見渡せます。

 

ここは思わぬ形で歴史の舞台になりました。豊臣秀吉が天下統一を進める

小田原城攻めの際、(1590年)家臣の石田三成はここから遠くに見える忍城を

水攻めにします。その際、城がよく見えるこの古墳の上に陣を張ったそうです。

忍城は耐え抜き水攻めは失敗したのですが。400数年前に光成はここから

中間の建物などのなかった頃の忍城や周囲の光景を見つめていた訳です。

 

忍城は写真のほぼ中心にある三層の城です。↓

 

 話題の稲荷山古墳(前方後円墳、5世紀末に造られた)に向います。

  ワカタケルに親衛隊長として仕えたというヲワケの臣と称する方の「金錯銘鉄剣」

  や甲冑等が1968年に発見されました。これは古代史を考える上で貴重な資料と

  なるので1983年に国宝に指定され、国宝展示室金錯銘鉄剣に常時展示されています。

 

それにしてもオワケさんは、どのような手段で大和の国から遠い 

武蔵の国のここへ移動してきたのか?陸伝いで?海伝いで?凄く体力のある

人だと思いますが疑問は尽きません。 

 

次に6世紀末に造られた将軍山(塚)古墳の石室を再現した展示場を見学しました。

 何故将軍山の名がついているのか分かりませんが、当時の権力者が埋葬

されているからでしょうか? 

二子山古墳は これから発掘調査が行われるようです。新しい発見があるかも。

古墳ブームが来そうな予感がします。下記の様に広報に書いてありました。

きたま史跡の博物館では、今年度、埼玉古墳群の中の二子山古墳を史跡整備

するために発掘調査を実施しています。調査を担当している学芸員が現地で

解説しながら発掘の成果をご紹介します。発掘調査によって出土した資料も現地で

展示します。」

 小学生達がバス旅行で来ていました。広場昼食とって遊んでいました。 

 さきたま古墳群は世界遺産を目指しているそうです。応援しています!


ワカタケル(雄略天皇)時代の古墳を見学する機会に恵まれました。

2018-11-27 | 歴史、
小春日和の先週、地元の郷土資料館の恒例の史跡見学バスツアーで埼玉
(さきたま)古墳群をタイムリーに見学することが出来て、エキサイト
しています。5世紀から6世紀にかけての史跡です。ここは9基の大型古墳
(1基の円墳を含む)からなる国内有数の大型古墳群です。
最初に博物館に入り学芸員さんのお話を聞いて最大のハイライト
「金錯銘鉄剣」が稲荷山古墳から1968年に出土されそこに刻まれている
115文字の事を知りました。
 
  
 ↓こちらが「金錯銘鉄剣」(きんさくめいてっけん)です。1968年出土
されて、1978年に腐食の進む鉄剣の保護のために、X線による検査が
実施され、鉄剣の両面に115文字の漢字が金象嵌で刻まれていることが
分かり、国内で記された最古の文字として、出土した他の副葬品と共に、
国宝に指定されています。 
 
 
 そこに書かれた文を改めると、表に自分の先祖代々の名が連ねてあり、
裏に「ワカタケル大王のシキの宮にある時、吾、天下を佐治し、この百錬の
利刀を作らしめ、吾が捧持事の根源を記すなり。」とあるそうです。
これにより第21代の雄略天皇の実在が、国内で記された文字資料で
確認されたそうです。 
折も折、日本経済新聞朝刊の芥川賞作家池澤夏樹氏の執筆中の小説
「ワカタケル」を私は半分神話なのかな?と思いながら読んでいたのですが
この鉄剣の文字と内容を目の当たりにして古代の世界が間近に浮かび
上がってきました。
現在、連載80数回目です。小説ではワカタケル大王は兄である
安康大王が暗殺されて以後、周りの競合する親族や人々を次々に
抹殺されています。
大王となる道をまっしぐらに進んでおられる最中です。 
大王の強い個性と武力・戦略、そして国際感覚、それらを兼ね備えた
大王(天皇)として「ワカタケル」が登場するものと思われます。
かなりおどろおどろしいのですが、毎日しっかりと読んでいこうと
思っています。尚、2003年に亡くなられた作家の黒岩重吾氏も晩年小説
「ワカタケル上下」を執筆しておられます。
 
 
 

小諸の懐古園にも立ち寄りました。

2018-09-13 | 歴史、

    昨年時間切れで行けなかった念願の「懐古園」をゆっくりと歴史

    散策することが出来た。歴史に残る多くの史跡に見入ってしまった。

    「真田丸」放映時には賑わったのかもしれないが、週末というのに

    閑散としたひとけのなさに「見どころ多いのに何故?」と考え込んで

    しまった。お隣の軽井沢の喧騒とくらべてしまう。    

  

  明治13年、荒れ果てた城址を整備し、花木を植え懐古園とするに

  あたり、本丸内に懐古神社を創建したとのこと。

       島崎藤村記念館。若き教師として(英語、国語)小諸義塾で

    約6年間を過ごし、その間多くの誌集も世に出した。藤村の直筆を

    拝見して実に達筆だと思った。

            


私の飢餓体験

2018-08-22 | 歴史、

 

 

 

終戦の年、前後は富山の祖母の家に居候していた。

そこには我が家の6人だけでなく叔父叔母従兄妹達も来ていたので

総勢10人以上の人が出たり入ったりしていた。外に友達を作らなくても

間に合っていたようだ。

上の写真は私の記憶に残る、ある日の昼食のイメージ。

お腹が空いてお代わりをと所望したら祖母にたしなめられた記憶が残っている。

又ある朝、起きようとしたら足に力が入らず柱に縋って立ち上がった様な記憶がある。

栄養失調のせいか?足には飛び火のような「おでき」が沢山出来たが

他のことでもお医者に行った記憶がない。

只、広い庭には、柿の木が沢山あって、いつも柿を食べていた。

 


玉音放送は富山市郊外で聞いた。

2018-08-14 | 歴史、

 

私達家族は富山市郊外で生活をしていた。その富山市内は終戦直前の

8月2日の夜、大空襲に襲われた。

私達は富山市近くの小杉町にいた。夜半、凄まじい閃光とB29のもの凄い爆撃の音で

近くで攻撃が始っていることを知り、消灯下で恐怖に身を縮めていた。

富山市内では夜中の爆撃を知り、取り急ぎ家族で郊外等へ避難し始めた人が多かったようだ。

その最中、目の前で自分の肉親が爆撃弾を受けて亡くなるという悲惨な状況だったと

当時の体験者の著書「8月2日天まで焼けた」は語っている。

私は後、つい最近まで、この爆撃の恐怖の夢を見て目を覚まし夢だと知り

ホッとすることがある。そして、8月15日のことはしっかり覚えている。

祖母や叔母たちが慌しそうにしていて、いつもと違った家の中の雰囲気で、

母、叔母達、従兄妹達大勢、祖母宅に住んでいる親戚全員が

「天皇陛下のお言葉」が始まるからと

ラジオのある大部屋に集められて「玉音放送」を聞いたのだった。

そして、なんとなく戦争が終わると云う事を悟った。

(日本政府の降伏文書への署名は9月2日。)


たった3日後、又長崎に悪夢の原爆が投下された。

2018-08-10 | 歴史、
2018-08-09 13:57:15 | 原爆、戦中、戦後

 

もう日本中が壊滅状態であることを知っていたであろうアメリカが戦争を

終わらせる為にと広島に原爆を落とした。

上空などの偵察で日本がもう戦争継続能力がないことも、混乱の中での

降伏の動きも知っていたであろうに、たったの3日後に

再び長崎に悪夢の原爆を投下した。何故2度も?

命令を下した当時の大統領や軍の良心を疑う。

長崎は私の出身地。4歳で長崎を離れて、再び原爆投下後1年4か月目に

爆心地近くの焼け跡に建てらた一軒家に移り住むことになった。

富山から幼い妹、歩き始めた双子の弟達と長い長い鉄道の旅を経験した。 

 


73年前の今日、広島に原爆が投下された。

2018-08-06 | 歴史、

73年前の真夏の朝8時15分, 広島上空で原爆が投下された。

 私達一家は広島の父の会社の社宅(舟入川口町)で約2年間暮らしていたが

母が富山の実家で里帰り出産することになり、父 を残して5月初めに引っ越しをした。

6月末に父も転勤してきた。

子供心にも住みやすかったあの広島の町に間もなく恐ろしい原爆が投下されるなど

 誰が想像出来ただろう。

 無心で遊んでいた名前も憶えていない幼き友達の運命はどうであったろうか?

 原爆が核兵器が人類の敵であることを成長するにつけ深く知った 。

難を逃れた者としても原爆の恐ろしい悲劇を語り伝えていかなくてはならい。