次のブログを書こうとしていた矢先、小学生の頃、初めて信頼出来る同年の友人として
意識をした幼馴染とも言えるSさんの訃報が仲間のWさんからた届いたのです。
Sさんとは1か月ほど前に電話で長話をしたばかりだったので強いショックを受けました。
少し前から認知症の傾向があり乳癌の転移があるけど今回は薬を飲むだけだと
聞いていて、変わりなく小康状態だと受け止めていました。
彼女とは小学校3年生~6年生まで家が至近距離だったこともあり仲良く頻繁によく遊びました。
穏やかで暖かい性格の彼女のことが大好きで、私の方からより積極的に遊びに誘っていたような
気がしています。
彼女も私も4人姉弟の長女でしたが5年生頃に彼女には妹が産まれてお母さんは一層忙しそうでした。
彼女の住んでいた市営住宅はとても狭く、逞しい感じのお父さんはいつもインドに出張していました。
彼女宅では弟さん達3人が賑やかなのでいつも広い庭のある我が家に来てもらって
(ブランコや鉄棒を父が造ってくれていました。特に頑丈なブランコはいつも愛用していました。)
他愛もなく日の暮れるまで遊んで私はいつも彼女の性格に癒されていたように 覚えています。
5年生の時とても明るく活発なWさんも仲間に入り今に続いています。
私が私立中学校に行くようになり彼女達とは別々になり2人と疎遠になった時期がありましたが、
断続的にお互いに連絡し合い変わらぬ友情で繋がっているつもりでした。
そのSさんと私は高校卒業前後、父親達の女性関係で家庭が混乱する運命に遭遇したのです。
そういうこともあって、私も彼女も短大を出てすぐに二十歳そこそこで上京していたのですが、
お互いに目の前の自分達のことで精一杯ながら連絡は絶やさず、共に20半ばで結婚して
3人の子育てをしながら転居を繰り返していたのでした。 Sさんは子育てをしながら、
ご主人と共に都庁で福祉関係の仕事を続けていたので 遠慮もあって偶にしか会えませんでした。
お互いに年賀状や電話で折々安否を確かめあう仲でした。コロナが落ち着いたら会いたいねと
話していた矢先、その日が突然来てしまい狼狽えてしまいました。
(彼女は齢を重ねてから自然な銀髪がよく似合う典雅な老婦人になっていきました。)
遠い所でしたが通夜には万難を排して、彼女への最後の手紙を携えて出かけることが出来ました。
私が怠慢を続け彼女の晩年の支えになり切れてなかったような心残りを綴らずにはいられませんでした。
悲しみの中で70年ぶりに会えた弟さん達は後期高齢者の白髪の好々爺になっておられました。
昔に思いを馳せて暫しお話をすることが出来ました。つくづく人生は短いと感じました。