SY作品2
白い馬の騎士(sound)-早乙女愛&加納竜
愛と誠(sound)-早乙女愛&加納竜
銀河鉄道999オープニング/エンディング
私が店長をしているショッピングサイトがあります。
【漫画の匠】
http://www.manganotakumi.com
よろしくです。
今日は、土曜日。
昼過ぎまで自宅でNHKの『ゲゲゲの女房』『龍馬伝』の再放送と、『スタジオパーク』の松下奈緒さん、佐藤健さんの出演部分を見てから、自転車で事務所へ移動。
先程まで、アメブロの私の新・旧ブログへついたペタ返しをして、(只の平凡なオジサンのブログなのに7月は何と一日平均145件もの足跡ペタがついてます。)珈琲タイム。
今日の横浜の事務所に、一人でいるので一杯分のクリップバック方式の珈琲に、明治おいしい牛乳と砂糖をたっぷり入れて自家製カフェオレが出来上がり。
水は富士山のバナジウム天然水を使用。
オヤツは銀座コージーコーナー(JR鶴見駅にもあるんですよ)のシュークリームと、ブルボンアルファートのミルクチョコビスケットを2つ用意。
今週は、映画『愛と誠』三部作のヒロインや、映画『青春の構図』で主題歌「魔法の鏡」(ユーミンの曲のカバー)を歌った早乙女愛さんが亡くなったことを知り、『愛と誠』『続・愛と誠』『青春の構図』のシナリオを書かれた石森史郎先生のご自宅へ電話を入れました。
原稿を執筆中であった石森先生は、非常に驚かれ、残念がっておられました。
7月29日木曜日は、東京都江東区にある古石場文化センターにて『石森史郎のシナリオ塾』があり、講義終了後恒例の「石森史郎先生と一緒に美味しいものを食べる会」があり、石森先生に早乙女愛さんの歌う「魔法の鏡」を聴いてもらいました。
早乙女愛さんのオーディションの時のエピソードなど歌の歌詞にある通り
「♪出来ることなら♪もう一度♪私のことを♪思い出して♪」
というフレーズは、涙を誘います。(泣)
石森史郎先生は、1931年7月31日が誕生日なので、私の父の田舎から送られてきた「庄内砂丘メロン」が丁度食べ頃になっていたので昨年に引き続き今年もプレゼントさせてもらいました。
早乙女愛さんが歌う「魔法の鏡」には、『愛と誠』のヒロイン時代を回想するような「♪あれが最初で最後の♪本当の恋だから」というフレーズがありますが、恋という部分の歌詞を女優と置き換えて考えて見ると、早乙女愛さんが女優として一番充実し恵まれていたのは、役名がそのまま芸名ともなった早乙女愛時代であり、その後は『青春の構図』以外あまり役には恵まれていないような気が私はしています。
「♪手帳につけた誕生日もそっと遠くで御祝いするわ♪こんな時にはどうしても♪あなたに会いに行きたいけど」という歌詞は、偶然にも石森先生の誕生日を祝う会を兼ねていた「美味しいものを食べる会」での石森先生へのメッセージのようにさえ感じられます。(涙)
今週の『ゲゲゲの女房』は、「悪魔くん」のテレビ放送が始まり、水木しげる先生の長年の苦労がやっと報われるところまで来ましたね!
以前講談社から発売された『特撮マガジン』にて、「悪魔くん」について水木しげる先生と、私の心の師匠である元東映の名プロデューサー平山亨さんの対談があり、お供の一人として私も水木プロでの対談現場へ同席させてもらいました。
今週の『ゲゲゲの女房』「悪魔くん」放送開始のエピソードの回、昼の再放送終了後に、平山さんのご自宅へ電話させていただき、暑中お見舞いの挨拶と、(平山さんが、現在お住まいの埼玉県は、私が住む横浜よりも、いつも一・二度気温が高い。)近況報告など、させていただきました。
平山さんは、子供達が夏休みとなる今の時期は、毎年『仮面ライダー』生みの親としてイベントなどで呼ばれる機会が多く、今年もあちこちへ呼ばれているようです。
私が子供の頃から大好きだった映画『愛と誠』やアニメ映画の『銀河鉄道999』テレビ『おれは男だ!』のシナリオ作家である石森史郎先生や、『悪魔くん』『河童の三平』『仮面の忍者赤影』『ジャイアント・ロボ』『柔道一直線』『仮面ライダー』『秘密戦隊ゴレンジャー』から続く戦隊ヒーローもの生みの親である名プロデューサー平山亨さんと、懇意にしてもらえているなんて、少年時代から漫画やアニメ・特撮、映画が大好きだった私としては、最高に幸せで楽しい夢のような人生の日々を送ることが出来ていると思います。
現在、女優やアイドル、小説家や漫画家、イラストレーター、ミュージシャンなどとして夢の実現に向かって努力して日々頑張っている(特にアメブロで私が読者登録や、アメンバーに登録させていただいている)皆さんにも、夢が叶い、充実した毎日が続きますように陰ながら応援しています。
これからも、皆さんよろしくね!
【漫画の匠】
http://www.manganotakumi.com
よろしくです。
今日は、土曜日。
昼過ぎまで自宅でNHKの『ゲゲゲの女房』『龍馬伝』の再放送と、『スタジオパーク』の松下奈緒さん、佐藤健さんの出演部分を見てから、自転車で事務所へ移動。
先程まで、アメブロの私の新・旧ブログへついたペタ返しをして、(只の平凡なオジサンのブログなのに7月は何と一日平均145件もの足跡ペタがついてます。)珈琲タイム。
今日の横浜の事務所に、一人でいるので一杯分のクリップバック方式の珈琲に、明治おいしい牛乳と砂糖をたっぷり入れて自家製カフェオレが出来上がり。
水は富士山のバナジウム天然水を使用。
オヤツは銀座コージーコーナー(JR鶴見駅にもあるんですよ)のシュークリームと、ブルボンアルファートのミルクチョコビスケットを2つ用意。
今週は、映画『愛と誠』三部作のヒロインや、映画『青春の構図』で主題歌「魔法の鏡」(ユーミンの曲のカバー)を歌った早乙女愛さんが亡くなったことを知り、『愛と誠』『続・愛と誠』『青春の構図』のシナリオを書かれた石森史郎先生のご自宅へ電話を入れました。
原稿を執筆中であった石森先生は、非常に驚かれ、残念がっておられました。
7月29日木曜日は、東京都江東区にある古石場文化センターにて『石森史郎のシナリオ塾』があり、講義終了後恒例の「石森史郎先生と一緒に美味しいものを食べる会」があり、石森先生に早乙女愛さんの歌う「魔法の鏡」を聴いてもらいました。
早乙女愛さんのオーディションの時のエピソードなど歌の歌詞にある通り
「♪出来ることなら♪もう一度♪私のことを♪思い出して♪」
というフレーズは、涙を誘います。(泣)
石森史郎先生は、1931年7月31日が誕生日なので、私の父の田舎から送られてきた「庄内砂丘メロン」が丁度食べ頃になっていたので昨年に引き続き今年もプレゼントさせてもらいました。
早乙女愛さんが歌う「魔法の鏡」には、『愛と誠』のヒロイン時代を回想するような「♪あれが最初で最後の♪本当の恋だから」というフレーズがありますが、恋という部分の歌詞を女優と置き換えて考えて見ると、早乙女愛さんが女優として一番充実し恵まれていたのは、役名がそのまま芸名ともなった早乙女愛時代であり、その後は『青春の構図』以外あまり役には恵まれていないような気が私はしています。
「♪手帳につけた誕生日もそっと遠くで御祝いするわ♪こんな時にはどうしても♪あなたに会いに行きたいけど」という歌詞は、偶然にも石森先生の誕生日を祝う会を兼ねていた「美味しいものを食べる会」での石森先生へのメッセージのようにさえ感じられます。(涙)
今週の『ゲゲゲの女房』は、「悪魔くん」のテレビ放送が始まり、水木しげる先生の長年の苦労がやっと報われるところまで来ましたね!
以前講談社から発売された『特撮マガジン』にて、「悪魔くん」について水木しげる先生と、私の心の師匠である元東映の名プロデューサー平山亨さんの対談があり、お供の一人として私も水木プロでの対談現場へ同席させてもらいました。
今週の『ゲゲゲの女房』「悪魔くん」放送開始のエピソードの回、昼の再放送終了後に、平山さんのご自宅へ電話させていただき、暑中お見舞いの挨拶と、(平山さんが、現在お住まいの埼玉県は、私が住む横浜よりも、いつも一・二度気温が高い。)近況報告など、させていただきました。
平山さんは、子供達が夏休みとなる今の時期は、毎年『仮面ライダー』生みの親としてイベントなどで呼ばれる機会が多く、今年もあちこちへ呼ばれているようです。
私が子供の頃から大好きだった映画『愛と誠』やアニメ映画の『銀河鉄道999』テレビ『おれは男だ!』のシナリオ作家である石森史郎先生や、『悪魔くん』『河童の三平』『仮面の忍者赤影』『ジャイアント・ロボ』『柔道一直線』『仮面ライダー』『秘密戦隊ゴレンジャー』から続く戦隊ヒーローもの生みの親である名プロデューサー平山亨さんと、懇意にしてもらえているなんて、少年時代から漫画やアニメ・特撮、映画が大好きだった私としては、最高に幸せで楽しい夢のような人生の日々を送ることが出来ていると思います。
現在、女優やアイドル、小説家や漫画家、イラストレーター、ミュージシャンなどとして夢の実現に向かって努力して日々頑張っている(特にアメブロで私が読者登録や、アメンバーに登録させていただいている)皆さんにも、夢が叶い、充実した毎日が続きますように陰ながら応援しています。
これからも、皆さんよろしくね!
森田健作 さらば涙と言おう(・・再アッブ)
本日の画像は、『少年マガジンジャンボグラフ』(昭和50年)発行の物です。
10年程前にやっと手に入れました。
後に早乙女愛さんの水着ポスターや、西城秀樹さんなどグラビア写真部分を全てカットしてイラストのみで構成されたA4サイズの『愛と誠イラスト集』(1976年発行)は、早い段階で入手出来ましたし、古書店では今も良くみかけますが、この本は、サイズが特大であること、水着ポスターが切り取られたのか、映画パンフレット『愛と誠・完結編』より入手困難で、最後まで手に入らなかったお宝本です。
昨日は、一晩中早乙女愛さんが歌う
『魔法の鏡』
を聴いていました。
今の私の気分は「初恋の憧れの人を若くして亡くしてしまった」
とても悲しい気持ちです。(涙)
10年程前にやっと手に入れました。
後に早乙女愛さんの水着ポスターや、西城秀樹さんなどグラビア写真部分を全てカットしてイラストのみで構成されたA4サイズの『愛と誠イラスト集』(1976年発行)は、早い段階で入手出来ましたし、古書店では今も良くみかけますが、この本は、サイズが特大であること、水着ポスターが切り取られたのか、映画パンフレット『愛と誠・完結編』より入手困難で、最後まで手に入らなかったお宝本です。
昨日は、一晩中早乙女愛さんが歌う
『魔法の鏡』
を聴いていました。
今の私の気分は「初恋の憧れの人を若くして亡くしてしまった」
とても悲しい気持ちです。(涙)
今日のブログは、2010年1月15日の記事と1月29日の記事からの再編集版となります。
『編集者が選ぶ少年週刊誌40年マンガランキング100』
34位は、『愛と誠』作・梶原一騎/画・ながやす巧。
画像は、
松竹映画『愛と誠・完結編』パンフレットより。
『週刊少年マガジン』(講談社)
(1973年)
映画化された名作だが、現在絶版。
古本屋ではまだ比較的安価
絶版・講談社・コミックスで全16巻刊行された
『日経トレンディ』
1998年5月号(日経ホーム出版社)より。
愛は平和ではない
愛は戦いである
武器のかわりが
誠実(まこと)であるだけで
それは地上における
もっともはげしいきびしい
みずからをすてて
かからねばならない
戦いであるーーー
わが子よ
このことを
覚えておきなさい
(ネール元インド首相の娘への手紙)
わたしの誠~
『純愛山河・愛と誠』
作詞:梶原一騎
作曲:渡辺岳夫
歌:池上季実子
夕日を見ている 彼の横顔が
怒っているとは限らないのよ
わたしを見ずに 肩いからせて
石ころ蹴ったりしているけれど
わたしは貴男に生命をかけてる
わたしは貴男に生命をかけてるの
だから 二人の間には
愛と誠のつながりがあるの
あるの
可愛い小鳥は 放す人なのよ
鳥かご開けて 飛びたたせるのよ
悲しい時ほど 笑っているのね
一人ぼっちが 恐いものかと
わたしは貴男に生命をかけてる
わたしは貴男に生命をかけてるの
だから 二人の間には
愛と誠のつながりがあるの
あるの
東京12ch
1974.10.4~1975.3.28
出演:池上季実子(早乙女 愛)、夏 夕介(太賀 誠)、中島久之、高橋昌也
オリジナル版・懐かしの青春ドラマ主題歌集3【1971~1975】
1995.6.7東芝EMI株式会社より
私の不良少年時代に最も影響を与えた作品である。
映画は三本作られて大ヒットし、実写でテレビシリーズも放映されている。
テレビシリーズでヒロイン早乙女 愛を演じる池上季実子が主題歌も歌っており、いい曲なのだが、歌唱力は・・・浅田美代子、大場久美子クラスより少し音痴かな。
この主題歌は、なんと驚くべきことに梶原一騎先生自身が早乙女 愛の乙女心を作詞している点が注目に値する。
映画『愛と誠』『続・愛と誠』の脚本に、先日、私と一緒に写真に登場した石森史郎先生が関わっている。
『愛と誠』1974年7月
脚本/石森史郎、山根成之
監督/山根成之
キャスト/太賀 誠(西城秀樹)、早乙女 愛(早乙女 愛)
『続・愛と誠』1975年3月
脚本/石森史郎、山根成之
監督/山根成之
キャスト/太賀 誠(南条弘二)、早乙女 愛(早乙女 愛)、天地大介(森次晃嗣)、高原由紀(多岐川 裕美)
『愛と誠、完結篇』
脚本/山根成之、長尾啓司、南部英夫
監督/南部英夫
太賀 誠(加納 竜)、早乙女 愛(早乙女 愛)、砂土谷 峻(柴 俊夫)
パンフレットの解説には、映画完結篇公開前、単行本15巻までで500万部突破の記載あり。
他にもアニメ映画『銀河鉄道999』の脚本や、テレビ作品『おれは男だ!』『仮面ライダー』『ウルトラマンA』など映画・テレビ・舞台とジャンルも幅広く膨大な作品量があるので、石森史郎先生が手掛けた脚本の世界観を把握し研究をするのは、とても大変な作業なのである。
以上までが、再録、再編集版の記事となる。
テレビ版・太賀誠を演じられた夏夕介さんに続き、早乙女愛さんまでもが若くして亡くなってしまうなんて・・・。
漫画や、映画、アニメの名作は、時や時代を越えて、大衆文化として次の世代にも残されて行く。
早乙女愛さんの面影は、若き日に、映画のヒロインを演じたままの可憐で美しいままの姿でいつまでも私の心に生き続けている。
訃報のニュースを聞いて、私は直ぐに石森史郎先生のご自宅へ連絡を入れた。
石森史郎先生は、今月31日に79歳の誕生日を迎えられる。
「先生には、まだ聞きたい話が山ほどあるので、少なくとも後10年くらいは長生きして下さい。」と伝えておいた。
今週の木曜日には、古石場のシナリオ教室で先生にお会いする。
『編集者が選ぶ少年週刊誌40年マンガランキング100』
34位は、『愛と誠』作・梶原一騎/画・ながやす巧。
画像は、
松竹映画『愛と誠・完結編』パンフレットより。
『週刊少年マガジン』(講談社)
(1973年)
映画化された名作だが、現在絶版。
古本屋ではまだ比較的安価
絶版・講談社・コミックスで全16巻刊行された
『日経トレンディ』
1998年5月号(日経ホーム出版社)より。
愛は平和ではない
愛は戦いである
武器のかわりが
誠実(まこと)であるだけで
それは地上における
もっともはげしいきびしい
みずからをすてて
かからねばならない
戦いであるーーー
わが子よ
このことを
覚えておきなさい
(ネール元インド首相の娘への手紙)
わたしの誠~
『純愛山河・愛と誠』
作詞:梶原一騎
作曲:渡辺岳夫
歌:池上季実子
夕日を見ている 彼の横顔が
怒っているとは限らないのよ
わたしを見ずに 肩いからせて
石ころ蹴ったりしているけれど
わたしは貴男に生命をかけてる
わたしは貴男に生命をかけてるの
だから 二人の間には
愛と誠のつながりがあるの
あるの
可愛い小鳥は 放す人なのよ
鳥かご開けて 飛びたたせるのよ
悲しい時ほど 笑っているのね
一人ぼっちが 恐いものかと
わたしは貴男に生命をかけてる
わたしは貴男に生命をかけてるの
だから 二人の間には
愛と誠のつながりがあるの
あるの
東京12ch
1974.10.4~1975.3.28
出演:池上季実子(早乙女 愛)、夏 夕介(太賀 誠)、中島久之、高橋昌也
オリジナル版・懐かしの青春ドラマ主題歌集3【1971~1975】
1995.6.7東芝EMI株式会社より
私の不良少年時代に最も影響を与えた作品である。
映画は三本作られて大ヒットし、実写でテレビシリーズも放映されている。
テレビシリーズでヒロイン早乙女 愛を演じる池上季実子が主題歌も歌っており、いい曲なのだが、歌唱力は・・・浅田美代子、大場久美子クラスより少し音痴かな。
この主題歌は、なんと驚くべきことに梶原一騎先生自身が早乙女 愛の乙女心を作詞している点が注目に値する。
映画『愛と誠』『続・愛と誠』の脚本に、先日、私と一緒に写真に登場した石森史郎先生が関わっている。
『愛と誠』1974年7月
脚本/石森史郎、山根成之
監督/山根成之
キャスト/太賀 誠(西城秀樹)、早乙女 愛(早乙女 愛)
『続・愛と誠』1975年3月
脚本/石森史郎、山根成之
監督/山根成之
キャスト/太賀 誠(南条弘二)、早乙女 愛(早乙女 愛)、天地大介(森次晃嗣)、高原由紀(多岐川 裕美)
『愛と誠、完結篇』
脚本/山根成之、長尾啓司、南部英夫
監督/南部英夫
太賀 誠(加納 竜)、早乙女 愛(早乙女 愛)、砂土谷 峻(柴 俊夫)
パンフレットの解説には、映画完結篇公開前、単行本15巻までで500万部突破の記載あり。
他にもアニメ映画『銀河鉄道999』の脚本や、テレビ作品『おれは男だ!』『仮面ライダー』『ウルトラマンA』など映画・テレビ・舞台とジャンルも幅広く膨大な作品量があるので、石森史郎先生が手掛けた脚本の世界観を把握し研究をするのは、とても大変な作業なのである。
以上までが、再録、再編集版の記事となる。
テレビ版・太賀誠を演じられた夏夕介さんに続き、早乙女愛さんまでもが若くして亡くなってしまうなんて・・・。
漫画や、映画、アニメの名作は、時や時代を越えて、大衆文化として次の世代にも残されて行く。
早乙女愛さんの面影は、若き日に、映画のヒロインを演じたままの可憐で美しいままの姿でいつまでも私の心に生き続けている。
訃報のニュースを聞いて、私は直ぐに石森史郎先生のご自宅へ連絡を入れた。
石森史郎先生は、今月31日に79歳の誕生日を迎えられる。
「先生には、まだ聞きたい話が山ほどあるので、少なくとも後10年くらいは長生きして下さい。」と伝えておいた。
今週の木曜日には、古石場のシナリオ教室で先生にお会いする。
西城秀樹 / 初主演映画・『愛と誠』予告編
テレビ版・太賀誠役の夏夕介さんに続いて、早乙女愛さんまでもが。
テレビ版・太賀誠役の夏夕介さんに続いて、早乙女愛さんまでもが。
アメブロを御覧いただいているアメンバー以外の皆さん、はじめまして!
gooの方は、お久しぶりです。
今日の画像は
我が母校である明治学院大学出身の千葉県知事・森田健作先輩主演の青春ドラマ『おれは男だ!』のLPを持つ脚本界の大御所・石森史郎先生と、代表作『少年画報大全』を持つ、私、本間正幸が『石森史郎のシナリオ塾』が開かれている古石場文化センターの教室内で写した記念の一枚になります。
(『森田健作/おれは男だ!』~TVサン・トラ
構成 石森史郎
日本ビクター株式会社より)
「友達よ泣くんじゃない」
作詞/阿久 悠
作曲・編曲/鈴木邦彦
一
友達よ泣くんじゃない
今はつらいけど
友達よ泣くんじゃない
明日は晴れるから
君の胸の奥は いつも熱いあらし
何をしても
苦しいせつないこの毎日
友達よ泣くんじゃない
誰も今はそうさ
友達よ泣くんじゃない
話してあげるから
二
友達よ行くんじゃない
逃げてどうなるか
友達よ行くんじゃない
ここにも夢がある
恋に悩む時も 愛をさがす時も
何をしても
苦しいせつないこの毎日
友達よ行くんじゃない
みんな君の味方
友達よ行くんじゃない
見つめてあげるから
山形県庄内地方出身、中卒のため、学は無いけれども正直で働き者の父30歳と、茨城県出身で25歳の時に私を産んだちょっぴり若い母、そして3歳上の姉に囲まれて私は、生まれ育ちました。
家族4人、両親は共働きだったけれども、愛情に溢れた幸せな家庭で子供時代を過ごしました。
けれども私は、子供から少年へと成長した中学2年の秋には、諸般の事情により、いつの間にか地元でも少しは名の知れた不良少年となってしまいます。
にも関わらず、父が私に子供の頃と変わらぬ無償の愛で接してくれていたのは、私の父が10歳とまだ幼い時分に父を亡くし、戦地から復員してきた長兄が父親代わりとなり育てられたためだったのかも知れません。
私は、進学した学区外の普通以下の県立の公立高校でさえも暴走族などに属する非行少年たちとの度重なる喧嘩により、何度も停学をくらってしまい退学寸前の有り様でした。
そんな時、大好きだった父が病で入院することになり、病院のベットに横たわる闘病中の父の姿を見て、さすがの私も、心から改心し、いつも人一倍苦労をかけた父を少しは安心させ、喜ばすためにも大学進学を志たんですが・・・。
父が一年近くの闘病の後、癌で亡くなってしまった17歳の頃、私は子供の時から大好きだった青春ドラマ
『おれは男だ!』
の挿入歌である
「友達よ泣くんじゃない」
を何度も繰り返し聞きながら、独り過ごすことが多くなりました。
私が、尊敬し御指導をお願いしている心の師匠、平山亨のおやっさんは、元東映テレビ部のプロデューサーとして、仮面ライダーシリーズや、戦隊シリーズの生みの親としても、広く世間に知られており、数多くの正義の味方を子供たちのために世に送り出しています。
その平山亨のおやっさんが、数年前になぜか、私の生い立ちについて興味を持ち始めました。
ある機会に、埼玉県にある平山先生のご自宅近くの駅の喫茶店で私は、半生を語ることになります。
平山先生は、私の話しを聞くと、(先生は、マスコミの取材時などに良くこの喫茶店を使われていましたが、駅前の再開発に伴い、今は無くなってしまったと聞いています。先生も、最近転居されました。)私の父の思いに対し、涙を流してくれました。
私の父のために、泣いてくれたのです。
そして、「簡単なメモ書きでもいいから、出来るだけ詳しくその話しを書いてくれ。」
と言われました。
「当然、シナリオを書くなんてことは、専門に勉強しなきゃ書けやしないから、無理だと言うことぐらいは俺にだって良く分かっている。シナリオを書くのは、、文章の巧い専門家に頼むから、とにかくその話しを書いてくれ。」
と、言われたのです。
私は、つい最近まで、親しく付き合いのある人たち、そう、私の父とひとつ違いでお酒好き、アメリカ嫌いとどこかしら、私が父の姿をダブらして、普段あまりお酒を飲まない私が、一緒にお酒を飲むことを何よりも楽しみにしていたあの二上洋一先生にさえ、父については、話すことはありませんでした。
私は、父親に人一倍苦労や心配をかけてしまったという強い罪悪感があるためか、余程親しい友人などを除いて、父親の話をすることは、いままでありませんでした。
けれども、昨年の1月に二上洋一先生が亡くなり、それを機に、私が、いままで二上先生から受けていた無償の愛に対して、父親の愛情を思い出し、人前でも話をするようになったのです。
石森史郎先生については、『仮面ライダー』や『カゲスター』の脚本家として付き合いの長い平山先生が、私にシナリオの勉強をさせるために一昨年の夏にワザワザ御紹介していただけたのです。
ですが、いくら図々しい私でも、天下の石森史郎先生にシナリオの書き方の個人レッスンのお願いなど出来るはずもございません。
丁度、その年の無声映画鑑賞会年末恒例の忘年会に特別会員の石森史郎先生が出席され、A会員である私もその末席に座ることが出来ました。
その際、古石場文化センターの旧知の職員(昨年の春からは、所長に昇格)との間で、私が石森先生を良く知っているという話しになり、それならば、石森史郎先生に古石場文化センターでシナリオ塾を講師として講義してもらうことは出来ないだろうかという話しになり、石森先生の紹介をお願いされ、ダメもとで話しをしてみたのです。
石森先生に対して私は、
「古石場で開講したあかつきには、先生!是非、私にも先生のシナリオの書き方を学ばせて下さい」
と懇願したのです。
実のところ、石森先生には既に、私の生い立ちなどの半生を話したことがあり、シナリオとして書き上げたあかつきには、是非、一度読んで欲しい旨は伝えてありましたので、石森先生は古石場文化センターでの講義も、快諾していただけたのだと思います。
私は、文筆業といっても、漫画家や絵物語作家、少年小説の作家の研究という特殊な分野であり、文章や論文を書く専門の教育は大学でのゼミ以来今まで受けたことがありません。
大学受験時の受験科目である小論文や、国語、日本史の偏差値については、駿台予備校に通う浪人時代に、当時の駿台全国模試で東大法学部にも充分入学可能な上位100番ぐらいの偏差値を出してはいましたが、それ以降は、文学部ではないのでこれといった専門の教育は、受けてはいないのです。(なんと私の英語力は、中学生レベルの学力しかありません。筆記体はいまだに読めませんし、勿論書けないままです。なのに海外旅行の添乗員の資格だけは難関とされている運輸大臣認定試験を学生時代に一発で合格しているのだから、とても悪運が強いといえるでしょう。)
小学校の給食のオバサンとして、私が幼稚園の時から働いている母に、負担をかけるのが嫌だった私は、旅行会社の添乗員のアルバイトとして働きながら、明治学院大学社会学部社会学科の夜学で学ぶ道を選びました。
その際、昼間の生徒と併せても4年間トップクラスの成績を通し、奨学金を貰い続けることが出来たのは、今思うと、とても幸運なことだったのかも知れません。
大学への入学金や、授業料は、父が私のために進学資金を用意してくれていたおかげで、私は、学校までの通学の定期代や、教科書代、食費などの生活費を用意するだけで良かったのです。
自宅も横浜鶴見にあるため、白金高輪にある明学までの交通費は、比較的安く済んだのですから、他の働きながら明学の夜学に通う同級生に較べると随分恵まれた環境だったといえます。
私の風貌や、体格から、一般の明学生とは明らかに異なるため、仲の良かった公式野球部や空手部などの体育会の連中から、
「本間さんは、何部のスポーツ推薦で明学に入学されたんですか?」
と、真顔で尋ねられたのには、閉口しましたし、学内ですれちがうと応援団員までもが、挨拶してくるのにも正直まいったものです。
当時の社会学部の学生達の間での人気企業、日本旅行の就職試験になんとか合格することに成功しましたが、(その年の大卒総合職の受験者は、二万数千人おり、採用された同期の数は、三百人弱でした。)本来は旅行業界と文筆業の世界とでは、まるで分野が違うのです。
一口に文筆業といっても、いろいろな種類があります。
歌手に例えてみたら、ロックや、歌謡曲、演歌などそれぞれ専門ジャンルが異なることぐらいは皆さんもわかっていますよね。
文筆業でも話しは同じで、小説家やシナリオ作家、評論家やエッセイスト、絵本作家では、それぞれ書く文体が変わってくるのです。
私の文章は、素人の人からは、良く下手だと言われますが、プロの編集者からは、『少年画報大全』発表以来、直されたことはほとんどありません。
(但し、私が実質プロとしてのメジャーデビューとなる『少年画報大全』の担当編集者である添田善雄編集長は、とても厳しい人で、私が書いた全ての文章について平均3回くらいずつ書き直しを命じてきたのには、正直閉口しましたし、今でも手を抜いた文章を発表すると直ぐに見破られてしまいます。編集者として『湘南爆走族』でブレイクする前の吉田聡先生や、『ゴーマニズム宣言』でブレイクする前の小林よしのり先生を担当したことでも、出版界では知る人ぞ知る存在であり、私にとっても大恩人であり、今でも頭が上がりません。)
学校の国語教師達は皆、上手な文章を書けるけれども、プロの文筆業に成れる人は滅多にいないのが現実です。
プロの世界は、どこもとても厳しいのです。
漫画について、評論する人や、ライターはたくさんいますし、マンガ学会という組織まで出来て、漫画を研究する研究者は、今や何百人といますが、社団法人 日本漫画家協会に正会員として入会が認められた評論家や研究者は、日本で10人足らずしかいないのです。
さて、そんな訳で私が今、石森史郎先生のシナリオ塾に通ったり、父親の話しをブログで書いたりするのは、平山先生との約束を守るためであったことを今日は話してみました。
子供の頃から、その作品に親しんで来た脚本界の大御所・石森史郎先生に学び、数多くの憧れのヒーロー達を生み出してきた元東映の平山亨プロデューサーが私の書くシナリオを楽しみに待っていてくれるなんて、まるで夢のような話しです。
今年は、是非とも私の半生を書いたシナリオを書きあげるつもりです。
(季節柄、初夢の話しではありませんので念のため。)
もはや私も、写真のようなオジサンになってしまいましたが、これからも、皆さんよろしくね!
社団法人 日本漫画家協会正会員
漫画史研究家
本間正幸
gooの方は、お久しぶりです。
今日の画像は
我が母校である明治学院大学出身の千葉県知事・森田健作先輩主演の青春ドラマ『おれは男だ!』のLPを持つ脚本界の大御所・石森史郎先生と、代表作『少年画報大全』を持つ、私、本間正幸が『石森史郎のシナリオ塾』が開かれている古石場文化センターの教室内で写した記念の一枚になります。
(『森田健作/おれは男だ!』~TVサン・トラ
構成 石森史郎
日本ビクター株式会社より)
「友達よ泣くんじゃない」
作詞/阿久 悠
作曲・編曲/鈴木邦彦
一
友達よ泣くんじゃない
今はつらいけど
友達よ泣くんじゃない
明日は晴れるから
君の胸の奥は いつも熱いあらし
何をしても
苦しいせつないこの毎日
友達よ泣くんじゃない
誰も今はそうさ
友達よ泣くんじゃない
話してあげるから
二
友達よ行くんじゃない
逃げてどうなるか
友達よ行くんじゃない
ここにも夢がある
恋に悩む時も 愛をさがす時も
何をしても
苦しいせつないこの毎日
友達よ行くんじゃない
みんな君の味方
友達よ行くんじゃない
見つめてあげるから
山形県庄内地方出身、中卒のため、学は無いけれども正直で働き者の父30歳と、茨城県出身で25歳の時に私を産んだちょっぴり若い母、そして3歳上の姉に囲まれて私は、生まれ育ちました。
家族4人、両親は共働きだったけれども、愛情に溢れた幸せな家庭で子供時代を過ごしました。
けれども私は、子供から少年へと成長した中学2年の秋には、諸般の事情により、いつの間にか地元でも少しは名の知れた不良少年となってしまいます。
にも関わらず、父が私に子供の頃と変わらぬ無償の愛で接してくれていたのは、私の父が10歳とまだ幼い時分に父を亡くし、戦地から復員してきた長兄が父親代わりとなり育てられたためだったのかも知れません。
私は、進学した学区外の普通以下の県立の公立高校でさえも暴走族などに属する非行少年たちとの度重なる喧嘩により、何度も停学をくらってしまい退学寸前の有り様でした。
そんな時、大好きだった父が病で入院することになり、病院のベットに横たわる闘病中の父の姿を見て、さすがの私も、心から改心し、いつも人一倍苦労をかけた父を少しは安心させ、喜ばすためにも大学進学を志たんですが・・・。
父が一年近くの闘病の後、癌で亡くなってしまった17歳の頃、私は子供の時から大好きだった青春ドラマ
『おれは男だ!』
の挿入歌である
「友達よ泣くんじゃない」
を何度も繰り返し聞きながら、独り過ごすことが多くなりました。
私が、尊敬し御指導をお願いしている心の師匠、平山亨のおやっさんは、元東映テレビ部のプロデューサーとして、仮面ライダーシリーズや、戦隊シリーズの生みの親としても、広く世間に知られており、数多くの正義の味方を子供たちのために世に送り出しています。
その平山亨のおやっさんが、数年前になぜか、私の生い立ちについて興味を持ち始めました。
ある機会に、埼玉県にある平山先生のご自宅近くの駅の喫茶店で私は、半生を語ることになります。
平山先生は、私の話しを聞くと、(先生は、マスコミの取材時などに良くこの喫茶店を使われていましたが、駅前の再開発に伴い、今は無くなってしまったと聞いています。先生も、最近転居されました。)私の父の思いに対し、涙を流してくれました。
私の父のために、泣いてくれたのです。
そして、「簡単なメモ書きでもいいから、出来るだけ詳しくその話しを書いてくれ。」
と言われました。
「当然、シナリオを書くなんてことは、専門に勉強しなきゃ書けやしないから、無理だと言うことぐらいは俺にだって良く分かっている。シナリオを書くのは、、文章の巧い専門家に頼むから、とにかくその話しを書いてくれ。」
と、言われたのです。
私は、つい最近まで、親しく付き合いのある人たち、そう、私の父とひとつ違いでお酒好き、アメリカ嫌いとどこかしら、私が父の姿をダブらして、普段あまりお酒を飲まない私が、一緒にお酒を飲むことを何よりも楽しみにしていたあの二上洋一先生にさえ、父については、話すことはありませんでした。
私は、父親に人一倍苦労や心配をかけてしまったという強い罪悪感があるためか、余程親しい友人などを除いて、父親の話をすることは、いままでありませんでした。
けれども、昨年の1月に二上洋一先生が亡くなり、それを機に、私が、いままで二上先生から受けていた無償の愛に対して、父親の愛情を思い出し、人前でも話をするようになったのです。
石森史郎先生については、『仮面ライダー』や『カゲスター』の脚本家として付き合いの長い平山先生が、私にシナリオの勉強をさせるために一昨年の夏にワザワザ御紹介していただけたのです。
ですが、いくら図々しい私でも、天下の石森史郎先生にシナリオの書き方の個人レッスンのお願いなど出来るはずもございません。
丁度、その年の無声映画鑑賞会年末恒例の忘年会に特別会員の石森史郎先生が出席され、A会員である私もその末席に座ることが出来ました。
その際、古石場文化センターの旧知の職員(昨年の春からは、所長に昇格)との間で、私が石森先生を良く知っているという話しになり、それならば、石森史郎先生に古石場文化センターでシナリオ塾を講師として講義してもらうことは出来ないだろうかという話しになり、石森先生の紹介をお願いされ、ダメもとで話しをしてみたのです。
石森先生に対して私は、
「古石場で開講したあかつきには、先生!是非、私にも先生のシナリオの書き方を学ばせて下さい」
と懇願したのです。
実のところ、石森先生には既に、私の生い立ちなどの半生を話したことがあり、シナリオとして書き上げたあかつきには、是非、一度読んで欲しい旨は伝えてありましたので、石森先生は古石場文化センターでの講義も、快諾していただけたのだと思います。
私は、文筆業といっても、漫画家や絵物語作家、少年小説の作家の研究という特殊な分野であり、文章や論文を書く専門の教育は大学でのゼミ以来今まで受けたことがありません。
大学受験時の受験科目である小論文や、国語、日本史の偏差値については、駿台予備校に通う浪人時代に、当時の駿台全国模試で東大法学部にも充分入学可能な上位100番ぐらいの偏差値を出してはいましたが、それ以降は、文学部ではないのでこれといった専門の教育は、受けてはいないのです。(なんと私の英語力は、中学生レベルの学力しかありません。筆記体はいまだに読めませんし、勿論書けないままです。なのに海外旅行の添乗員の資格だけは難関とされている運輸大臣認定試験を学生時代に一発で合格しているのだから、とても悪運が強いといえるでしょう。)
小学校の給食のオバサンとして、私が幼稚園の時から働いている母に、負担をかけるのが嫌だった私は、旅行会社の添乗員のアルバイトとして働きながら、明治学院大学社会学部社会学科の夜学で学ぶ道を選びました。
その際、昼間の生徒と併せても4年間トップクラスの成績を通し、奨学金を貰い続けることが出来たのは、今思うと、とても幸運なことだったのかも知れません。
大学への入学金や、授業料は、父が私のために進学資金を用意してくれていたおかげで、私は、学校までの通学の定期代や、教科書代、食費などの生活費を用意するだけで良かったのです。
自宅も横浜鶴見にあるため、白金高輪にある明学までの交通費は、比較的安く済んだのですから、他の働きながら明学の夜学に通う同級生に較べると随分恵まれた環境だったといえます。
私の風貌や、体格から、一般の明学生とは明らかに異なるため、仲の良かった公式野球部や空手部などの体育会の連中から、
「本間さんは、何部のスポーツ推薦で明学に入学されたんですか?」
と、真顔で尋ねられたのには、閉口しましたし、学内ですれちがうと応援団員までもが、挨拶してくるのにも正直まいったものです。
当時の社会学部の学生達の間での人気企業、日本旅行の就職試験になんとか合格することに成功しましたが、(その年の大卒総合職の受験者は、二万数千人おり、採用された同期の数は、三百人弱でした。)本来は旅行業界と文筆業の世界とでは、まるで分野が違うのです。
一口に文筆業といっても、いろいろな種類があります。
歌手に例えてみたら、ロックや、歌謡曲、演歌などそれぞれ専門ジャンルが異なることぐらいは皆さんもわかっていますよね。
文筆業でも話しは同じで、小説家やシナリオ作家、評論家やエッセイスト、絵本作家では、それぞれ書く文体が変わってくるのです。
私の文章は、素人の人からは、良く下手だと言われますが、プロの編集者からは、『少年画報大全』発表以来、直されたことはほとんどありません。
(但し、私が実質プロとしてのメジャーデビューとなる『少年画報大全』の担当編集者である添田善雄編集長は、とても厳しい人で、私が書いた全ての文章について平均3回くらいずつ書き直しを命じてきたのには、正直閉口しましたし、今でも手を抜いた文章を発表すると直ぐに見破られてしまいます。編集者として『湘南爆走族』でブレイクする前の吉田聡先生や、『ゴーマニズム宣言』でブレイクする前の小林よしのり先生を担当したことでも、出版界では知る人ぞ知る存在であり、私にとっても大恩人であり、今でも頭が上がりません。)
学校の国語教師達は皆、上手な文章を書けるけれども、プロの文筆業に成れる人は滅多にいないのが現実です。
プロの世界は、どこもとても厳しいのです。
漫画について、評論する人や、ライターはたくさんいますし、マンガ学会という組織まで出来て、漫画を研究する研究者は、今や何百人といますが、社団法人 日本漫画家協会に正会員として入会が認められた評論家や研究者は、日本で10人足らずしかいないのです。
さて、そんな訳で私が今、石森史郎先生のシナリオ塾に通ったり、父親の話しをブログで書いたりするのは、平山先生との約束を守るためであったことを今日は話してみました。
子供の頃から、その作品に親しんで来た脚本界の大御所・石森史郎先生に学び、数多くの憧れのヒーロー達を生み出してきた元東映の平山亨プロデューサーが私の書くシナリオを楽しみに待っていてくれるなんて、まるで夢のような話しです。
今年は、是非とも私の半生を書いたシナリオを書きあげるつもりです。
(季節柄、初夢の話しではありませんので念のため。)
もはや私も、写真のようなオジサンになってしまいましたが、これからも、皆さんよろしくね!
社団法人 日本漫画家協会正会員
漫画史研究家
本間正幸
私が店長をしているショッピングサイトがあります。
【漫画の匠】
http://www.manganotakumi.com
よろしくです!
今日の画像は、石森史郎先生のシナリオ塾が開催されている古石場文化センターの江東シネマプラザ第25期ユーモアとペーソスと案内板。
毎月一回映画の上映を行っています。
9月10日(木)10:00~受付開始、全6回、会費2000円となっており、
10月24日(土)
マキノ正博監督
鴛鴦歌合戦
11月28日(土)
山田洋次監督
馬鹿まるだし
12月19日(土)
小津安二郎監督
長屋紳士録
1月23日(土)
豊田四郎監督
駅前旅館
2月27日(土)
清水宏監督
小原庄助さん
3月27日(土)
古沢憲吾監督
ニッポン無責任時代
の作品が上映されます。
さて、危うくサボりかけた石森史郎先生のシナリオ塾ですが、やはり、この貴重な機会を無駄にすることは出来ません。
廊下に立たされてでも、参加することにしました。
それというのも・・・
先日、大好きな海外テレビドラマのフルハウスのNHKでの再放送が終わりました。
放送の度に何度も繰り返し見ている作品ですが、飽きることなく、深夜での集中再放送の時も見てました。
先日、DVDが発売されているのを知り、初めて第1話を見ることが出来ました。
フルハウスの舞台となるサンフランシスコの風景や家族のライフスタイルは、私が大学3年生の時、サンフランシスコ郊外へホームステイしていた時期と偶然重なり、とても懐かしく感じるのです。
私も、人の心に残るような話しを書きたいと思うことがあります。
私の少年時代に出会った昭和の時代の人々の優しさや出来事をドラマとして残してみたい。
人と人との出会いは、一期一会の場合があります。
同じ時代に生まれて、逢うことが出来る人達は限らた人達のみ。
ましてや、子供時代にその作品に夢中となった漫画家の先生方や、プロデューサー、脚本家の先生方など親子以上に年の離れた先生方と親しく話しが出来る機会なんて、滅多にありません。
憧れの石森史郎先生と逢って話しが出来るのですから、何があっても参加しなくては!
さて、今日のシナリオ塾の参加者は20名中12名と極端に少なくなりましたが、宿題となるシナリオペラ(200字詰め)120枚書き上げてきた人は5名おりました。
私は、中学生の頃から宿題を夏休みが終わってからやり始めたタイプなので、いまこそ反省しなければなりません。
2週間後の次回の授業までには、完成させておきたいと思います。
【漫画の匠】
http://www.manganotakumi.com
よろしくです!
今日の画像は、石森史郎先生のシナリオ塾が開催されている古石場文化センターの江東シネマプラザ第25期ユーモアとペーソスと案内板。
毎月一回映画の上映を行っています。
9月10日(木)10:00~受付開始、全6回、会費2000円となっており、
10月24日(土)
マキノ正博監督
鴛鴦歌合戦
11月28日(土)
山田洋次監督
馬鹿まるだし
12月19日(土)
小津安二郎監督
長屋紳士録
1月23日(土)
豊田四郎監督
駅前旅館
2月27日(土)
清水宏監督
小原庄助さん
3月27日(土)
古沢憲吾監督
ニッポン無責任時代
の作品が上映されます。
さて、危うくサボりかけた石森史郎先生のシナリオ塾ですが、やはり、この貴重な機会を無駄にすることは出来ません。
廊下に立たされてでも、参加することにしました。
それというのも・・・
先日、大好きな海外テレビドラマのフルハウスのNHKでの再放送が終わりました。
放送の度に何度も繰り返し見ている作品ですが、飽きることなく、深夜での集中再放送の時も見てました。
先日、DVDが発売されているのを知り、初めて第1話を見ることが出来ました。
フルハウスの舞台となるサンフランシスコの風景や家族のライフスタイルは、私が大学3年生の時、サンフランシスコ郊外へホームステイしていた時期と偶然重なり、とても懐かしく感じるのです。
私も、人の心に残るような話しを書きたいと思うことがあります。
私の少年時代に出会った昭和の時代の人々の優しさや出来事をドラマとして残してみたい。
人と人との出会いは、一期一会の場合があります。
同じ時代に生まれて、逢うことが出来る人達は限らた人達のみ。
ましてや、子供時代にその作品に夢中となった漫画家の先生方や、プロデューサー、脚本家の先生方など親子以上に年の離れた先生方と親しく話しが出来る機会なんて、滅多にありません。
憧れの石森史郎先生と逢って話しが出来るのですから、何があっても参加しなくては!
さて、今日のシナリオ塾の参加者は20名中12名と極端に少なくなりましたが、宿題となるシナリオペラ(200字詰め)120枚書き上げてきた人は5名おりました。
私は、中学生の頃から宿題を夏休みが終わってからやり始めたタイプなので、いまこそ反省しなければなりません。
2週間後の次回の授業までには、完成させておきたいと思います。