知と無知をめぐる思索・考察の歴史は長く、「知っているつもり」の「知識の錯覚」古代ギリシャのソクラテスに端を発しクリティカルシンキングとして現代に受け継がれている思考法などがいい例です。
『知ってるつもり 無知の科学』は、認知科学を始めとする学際的なアプローチと豊富な事例を用いてこの人類の永遠のテーマに迫ります。
ソクラテス(紀元前470~399年)曰く、賢者は全てのものと万人から学び、凡人は自らの経験から学ぶ。そして愚者は何でもよく知っているつもりになる(知ったかぶりをする)。
このソクラテスの名言を認知科学的な実験で証明したのがコーネル大学のデイヴィッド・ダニングとジャスティン・クルーガーで、ダニング=クルーガー効果と呼ばれています。
曰く、能力の低い人ほど自分の能力を過大評価し、逆に能力の高い人は自分の能力を過小評価するというものです。この認知バイアスは、能力が低い人々の内的な(=自身についての)錯覚と、能力の高い人々の外的な(=他人に対する)錯覚の結果として生じます。
能力の低い人は自分が何を知らず、何ができないのかを知らないので、傲慢になれます。「夜郎自大」や「井の中の蛙大海を知らず」と古くから言われている精神状態です。
最も無知を自覚していない人がすべて傲慢になるわけではありません。あくまでも傾向です。
能力の高い人は、自分の専門分野についての何を知らないか、理解していないかを自覚していたり、ある結果を出すまでのプロセスを知っているがゆえにその大変さも理解しており、それを成し遂げた先人たちなどに対して謙虚になるため、自分の能力に対する評価が低くなる傾向にあります。
これは「知的謙虚さ」と呼ばれるもので、それを持つ人の能力の伸びしろが大きいことを表すと人事関係者の間では解釈されており、聞く話によると、Googleではこの知的謙虚さを持たない人間を絶対に採用しないのだとか。
長い前置きになってしまいましたが、『知ってるつもり 無知の科学』は決して真新しい知見を扱っているわけではないということをまず知っておいた方がいいということを伝えたかったのです。
目次
序章 個人の無知と知識のコミュニティ
第一章 「知っている」のウソ
第二章 なぜ思考するのか
第三章 どう思考するのか
第四章 なぜ間違った考えを抱くのか
第五章 体と世界を使って考える
第六章 他者を使って考える
第七章 テクノロジーを使って考える
第八章 科学について考える
第九章 政治について考える
第十章 賢さの定義が変わる
第十一章 賢い人を育てる
第十二章 賢い判断をする
結び 無知と錯覚を評価する
本書の趣旨は人間の無知を指摘するものではありません。ましてや断罪するものでもありません。
結びの「無知と錯覚を評価する」というタイトルからもそれは察せられるかと思いますが。
「なぜ人間は、ほれぼれするような知性と、がっかりするような無知をあわせ持っているのか。大抵の人間は限られた理解しか持ち合わせていないのに、これほど多くを成し遂げてこられたのはなぜなのか。こうした疑問に答えて行くのが本書の趣旨です。
まずは知識の錯覚というものがどういう性質のものなのか、様々な実験結果を用いて詳細に見て行きます。
例えば水洗トイレなどの日常的に使うものに対しての理解度を被験者に問い、では、それはどういうものなのか説明してもらい(たいていの人は説明できない)、その後で再度そのものに対する理解度を自己評価してもらうなど(大抵は最初の評価よりも低くなる)。
また、自分の頭の中にある知識と外にあるアクセス可能な(調べれば分かる)知識の区別をしない傾向にあることも実験によって明らかにされます。
知能は個人個人の能力ではなく、コミュニティの中で認知的分業を行いつつ、共通の目標に向かってそれぞれがそれぞれの能力を持って貢献し、協力し合うところにある、というのが1つの重要な知見です。
社会は複雑で、個人が知り得ることや理解し得ることは実に限定的です。この事実を自覚していないと極端な意見に偏ったり、無用な争いを起こしたり、時に甚大な被害を生じさせたりするおそれがあります。
しかし、その一方で、自分の能力以上の錯覚をするがゆえに大きな夢を叶えるポテンシャルもあると言えるので、錯覚=悪ではない、と著者らは結論しています。
何事でもそうですが、過ぎたるは猶及ばざるが如し、ということなのでしょうね。傲慢は時に集団的暴走を招くこともあり、害悪でしかありませんが、適度な知的謙虚さを持ちつつも錯覚する(夢を見る)のであれば、それは、他の人たちの知識・能力を受け入れつつ前進して行ける原動力となり得るわけです。
逆に謙虚過ぎれば、社会貢献できるはずの能力も発揮できずに宝の持ち腐れになる可能性もあります。
結局はバランスの問題ですね。