あすか姫の七色の道

料理好きがこうじて、色々な事に興味を持ち…そんな色々な道をすすんでみる日々を綴ります。

ひとりよりも・・・つらい・・・。

2013-06-13 07:46:07 | 悩み


2003年秋、『おば』は逝ってしまった・・・。


そして、


あすかは、ひとりぼっちになってしまった。


あすかは、


幼児・児童虐待、育児放棄の被害者です。


幼児虐待は、


生まれる前から受けていました。


子供を望まないのに、


その対策をしなかった父親は、


あすかが母親のお腹にいる時から、


母親にたびたび包丁を突きつけ


「おろせ!!」と脅迫をしたそうです。


さらに・・・


母親のお腹を何度も蹴り上げました。


その為、


あすかは、


逆子となり・・・


首にへその緒が何重にも巻きつき、


仮死状態で生まれてきました。


生まれてからも、


父親からの虐待は続き、


「お前なんか死んでしまえ!!」等の暴言、


暴力は、


殴る蹴る突き飛ばすは頻繁にあり、


髪の毛を引っ張りあげられ、


引きづり回されたり、


さらに、


その髪の毛を引っ張り上げられた状態で、


ガラス戸に投げつけられたりもしました。


同様の暴言・暴力は、


母親も受けていました。


『DV』というものですね・・・。


母親もそんな父親の『DV』に耐えれず、


あすかに幼児・児童虐待、育児放棄をしました。


そんなあすかの状態をみかねた


母親の姉である『おば』は、


離れて暮らすあすかに、


普通の本当の両親の愛情・・・


それ以上の愛情を


そそいでくれました。


あすかが12歳になる年、


父親の暴言・暴力は、


あすかの命をも脅かす状況となり、


両親は別居、


離婚調停が開始されました。


やはり・・・


離婚調停では終わらず、


裁判所にもちあがり、


裁判となりました。


この調停・裁判中に、


母親は心労が原因でしょうか・・・


52歳で亡くなりました。


母親が亡くなり


『あすかをどうするか?』


という話になりました。


あすか自身は、


やはり『施設生活』を覚悟しました。

これで、


『判事』になる夢は無くなった・・・。


『判事』になって、


男と女になってしまった人間たちに


自身の経験から話しをして、さとし、


自分と同じ想いをしている子供たちの


気持ちを伝えたい・・・助けたい・・・


そんな夢はもう無理。

『施設生活』ともなれば、


さまざまな規則で、


高校までの生活となり、


それ以降は自立して、


ひとりで生きていかなければならない・・・。


もう・・・駄目だ・・・と絶望しました。




しかし・・・


あすかの『施設生活』を心配した『おば』は、


あすかを引き取ってくれました。


自営で、


固定した収入が入らないうえ、


資産もないのに・・・。


それ以来、


『おば』との生活が始まりました。


経済的に苦しかったであろうに、


あすかの


「自身で働いて全てする。」の言葉に


大学まで進学させてくれました。


大学の入学式。


一番いい着物を着て出席してくれて


あすかの初めての『スーツ姿』に


目を細め・・・微笑んでくれた顔・・・


忘れられない想いでのひとつです。


大学の卒業式。


結局、司法試験には挑戦さえできずに、


法律事務所の事務員という結果に、


何も云わずに、


『矢絣(やがすり)』の


はかま姿を着せてくれました。


1995年、


あすかは結婚しました。


あすかは、


“結婚はしない。


親以上の存在の『おば』に


一生かけて孝行する”と心に決めていました。


当時、


夫となる彼に、


あすかが受けた幼児・児童虐待、育児放棄、


『おば』がそこから救ってくれたこと、


だからこそ『おば』をひとりにはできないこと、


できれば『判事』になりたいこと


等などを話しました。

彼も彼の両親も、納得してくれたと思いました。


1998年、


『おば』が


進行性の乳がんと診断されました。


左胸部全切除予定術前の説明を、
執刀医の強い希望で、


彼とあすかのふたりで受けました。


「左胸部全切除は問題ないが・・・


過去に肺炎を繰り返し起こしたため・・・


片方の肺が機能不全になっている。


その為・・・


麻酔から覚めず・・・


そのまま逝ってしまう可能性が大きい・・・


おつらいでしょうが・・・


覚悟してください・・・。」


全身から血の気が引くのを感じ・・・


絶句しました・・・。


手術は・・・


成功し・・・無事に麻酔から覚めました。


しかし、


左脇のリンパ節に転移がみられ、


左脇リンパ節から左胸部までの


広範囲な切除手術となりました。


2000年、


抗がん剤治療で辛そうな『おば』を


ひとりにしておけない・・・と


彼とあすかが暮らす家へまねきました。


2001年、


キッチンに


『さわるな、ぼけ。


この死にぞこない。』と


乱暴に書かれた紙切れを見つけました。


そして、あわてて隠しました。


自分が気に入らないことをしたからと云って・・・


命を懸けた手術を受け、


いまは抗がん剤治療をしている人に・・・


なんてことを・・・。


人間は、


最後の最後でも・・・


絶対してはいけないこと・・・


絶対云ってはいけないこと・・・


があるはずです。


このことを、


まず、


彼の父親に相談しましが、


「そう云わせた者が悪い。」と云われました。


そして、


彼の母親に相談・・・


「あんた、失礼よ!」と逆切れされました。


この時から、


あすかの、


“ひとりになって・・・


ずっと『おば』を支え生きる”


ことへの努力がはじまりました。


まず、国家資格をいくつか取得しました。


そして、


転勤がなく、


収入も安定している仕事に就きました。


しかし・・・


2003年のはじめ、


『おば』のがんが、


かろうじて機能している肺のほうに、


転移していることが判りました。


しかも・・・余命は・・・数か月・・・。


それからというもの・・・


さらにいろいろと必死になりました。


でも・・・・


『おば』は逝ってしまいました。


あすかは、


最後に『おば』には、


安心させてあげれたでしょうか?


このことを・・・


いまもずっと問い続けています。


『おば』が逝ってしまって


月日がながれて・・・


ひとりで生きることができないでいる


いまのあすかをみたら・・・


どんなにか心配をかけているかと・・・