京都逍遥

◇◆◇京都に暮らす大阪人、京都を歩く

初甲子祭

2010-01-14 17:57:46 | まち歩き

あまりに寒くて、出かけるのを迷ったが、お昼に行ってみた。松ヶ崎大黒天の初甲子祭。前回同様、賑わっているというほどでもないが、そこそこ参拝客がいる。

大黒堂では、結界の向こうでお坊様がお経を上げている。今日は大黒さんのいらっしゃるところも明かりが灯っていて、大黒さんがちらっと見えた。この大黒さんは、最澄の作とされ、日蓮が開眼したと伝えられている。先日もらってきたフライヤーには「霊験あらたかな日本一の大黒さま」と書かれていた。

叡電修学院駅前踏切北側(北山通)には、案内板でなく石造りの道標(明治24年建立)があった。「左 松ヶ崎大黒天道」「右 赤山 三宅八幡 八瀬/大原 比叡山横川」とあるが、「右」は線路の柵と植木に遮られてあまり見えない(写真下・左)。高野川にかかる松ヶ崎橋を過ぎた辺りにも、案内板(写真下・右と同じもの)。旧道に入る信号の所に、次の案内板(写真下・中)。 旧道を進むと、矢印のついた案内板(写真下・右)があり、その矢印の方向(北側)に、大黒天の鳥居がある。

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10_005_2 鳥居を北に進むと、家々の屋根のすぐ上に「法」の文字(写真右)が見え、これが意外と低い所にあることに驚く。京都盆地は、北に行くほど海抜が高いのだ。京都の街中からは、この高さでも充分見えるのだろう。そうだ、出町柳辺りから北に向かって自転車で走り、結構いい運動・・・と実感したのだった。地図で確認すると、「法」は海抜140~160m辺りにある。松ヶ崎の住宅地の海抜は、70mぐらい。京都市南区役所HPによると、同区の海抜は、最高でも28m(東九条河原町付近)とのこと。九条から下鴨・松ヶ崎にかけて、ゆるやかな勾配が続いていることがわかる。鴨川は、北から南に流れているのだから、当然といえば当然か。

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大黒天の北西山門から階段を下り、続く道を行くと、保育園を併設した涌泉寺(写真左)に行き当たった。ここは柵があったので、外から撮影しただけ。山を背景にした静かなお寺に、子どもらの声が響く。

松ヶ崎の山々の麓には、寺や神社が並んでいる。西から、天光会教会、末刀岩上神社、新宮神社、七面祠、生師廟、涌泉寺、妙円寺松ヶ崎大黒天、白雲稲荷神社、星光教会。1500mほどの間にこれだけ。西に続く、神宮寺山の麓には上賀茂神社。教会は別として、これらはどれほど古い創建なのだろうか。いずれにせよ、山がご神体であった古の時代があり、人里離れた山の中に寺を作った昔があった。山の空気の静謐は、それだけで聖なる空間にふさわしいのかもしれない。

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松ヶ崎大黒天

2010-01-07 00:42:00 | まち歩き

北山通り北側の旧道を通る度、気になっていた、松ヶ崎大黒天。山号・松崎山(しょうさきざん)、正式名・妙円寺。開山は日英上人、日蓮宗の寺である。1616年の創建。本尊は久遠実成本師釈迦牟尼仏と、「都七福神」の一つである大黒天。京の表鬼門にあたるここで、都を守護しているのだ。松ヶ崎東山の麓に位置するこの寺は、同山で行なわれる五山送り火「法」の文字に使用する護摩木を祈祷する寺でもある。

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写真上・左は、旧道に面した鳥居、写真上・右は、鳥居をくぐった先にある燈籠。この燈籠の正面にある鳥居は、白雲稲荷神社のもので、大黒天の参道(写真下・左)は、左側に延びている。

10_027 この参道を左に折れると、鳥居から続く急階段の先に、山門が見える(写真下・右)。

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神社で見かけるような丹塗りの燈籠、鳥居、注連縄、紙垂、山門の柱につけられた松の幼木。その上、山門の前には狛犬(写真下・右)がいた。そうして、「都七福神めぐり」の看板。ここの大黒様は、密教の大黒天でも、仏教の大黒天でもなく、神道の大黒天なのだろう。それでも、この寺が発行しているリーフレット「松ヶ崎No.224」によると、「松ヶ崎大黒さんの御幣」は「寿福円満・開運招福・身体健全をご守護下さる大黒様のご神体」で「ご自宅のご神棚か、又はお仏壇に六十日間お祭りし」とある。神道、仏教に関わらず、大黒さんは大黒さん、ということか。

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なるほど、神社に祀られている都七福神は、日本古来のえびす様だけなのだ。道教起源の福禄寿・寿老人、中国仏教起源の布袋。大黒天は、毘沙門天・弁財天と同様、ヒンドゥー教起源の神であり、仏教の守護神として取り入れられたものだ。

山門をくぐると、左手前方に、大黒堂(写真下・左)がある。お堂の前には、黒光りする撫大黒がおられた。お堂の中にも撫牛が。お堂では、雅楽が流れている。このお堂のご本尊は、松の内と甲子祭(今年は1/14・3/15・5/14・7/13・9/11・11/10)に、ご開帳されるらしい。今日は暗くてよく見えなかったが。大黒堂の向かいには、絵馬堂(写真下・右)。「大黒天そば二百円」と張り紙があった。出汁のいい匂い。松の内は、お堂で「松ヶ崎大黒さんのカレンダー」を配付している。

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写真上・左の撫大黒は、写真の通り、黒い石の彫刻である。元々、日本で受容された大黒天は、青黒あるいは黒で、憤怒の形相だったらしい。それが、同音ということから、日本神話の大国主命と習合し、福々しい笑顔の姿に変容する。後には、秀吉が崇敬したという三面大黒天(毘沙門天・弁財天の頭が大黒についたもの)なども見られるようになった。

さて、シヴァ神の別名であるマハーカーラ(マハー=偉大な,カーラ=黒、時間)の直訳が「大黒天」だということは、『ヒンドゥー教(中公新書)』に教えられた。シヴァ神は、ヒンドゥー教三大主神(ブラフマー・ヴィシュヌ・シヴァ)の一つであり、それら三神一体説というものもあった。 三面大黒天とつながりがあるのか?

ブラフマーは創造、ヴィシュヌは維持、シヴァは全知全能(吉祥と不祥、破壊と恩恵)の神である。ヒンドゥーの三神一体説は、宇宙の生成と繁栄と消滅、といったスケールの大きさを感じる。一方、三面大黒天は、福をもたらす神々(三神ともなぜかヒンドゥー起源)を一緒にして、さらなる現世利益を願うものだ。「一緒にする」「まとめる」という方法こそ同じだが、その意味がまるで違う。

大黒堂の隣には、もう一つのご本尊が祀られているであろう本堂(写真下)がある。

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この本堂の前を通り過ぎると、北西に向いた山門が。その先は、さきほどの南西に向いた山門と同様、急な石段になっている。この山門の軒丸瓦は、妙円寺の「妙」の文字(写真下・右)。幕には井桁に橘の紋(写真下・左)。

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南向きの山門の幕(写真下・左)は、一つ槌紋のようだったし、軒丸瓦(写真下・右)も同様だった。打出の小槌は、福袋・米俵と共に、大黒天のシンボルである。同じ境内でも、軒丸瓦がそこここで違っていることはよくあるが、山門の幕の紋が違っているのは初めて見たように思う。

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手水舎の軒丸瓦(写真下・左)には「甲子下組」の文字に木槌紋。さきの燈籠の火袋に描かれていたのも木槌だった。

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写真上・右は、南門から見た景色。なだらかな坂を少し登った後、数十段の急階段を登っただけなのに、この見晴らし。正面に見える山は、大文字山だろうか。

「都七福神めぐり」は、1/1~31。市バスに、京都定期観光バスのポスターが掲げられていた。期間中毎日1便運行している。萬福寺と赤山禅院は少し離れているから、電車とバスを乗り継いで一日で回るのは難しそうだし、自家用車で駐車場を探すのも難しそうだし、もし巡拝するなら、バスに限ると納得。

10_004 14日は、初甲子祭。このポスターは、境内にあったもの。

そういえば、叡電修学院駅に、松ヶ崎大黒天の案内板か何かがあった。修学院駅からは徒歩10分程度、地下鉄烏丸線松ヶ崎駅からもほぼ同じ距離。京都の町の北の果てに近いが、行きやすく、静かで、ほどほどに参拝者もいて、開運招福のご利益があるとなれば、言うことなし。

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上賀茂神社

2010-01-06 01:37:10 | まち歩き

上賀茂神社(賀茂別雷神社)へ。

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写真上・左は、駐車場入り口に掲げられた横断幕。写真上・右は、一の鳥居。

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二の鳥居(写真上・左)をくぐると、立砂の向こうの細殿(写真上・右)には、たくさんのお供え物。この立砂の右側には、ぎっしりと結ばれたおみくじが、白いツリーを象っている(写真下・左)。

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楼門(写真上・右)の内側の柱2本には、厄除卯杖(写真下・左)が、結ばれていた。

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楼門前の解説文に依れば、この卯杖(=祝杖=卯杖寿)は、中国で邪気を祓う角棒「剛卯」を腰に吊るしたものから来ているらしい。お札は、これが元になったものだとか。日本では平安時代に遡る風習だそうで、宮中で、初卯の日に、厄除けのお守りとして飾ったという。それが神社で神事として行なわれるようになった、とのことだ。「現在は当神社のみ絶える事なく毎年『初卯神事』をご奉仕」とある。確かに、私は初めて見る。そういえば、今日(1/5)は初卯の日だ。

楼門の向こうのテントでは、本殿・権殿特別参拝(1000円)を受け付けていた。直会殿に上がると、廊下の屋根には、吊り燈籠がいくつも飾られ、金色のそれらには、神紋・二葉葵の彫刻が。しばらく待つと、宮司さんが来られて、神社の由来などお話と、お祓いをしてくださった。幕の向こうは、白砂を挟んで東西に本殿と権殿。靴を履いて、両殿を目の前にすると、下鴨神社本殿を目にしたときと同じく、見惚れてしまった。1863年造営という桧皮葺の権殿(国宝)は、それは静かに日本的な美を湛えている。軽やかながら、重厚さを感じさせるのだ。流れ造という建築様式らしい。式年遷宮は、下鴨と同様、現在では修理することで遷宮としている。箒目の入った白砂に下り、権殿前で、巫女さんの鈴のお祓いを受ける。それから、宮司さんによる社殿の解説。

権殿でも本殿でも、下鴨と同様、社殿の上で唐風の狛犬が守っている。違うのは、社殿の壁に描かれた狛犬、「影狛」。狩野派の絵師によるこの絵は、社殿の上に鎮座する狛犬たちの影を写し取って描かれたもの、と言われている。向かって右側に金色と緑の狛犬(阿形)、左側には銀色と青の狛犬(吽形)。壁に描かれたものと、像とは、色調も呼応していた。像と絵とで二重に守る、ということなのだろうか。

御祭神は、賀茂別雷神。「雷を分けるほどの力を持った神」と説明があった。では、なぜ本殿と権殿が?聞けば「この両殿を通して北にある神山を拝している」とのこと。神山は、その御祭神が降臨したとされる山。「神官制度の関係で宮司と禰宜の両方がお供えをする場所が必要だったから、二殿あるのでは」と言われたが、どうもすっきりしない。「権殿」とは何なのか。下鴨でも東西両殿を本殿としていたが、それは御祭神が二柱だから。

何かわかるかも・・・と期待して京都市歴史資料館HP(フィールドミュージアム京都)を探したが、納得のいく説明には出合えなかった。わかったことは、上賀茂神社の方が歴史が古く、奈良時代中頃以降、下鴨神社が分かれたらしい、ということだけ。それなら、下鴨神社は、上賀茂の本殿二つを踏襲した、とも考えられる。

4時半から舞殿(橋殿)で、舞楽の奉納があった。平安雅楽会による雅楽の演奏と、「抜頭」という舞。始まる前の解説を、日本語と英語の両方でしていたのは良かった。外国人の見物客もいたことだし。

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上の写真は、頭巾をつける舞手(左)、お面をつける舞手(中)、舞台に上がる舞手(右)。夕方、日が翳り、底冷えがした。そのせいなのか、雅楽の演奏がもうひとつだった。雅楽に詳しい訳ではないが。

話は戻るが、特別拝観の最後に、宝船(写真下・左)を頂いた。

10_026 下鴨神社の丹塗り矢と一緒に、飾って(祀って?)いる。

「国宝・本殿特別参拝とご神宝の拝観」は、5月の数日と、年末年始を除いて年中行なわれている(初穂料500円)、と、下鴨神社HPにあった。私は、お正月に参拝するのは初めてだったので、毎年、年始に、このような形での特別参拝があるかどうかはわからない。

今日、ご神宝の拝観なく残念だったけれども、また来ればいいのだ。次は、梅の日(6/6)にでも。

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初詣

2010-01-04 01:47:38 | まち歩き

京都市内の神社に初詣というのは初めてだ。元日、下鴨神社に行ってみた。

数えてみたわけではないが、糺の森の参道に、屋台が30~50。フランクフルト、お好み焼き、リンゴ飴、木の芽煮・・・。参道の片側だけに並んでいるならまだいいが、一部分は両側に屋台が並び、油の混じった煙と臭いが。着物で、ここを歩くのは、かわいそう。

昼過ぎでも、楼門からは参拝のために並ぶほど。後ろで「今年は多いね。テレビで紹介されたからかなぁ。」と話し声がする。

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写真上・左は、参道を歩ききった所にある鳥居。写真上・右は、楼門前に掲げられた幟。徳川葵と上下逆の三つ葉葵の紋が見える。楼門をくぐれば、眼前に虎の描かれた巨大絵馬。

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舞殿の階段に置かれたこの絵馬の前で、何人も入れ替わりたち代わり記念撮影。ゆっくりと進む列は、さらに門をくぐった。国宝の本殿や、三井社を取り囲む塀の門である。正面には東西二つの本殿、左右には干支の社があった。寅の社に手を合わせて帰ろうとすると、「本殿の特別拝観を行なっています」と呼び声がする。見ねばなるまい。

本殿の拝観と言っても、内部は無論のこと、近寄ることさえできない。ただ、西本殿手前の部屋から、20メートルほど離れた西本殿を眺めるだけである。さかんな呼び声の割には、拝観料を払って見る人は少なく、私は一人で解説を聞いた。それは、玉依媛命が川で禊をしているときに流れてきた矢が賀茂建角身命となり、二人が夫婦となって生まれた子どもが上賀茂神社主神の賀茂別雷命、というよく知られた話のみ。西本殿前に鎮座する唐風の狛犬(青い犬と緑の獅子)の解説などを、もっと聞きたかった。解説はそうだとしても、開け放たれた部屋のガラス戸の向こうに存在する本殿は美しく、冷たい空気の中で凛としており、厳粛な気持ちにさせられる。信仰の対象だから、と写真撮影はできなかったが、だからこそ、また見てみたいと思う。21年毎に遷宮、最近は大規模な遷宮でなく補修をしているとも聞いた。補修の方が、断然いい。本殿が新しい建物だと、興醒めする・・・。

拝観チケットには「国宝『賀茂御祖神社本殿』御垣内特別参拝」「重要文化財『大炊殿』・『御車舎』」と記載がある。公開期間は元日から5日まで。葵の庭に入ると、神饌を調理していた大炊殿や、葵祭で使用する自動車を保管する御車舎、同様に葵祭で使用する牛車、平山郁夫による糺の森の絵画などを見ることができた。

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写真上・左は葵の庭、

写真上・右は御車舎、

写真下は牛車。

みたらしだんご発祥の地であり、丹塗りの神矢発祥の地である下鴨神社。お守りも、おみくじも、お札も、今までまるで興味がなかったが、せっかくなので守護矢を買ってみた。みたらしだんごは、巫女さんの前には並んでいなかったな。

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同梱されていた説明書の記載によると、家内安全・除災招福・縁結び・安産・子育・厄除の守護矢なのだそうだ。

恭賀新禧。良い一年となるよう、願って。

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