京都逍遥

◇◆◇京都に暮らす大阪人、京都を歩く

詩仙堂

2014-05-20 15:59:20 | まち歩き

今年もサツキの季節が近づいてきた。「京都観光Navi」の「花だより」では、詩仙堂のサツキは5月15日現在「咲き始め」とのこと。今夜は雨の予報なので、降る前に行ってみた。

http://kanko.city.kyoto.lg.jp/

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座敷から見えるサツキも、写真集でよく見る階段周りのサツキの群生も、殆ど開花していない。

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池の向こう、陽当たりのいいところに植えられたサツキが、まさに咲き始め。

受付の方は「1週間から10日ぐらいで」とおっしゃっていたが、思うに、見頃は2週間ほど先になりそう。人が多すぎるとゆっくりと鑑賞できないし、見頃を外すと悔しいし、悩ましいところ。

この先の、古木に囲まれた石碑の近くには、実生の万両(多分)が、いくつもかわいらしい姿を見せていた。

027 藤棚の周りには、タンポポが散見され、驚いた。前は、なかった。ここは、自然を目指して作りこんだ庭。苔の間から茎を伸ばした何種類もの茶花は、そこにあるのがいかにも自然。だが、タンポポは。この綿毛はこの庭を少しずつ侵食するに違いない。

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妙蓮寺

2014-05-07 22:53:08 | まち歩き

「平成26年度 春季 京都非公開文化財 特別公開」の最終日(5月6日)、長谷川等伯一派の障壁画を見に、妙蓮寺(本門法華宗 大本山)へ。

妙蓮寺の創建は、1294年。開祖は、法華宗の日像上人(1269~1342年)。日像に帰依した柳酒屋が、「卯木山妙法蓮華寺(柳寺)」として邸内(下京五条坊門西洞院、現・仏光寺通西洞院南西)に建立したという。山号「卯木山」は、この「柳」を偏と旁に分解したもので、卯木(空木)のことではないらしい。『都名所図會』では「はうもくさん」とルビが振ってある。

*都名所図會「妙蓮寺」(日文研HP):http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/page7t/km_01_008.html

柳酒屋は、室町時代の高級ブランド「柳の酒(柳酒)」の製造元である。「富商(国立国会図書館HP)」でなければ、寺など建てられない。

*レファレンス協同データベース「レファレンス事例詳細」(国立国会図書館):http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000067817 

その後、寺は衰微したが、柳酒屋による再援助もあり、応永年間(1394~1428年)、日慶(1397~1478年)が同地に再興し、永享年間(1429~1441年)に移転(大宮四条下ル)、「妙蓮寺」と改称した。(妙蓮寺HP「拝観」の項で「永亨年間」とあるのは永享の間違い)

日慶は、在籍した妙本寺(妙顕寺)の月明僧正と対立して寺を出ている。妙蓮寺HPやウィキペディアでは、この理由を法華経の解釈の対立(法華経の前半と後半が等価値かどうか)とする。法華経は、天台智顗(隋の高僧 538~597)によって、迹門(前半1~14品:垂迹した仏の説いた教え)と本門(後半15~28品:久遠実成としての仏)とに分けられた。その迹門と本門を等価値とする「一致派」と、本門を重視する「勝劣派」との対立、である。寺を出て、やって来たのが、「一致派」の日像が創建し、衰退していた妙法蓮華寺。それを、「勝劣派」の日慶が、「本門八品門流として再興(妙蓮寺HP)」したことになる。「八品派(現・本門法華宗と法華宗本門流)」の祖は、「西洞院柳酒屋の像師堂(のちの妙蓮寺)で研鑚」した日隆(1385~1464年)。(京都市のHPで、妙蓮寺を四条門流とするのは間違い)

*『梅原猛、日本仏教をゆく』梅原猛(朝日新聞社)

*大本山妙蓮寺 沿革(妙蓮寺HP):http://www.eonet.ne.jp/~myorenji/enkaku.html

*日慶(ウィキペディア):http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%85%B6

*門流(ウィキペディア):http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%80%E6%B5%81

*1300夜「法華経 上下」(松岡正剛の千夜千冊HP):http://1000ya.isis.ne.jp/1300.html

*朝日日本歴史人物事典「日像」(コトバンク):http://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E5%83%8F

*世界大百科事典第2版「日隆」(コトバンク):http://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E9%9A%86?dic=sekaidaihyakka

*都市史15天文法華の乱(京都市):http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/toshi15.html

1536年、天文法華の乱で焼失し、堺へ避難。

1542年、後奈良天皇による法華宗帰洛の綸旨を受け、大宮元誓願寺通で再建。現在も、西は智恵光院通から東は大宮通までの元誓願寺通両側に、「元妙蓮寺町」の名が残る。

*「街の達人 京都大津便利情報地図」(昭文社)

1587年、秀吉の命で現在地(堀川寺之内妙蓮寺前町)へ移転。寺は現在地に定まったものの、1788年には天明の大火でほとんど焼失、1789年、伽藍を再建して今に至る。

*大本山妙蓮寺 拝観(妙蓮寺HP):http://www.eonet.ne.jp/~myorenji/haikan.html

*京都西陣観光マップ「妙蓮寺」(冨田屋HP):http://www.tondaya.co.jp/map/myouren/myouren.html

前置きが長くなったが、今回の特別公開では、天明の大火で焼失を免れた障壁画や本阿弥光悦筆の『立正安国論』、また1857年に寄進された『松尾社一切経』などが展示された。

重文の、長谷川等伯一派による襖絵『鉾杉図』を観ようと出かけたのだった。その襖は、南向きに『紙本金地著色松桜図』、北向きに『鉾杉図』となるよう、奥書院に立てかけられていた(桟に嵌めずに)。普段は、ここ(北側)に幸野楳嶺(1844~1899)の四季の襖絵があり、「冬の間」と呼ばれているらしい。鉾杉図の隣の「秋の間」では、銀箔なのか銀砂子なのか、銀地に満月や秋草を配して、薄暗い中でもいい感じだった。だが、『鉾杉図』自体は、薄暗さがあだとなったのか、チラシの写真で見たような緑の濃淡もはっきりと判別できず、期待外れ。襖は、横幅はあるのに小さく感じ、心に迫るものがなかった。通常は収蔵庫で保管しているが、3月の「春の等伯展」では南向きに置かれていたようなので、とても残念。鉾杉図は、襖4面に描かれていて、一番左側の絵の左肩から桜の枝が伸びていた。この襖は松桜図と表裏に表装されていて、裏側にある桜とつながっているようだ。本来、どこに合わせた襖なのだろう。

*大本山妙蓮寺 ご案内(妙蓮寺HP):http://www.eonet.ne.jp/~myorenji/annai.html

*妙蓮寺 内容概要(京都観光NaviHP):http://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=1&ManageCode=1000225

さて、『紙本金地著色松桜図』。宝物殿に収められているものは、金箔こそしっかりしているものの、松の枝も、桜の花も、なんだかぼんやりしていて傷んでいるような感じがした。奥書院の松桜図は、離れて見ることしかできなかったが、ずらっと並ぶとやはり壮観。退色・劣化のためなのか、元々のものなのか、個人的には筆致は好みではなかった。ただ、デザインは大胆で、面白い。妙蓮寺所蔵の等伯一派による障壁画は総数38面(全て重要文化財)で、襖だけではなく、天袋にも描かれているらしい。納まるべきところに納まった障壁画の全体像を、写真でもいいから見てみたいものだ。

*妙蓮寺(京都市)(ウィキペディア):http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%99%E8%93%AE%E5%AF%BA_(%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82)

これら、等伯一派による障壁画は、妙蓮寺の依頼によるものだろうか。あるいは、本法寺(1436年 日親聖人創建 日蓮宗)の大檀越である等伯(1539~1610年)が、寄進したものだろうか。

宝物殿でガラス越しに展示物を見て感じたのは、液晶画面にモスアイパネルがあるのなら、映り込みの少ないガラスがあってもいいだろうに、ということ。

先日、新聞で「松尾社一切経」の記事を読んだ。一切経とは、「経(教義のまとめ)」、「律(修行法・戒律)」、「論(経の注釈)」をまとめた叢書のことで、大蔵経とも言う。宋からもたらされた漢訳経典を、12世紀、松尾大社の神宮寺で書写したものらしい。ひどく傷んでいるが、貴重なものだとか。確かに虫食いがひどく、ガラスケースの中で、痛々しい姿を見せていた。

*ボロボロでも貴重「幻の一切経」京都妙蓮寺で公開中(朝日新聞DIGITAL):http://www.asahi.com/articles/ASG4Z3WHXG4ZPLZB00C.html

表書院と奥書院の間にあり、両方から見ることのできる「十六羅漢の庭」については、書き記すことがあまりない。秀吉が寄進した立派な「臥牛石」のほか、15の石を配した枯山水の庭園は、箒目が浅く、全体にさほど興味を引かなかったのだ。最初に見た表書院からの眺めが、あまり良くなかったせいかもしれない。庭園の名の由来は、臥牛石を、横たわって両手を合わせた釈迦になぞらえ、他の石と、見ている自分とを合わせて「十六羅漢」としたことによる。

最後に、寺紋は、丸に三つ楓。本堂には、ほかに丸に橘、丸に輪鼓、丸に一文字(あるいは丸に一引両)の紋が見られた。

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