京都逍遥

◇◆◇京都に暮らす大阪人、京都を歩く

下御霊神社・還幸祭

2012-05-20 17:10:25 | まち歩き

上御霊神社の祭を見て、下御霊神社の祭を外すわけにはいかない。5月第3日曜日が還幸祭である。

上御霊と同様、神泉苑御霊会での六座に加えて吉備聖霊・火雷天神の計八座「八所御霊」を祀る。創建は「本当の所は全く不明(下御霊神社HP)」としながらも、「おそらく」神泉苑御霊会と同時期とのこと。「愛宕郡出雲郷の下出雲寺(のちに廃絶)の境内に鎮座」の後、新町出水の西に移転、1590年現在地へと変遷している。御所を挟んでその東側の北と南に、ほぼ同時期に御霊神社ができた、ということか。

下御霊神社HP( http://shimogoryo.main.jp/ )

1201 写真後ろに見えるのは、京都御苑の緑。

HPに依れば、神幸列の出発時刻は10時だが、かなり前から寺町通丸太町上る京都市歴史資料館辺りに、スタンバイしていた。

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下御霊神社敷地はそう広くないので、自転車置き場は設けられていない。

1208 寺町通東側にある鳥居。神社前から二条通まで、南側歩道は屋台が立ち並んでいた。

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鳥居の奥にも屋台がいくつか。来年の修理のため協賛金を募っていたが、確かに塀も、拝殿も修理の必要がありそうだ。

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上御霊さんでは境内に人がいっぱいだったが、ここはスペースの関係もあり、神輿関係者ばかり。参拝したり、安置された神輿を見たりしているうちに、神幸列出発を見逃してしまった。

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河原町通でやっと追いつき、剣鉾を確認。差し手が鈴の音をさせて剣鉾を持って先導した後、台車に乗せられた剣鉾も通る。台車にかけられた幕の菊紋は、もちろん皇室の紋。剣鉾8本は、江戸期の歴代天皇が寄進したものらしい。

同HP(http://shimogoryo.main.jp/index.php?%E9%82%84%E5%B9%B8%E7%A5%AD) 

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行列は、河原町通を北へ、荒神口で東に入った。神幸列も神輿も、氏子地域を練り歩くが、神輿は、その外周のみ。

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さて、その神輿だが、1709年東山天皇が寄進したという「大宮神輿」は、祭りで担がれることはなく、拝殿に安置されている。巡行に出るのは「若宮神輿」で、狭い道でも巡行できるよう作られ、1743年に改造されて今に至るとか。

神輿の先導は、提灯を持つ中学生ぐらいの少年たち。提灯には旧小学校区名が記されている。今でも地域は、旧学区をもとにまとまっているのだろうか。

1236この少年たちは、鉢巻に枝を挟み込んでいた。葵祭のアオイのように。祭りの法被を着たおじさんに何の葉かと尋ねたら、「葵じゃないみたいや。オモダカらしいで」と答えてくれたが、オモダカではないように思う。

1240 オモダカは、提灯や法被に見えるこの神社の神紋(オモダカに水)の元になった水辺の植物である。この鋭い三枚葉が特徴。オモダカにもいろんな種類があるのだろうが、彼らが身につけていたのは、丸い葉のように見えた。

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11時半。神輿は寺町通を北へ向かった。

 

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御靈祭

2012-05-18 22:31:25 | まち歩き

上御靈神社で、御靈祭渡御の儀(還幸祭)が行われた。剣鉾も出るというので行ってみた。

平安遷都(794年)にあたり、桓武天皇が同年、崇道天皇の霊を祀ったのがこの神社の起こりらしい。祇園祭や八大神社でも言及したが、御霊会は、朝廷によって863年神泉苑で行われたのが記録にある始めと言われる。このとき祀られたのが当時、不遇の中で死した「六所の霊(崇道天皇・伊予親王・藤原吉子・藤原仲成・橘逸勢・文室宮田麻呂)」である。この神社の祭神は「崇道天皇の神霊…(中略)…其後…(中略)…井上内親王、他戸親王、藤原大夫人、橘大夫、文大夫の神霊を合祀…(中略)…後更に以上六所の荒魂、火雷神と吉備聖霊とを併祭(京都神社庁HP)」とある。

同HPには「京都の夏祭りの多くは御霊会ですが、当神社の祭礼はその発祥」とされている。

(京都神社庁HP:http://www.kyoto-jinjacho.or.jp/shrine/02/004/index.html

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1227_21201_2                      道路にずいぶん自転車が停められていたが、西側の鳥居の内側にちゃんと1212 駐輪場が用意されていた。

1204 沢山の屋台が出ていて、祭の雰囲気大いにあり。

12時過ぎに到着したときにはまだ人出は少なかったが、神輿渡御の時間が迫るに従って、だんだんと混んできた。

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その場で小耳に挟んだのだが、三基の神輿は毎年巡行の順が違うらしい。「今出川口」と書いた法被を着た人たちが担ぐ神輿が先頭。(ここのも担いでいた。)

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二番手は「小山郷」の法被を着た人たち。

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最終は「末廣会」の法被の人たち。この神輿は、さきの二基とは見かけだけではなく、違っていた。威勢のいい掛け声に、派手な担ぎのパフォーマンス。見ていて楽しい。

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これらの神輿(行列すべて)が出てきたのは南側の門から。石柱に時計がはめ込まれているのが不思議。

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1時前から巡行は始まり、5~6時間かけて、氏子地域を練るらしい。社務所で神社が発行する広報紙「ごりょうさん」を頂き、地図と通過時間を確認する。かなりの距離。

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1864年に祭列が御所を通って御旅所(寺町通広小路)へ向かった際、孝明天皇と子どもであった明治天皇が、朔平門で神輿渡御を迎えたことがあったらしい。御旅所がなくなり、遷都で御所が整備され、祭列が御所敷地を通ることもなくなったが、再び京都御苑今出川御門から御所朔平門までを往復することになったという。

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先頭の太鼓のあと、鉾が続く。全て車で引いており、八大神社・須賀神社とは違っていた。

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牛車(祭神・猿田彦)と神輿は門を入るが、若武者行列など、ほかは今出川通で待機。

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今出川通から河原町通にかけて、幟が立ち並んでいた。

1229_2 風にはためいているが、藍色の幟は「今出川口」である。

1202 これら上部にある神紋は、もちろん神社の提灯にも。

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詩仙堂

2012-05-17 18:10:57 | まち歩き

久しぶりに詩仙堂へ。京都観光NaviHP「花だより」でサツキは「まだ」との記載を確認したが、天気が崩れる前に行ってみた。

1215_3 鋏の音が響いている。

9時半ごろ着いたのだが、庭師の方が三人ほど、植え込みの手入れをされていた。

10時過ぎには職人さんたちの姿はなく、立ち入り禁止の石垣の道に、片づけを待つ切り落とされた葉。

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さつきは、まだまだ。固いつぼみさえ、わずかに2~3見られるのみ。一輪だけ開花していたが、この分だと、来週末も、まだ見ごろにはならないだろう。

そうして、他の花を探して歩く。

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庭の奥まったところで、ツツジが花を残していた。裏から音楽が聞こえる。これまで一度もこういうことはなかったが、幼稚園か保育園でもあるのだろうか。

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建物に戻り、庭を眺める。少し大きくなりすぎて、こんもりと丸い樹形から平たく形がかわってしまったサツキを眺める。足元のギボウシも、ほとんど隠れてしまった。

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1208 写真(上・左)右側に、小さな石の塔がある。

これまで気づかなかったが、よく見ると、上段がゆがんでいる。危ない。

サツキがまだ咲いていないときこそ、観光客も少なく、ゆっくりと新緑を堪能することができる。そうだ、山茶花をまだ調べていなかった、とふいに思い出した。この庭にかつてあった山茶花。

1204 通路の竹を見ながら帰る。

通路西側にある数本は、根があらわになってかわいそう。

もとは小高く土を盛っていたのだろうけれど。

1203_2 東側は・・・と見ると、なんと何本もの筍の伸びた姿が。

今年の筍がこんなに伸びて、竹林はこうして密になっていくのだ。

1237 先日の、八大神社神幸祭のときには、入り口の門に提灯が二つ掲げられていた。

撮影しておけば良かった。

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葵祭2012

2012-05-16 22:36:51 | まち歩き

雨のため順延された葵祭が、今日無事に開催された。下鴨・上賀茂両社の例祭の一部であり、平安の昔からの歴史ある路頭の儀。とは言っても、もし今日(16日)も雨なら、中止の予定だった。

雨による順延は1997年以来15年ぶりらしい。中止になった記憶もあるので調べてみると1995年だった。2000年、2002年、2003年は下鴨神社から上賀茂神社への巡行が雨で中止になったというが、知らなかった。(以上ウィキペディア参照)

02 11時20分頃、下鴨茶寮から南の道は車両通行止めになっていた。行列の下鴨神社到着予定時刻は11時40分。

行列は、河原町通を左側通行で北へ。西側歩道は人でいっぱい。南行きはいつものようにバスや自家用車が走り、東側歩道は、自転車でも通行できる程度の混み具合。

03 傘鉾は、剣鉾と同様、差袋で支えられていた。剣鉾の差袋は差し手の腕の長さほどだったが、葵祭の傘鉾の差袋は、ほとんど足首まであった。大きくてバランスを取りにくいからだろうか。

06 北大路通では、南側歩道で行列を見ていた。勅使の乗る馬は、頭にまで飾りが。

05  斎王代の腰輿が近づく。せっかく選ばれたのだから、晴れて良かったな、と他人事ながら思う。

04_2 牛車が最も華やか。そして、これが最も平安時代らしい。河原町通で見た行列は、牛車の後にも続いていたが、北大路通では、牛車が行列のしんがりを務めていた。はて。

ところで、朝日新聞16日付夕刊には、「京都御所を出発する葵祭の行列」とキャプションがついて、御所の屋根と木々の緑をバックに、藤で飾られた牛車が進んでくる写真が掲載されている。数年前に御所で祭を見物したときも、この位置に新聞社の脚立がいくつも並んでいたのを覚えている。建物と緑、重厚な牛車は、確かに絵になる。それにしても。5月8日付「第2京都」面の「週刊まちぶら京滋版」写真(昨年の葵祭)と同じ構図の写真を掲載するとは、芸がない。

その「週刊まちぶら」の葵祭特集では、「行列に参加する男性約450人の平安装束」を担当する木村新造装束店を取材している。「祭りが終われば、約2ヶ月をかけて装束を手入れし、京都御所に保管。痛んだ装束があれば、過去の資料をもとに新調する」とある。

雨に降られようものなら、装束の手入れが大変だ。手間も金額も。少し暑かったけど、晴れて良かった。

ついでに。小雨が降っていた昨日の朝、順延かどうか調べていた。早かったのは京都新聞HP。7時19分付でニュースが出ていた。下鴨神社HPのトップページでも、社頭の儀だけ行う旨、掲載されていた。毎日新聞HPでは、10時47分付。京都観光NaviHPにも掲載あり。上賀茂神社HPでは、私の見た限り、お知らせはなかった。

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須賀神社神幸祭

2012-05-13 23:44:16 | まち歩き

剣鉾を見に行こうと思い、一昨年出かけた須賀神社へ。

1204 12時。鳥居脇で何人ものバイトの方々が白装束に着替え中。座り込んで食事中の方も。

1203 巡行を待つ小物たちが、無造作に出されている。

さすがに剣鉾は、ここには置かれていない。

1202 ところで、鳥居前の由緒書には、神幸祭は「5月10日」とある。本来は10日だったのを、いつからか、5月第二日曜に変更したようだ。鳥居前に立てかけられた看板には、日付のところに「13日」と書いた紙が貼られていた。

さっき「京都通百科事典」HPをチェックしたら、情報が古く「5月10日」となっていた。当該公式HPがない場合、観光の参考にするなら複数チェックしたほうが安心だ。市の「京都観光Navi」HPでは「第二日曜」とされているが、「京都市」と書かれた神社前の由緒書は「10日」のまま。訂正は、どこの責任でなされるべき?

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