京都逍遥

◇◆◇京都に暮らす大阪人、京都を歩く

長谷川等伯展

2010-04-25 23:48:23 | アート・文化

京都国立博物館で開催中の『没後400年[特別展覧会]長谷川等伯』。

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展覧会HPには「会場内の現在の混雑状況・入館までの待ち時間・会場混雑状況過去一週間の履歴」が記載されている。ここ数日は、4時以降なら並ばずに入ることができるようだ。日曜午後ならお客さんは少ないかも・・・と行ってみた。2時半頃に着いたら「30分待ち」の張り紙が。4/10~5/9の会期の、今日は前期の最終日。前期と後期で展示のマイナーチェンジがあるからか、かなり混雑していた。ゲートを通って博物館玄関前にはテントがいくつか並び、テント内では等伯の解説ビデオが流れている。テントに入りきらない入場待ちの列の人たちは、黄色い傘を借り、日傘代わりにしている。そうして、50人ぐらいずつ、一斉に入場。

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展覧会ではどこもそうだが、入り口近くが混雑する。今日は特に一斉入場だったし。人が多いと見る気がしない。最初の部屋のタイトルは、「第1章 能登の絵仏師・長谷川信春」。人波の後ろから遠く仏画を眺めていたところ、『三十番神図』が気になった。法華宗において、日替わりで国家・国民を守護するという30の神々の絵だ。殆どが衣冠束帯の貴族の姿に描かれている珍しいものだった。等伯自身、能登時代から、法華宗の信徒だったらしい。

次は「第2章 転機のとき‐上洛、等伯の誕生‐」。ここも、やっぱり混んでいる。それでもなんとか絵の方へ近づいた。動物の姿が、とてもいい。気に入ったので、人の多さにめげずに見て歩いた。金碧画も、かなりいい。

「第3章 等伯をめぐる人々‐肖像画‐」。能登の七尾から出て京都で世話になった本法寺 住職・日通や、住職が紹介して知己を得た千利休の肖像画などがある。表情の描き分けを見ても、なんと腕の良い絵師だろうと思わされる。

「第4章 桃山謳歌‐金碧画‐」。さすが国宝、『楓図壁貼付』『松に秋草図屏風』は、大胆かつ繊細で、見事と言うほかない。『秋芒図屏風』も良かった。『柳橋水車図屏風』の柳の葉。執拗に繰り返される小さい緑の葉は、見ていると何だか怖い。描いていても面白くないのでは?という気がする。

「第5章 信仰のあかし‐本法寺と等伯‐」。ここでは、何と言っても『仏涅槃図』だろう。釈迦入滅の絵は、お寺などでよく見かける。しかし、これは10×6m。こんな大きさ見たことない。天井から吊るし、下の方は床に寝かせる、そういう展示だった。解説文には、跡継ぎの息子・久蔵を亡くし、その供養のために描いて本法寺に寄進したとある。一体どうやって描いたのか。襖ほどの大きさで描いて張り合わせたのか?絵の上部中央に描かれた、月なのか太陽なのか、ほの暗い空に描かれた白っぽいそれが、ひどく寂しげだった。

「第6章 墨の魔術師‐水墨画への傾倒‐」。ここで、作風は一変する。岩の表情に苦心の跡を看て取ることができる、と言えば、“上から目線”になるだろうか。思い切りの良い簡素な線描、墨の濃淡で遠近や質感を表すその手法を会得したとき、確かなデッサン力に裏打ちされた細密な絵を描いていた等伯は、高みに上ったと感じただろうか。ここでは『禅宗祖師図襖』が気になった。絵の題材は、禅の「南泉斬猫」。今まさに猫を斬らんとする南泉禅師の表情が恐ろしすぎる。笑っているのだ。

「第7章 松林図の世界」。国宝の『松林図屏風』に、目が釘付けになった。これはすごい。筆致も、濃淡も、間も。完成品でないかもという説があるって?それは全くどうでもいい。いいものを観た。ところが、カタログで見ると味気ないのだ。暗い展示室で見るより、カタログの方がきれいにはっきりと見え、実物を彷彿させることもある。でも今回は。

利休の後押しで大徳寺三門の障壁画を描き(1589年)、御所からの対屋障壁画の依頼(1590年)はライバル・狩野永徳の意向で取り消され、次は秀吉から祥雲寺障壁画を依頼(1591年)される。狩野派と長谷川派。芸術も権力争いのようなもの。利休のような実力者、秀吉のような権力者に認められ、活躍するのは、腕だけでなく、人柄の良さもあったのか、それとも世渡り上手だったのか、あるいは本法寺のつながりか。本法寺と言えば、本阿弥光悦。寺移転(1587年)の際に私財を投じ、巴の庭も彼が作庭している。光悦に代表される法華宗ネットワークが強かったのかもしれない。とはいえ、等伯の絵の良さは少しも損なわれることはない。仏画の時代から肖像画、金碧画を経て水墨画に至る(最晩年には肖像や金碧もあるが)それぞれの時期の絵が、それぞれ、いい。画風の変化もよくわかり、見応えのある展覧会だった。できれば人の少ない時にもう一度見たいが、多分ずっとこの混雑なのだろう。会期も短いし。いつか、同時代の狩野派の作品と一緒に観たいものだ。

会場出口に「平成二十二年度春季京都非公開文化財特別公開・長谷川等伯ゆかりの寺院をたずねて」というリーフレットがある。これには、本展覧会観覧者の優待券が付いている。お得な情報ということで言えば、展覧会HPの割引引換券をプリントアウトして持参すると、100円引き。よほど好評なのだろう、近辺のお店に、もう前売り券は売っていなかった。会場を後にしたのは4時半ごろ。外ではまだまだ列が続いていた。

[2010.5.26追記:南泉斬猫は、岩波文庫『無門関』『碧巌録(中)』にあり。]

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百万遍知恩寺・法然上人御忌

2010-04-24 01:14:37 | まち歩き

知恩寺。西本願寺で見たのと同じ仏旗がはためいている。今日は法然上人御忌(ぎょき)。

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今出川通に面した門(写真上・右)のそばに、法要の日程が詳しく書いてある(写真上・左)。御忌とは、天皇皇后の忌日法会のことだが、1524年後柏原天皇により“大永の御忌鳳詔”が出され、法然の命日(1月25日)を「御忌」と呼び習わすことになったらしい。1877年、浄土宗総本山の知恩院が御忌法要を4月に変更し、多くの寺が従ったとのこと。写真の日程には、22日は夕方、23~25日は11時から法要とあった。

10_006 10_005            旗と同じく、五色(緑・黄・赤・白・紫)の吹流しが立っている。御影堂や本堂にも五色の幕。

門前や堂前、参道の提灯には、抱き杏葉の間に「百」の文字が入った紋。参道脇は、車がぎっしり。もう法要は始まっている。

10_010 本堂にかかっていた紫の幕も、月影杏葉でなく抱き杏葉だった。向かって右の引き戸をそうっと開けたら、そこがちょうど一般席。静かに僧侶の声を聴く。お坊さんの頭上の、長い被り物が気になる。初めて見た。

12時過ぎに、堂内に廻らされた大念珠が下ろされた。二重に廻らされた念珠の、下側にある一連だけ。高い所にかかっているが、棒で簡単に外して紐をほどく。両側から参拝客が念珠をささげ持ち、「南無阿弥陀仏」の声と共に、反時計回りに回し始めた。大念珠の珠は、直径10cmほどだろうか。白い文字でぎっしり戒名が書かれた珠、上半分だけ書かれた珠、文字の白が抜けて彫刻のみとなった珠、何も書いていない珠。お手玉を上に投げるような感じで、珠を持ち上げて、回す。ところどころ、大珠があり、掌仏が入っていたりする。通常の数珠は、108個の珠を使う。これは、1080個使っているという。

この大念珠繰りは、第八世善阿空円上人の百万遍念仏に由来する。1331年、疫病が流行したため後醍醐天皇勅命により上人が百万遍念仏を修したところ、流行は終息した。そこでそのときの大念珠と、弘法大師筆“利剣の名号”、さらに“百萬遍”の号を下賜されたとのこと。(名号・号は、浄土宗HPや当寺HPにあるが、大念珠については、住職さんの話から。)この「百万遍念仏」に要したのは、7日間と17日間の二説がある。浄土宗HPですら混乱が見られ、「寺院紹介」ページでは「7日間」、「25霊場」のページでは「17日」となっている。

(浄土宗HP「大本山知恩寺」:http://www.jodo.jp/290004/index.html

(浄土宗HP「第22番京都大本山百万遍知恩寺」:http://www.jodo.or.jp/25reijyo/index_22.html

『都名所図会(1786年)』では「一七日」、『花洛名勝図会(1864年)』では「七日」となっているため、このような間違いが起きたのだろう。

「一七」とは、「十七」か「七」か。当時の正書法について知識がないので断定できないが、さきの「大永の御忌鳳詔」における「一七」が「7日」の意とされており、百萬遍念仏も7日間と見るのが順当だろうか。

(輪番御忌について:http://syourinji.com/page015.html

『花洛名勝図会』は、解説が非常に詳しく、面白く読んだ。

(日文研HP『都名所図会』長徳山知恩寺百万遍:http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/page7t/km_01_226.html

(日文研HP『花洛名勝図会』長徳山知恩寺:http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/karaku/page7t/km_04_04_025t_11.html

両資料を読むと、①祈祷を頼まれたのは他宗で、浄土宗は“最後の頼み”的、②法然上人が賀茂社を崇敬していた、ことがわかる。1331年になってもまだ、浄土宗は貴族階級に認められていなかったという訳だ。『都名所図会』には、この寺がかつて加茂の神宮寺で、葵祭の際、寺で法楽の神事を行なった、ともある。

内陣に掛かっていた立派な絹の幕には、抱き杏葉と三つ葉葵の紋が交互に織り上げられていた。賀茂社とくれば葵紋は頷けるが、賀茂社で使用している三つ葉葵は、徳川葵と上下逆。この寺の三つ葉葵は、徳川葵と同様の図柄だった。この葵紋は、檀家さんら関係者が首にかけていた緑の布にも刺繍されている。お揃いの青い和服の女性たちは、お太鼓部分に月影杏葉と三つ葉葵が陽・陰に織られた帯を締めていた。一人に、三つ葉葵は「御詠歌から」と教わった。法然上人25番霊場の22番目であるこの寺には、「夏の御詠歌」と呼ばれる歌がある。

「われはただ 仏にいつか葵草 心のつまに 掛けぬ日ぞなき」

また、知恩院など浄土宗の寺の多くは、徳川家の庇護を受けたため、葵紋が使われている。この寺にも寄進があった可能性はある。

①賀茂社との関わり、②御詠歌、③徳川家との関わり、と、葵紋には充分な理由がある。どれが一番の理由などと、決める必要もないだろう。

“利剣の名号”とは、文字の一画一画が剣のように尖った独特の書体で書かれた名号のことだ。善導の「利剣即是弥陀号一声称念罪皆除く(『般舟讃』)」から、智の剣が罪障を除くのだとされる。

(『般舟三昧行道往生讃』:http://www.yamadera.info/seiten/d/hanjusan.htm

法要が終わり、ご住職のお話が済むと、「順にご焼香を」と言われ、内陣に入った。そうして、向かって左に掲げてある大きな利剣名号を見ることができた。すごい。力強くて。きれいで。名号は、この時期だけ公開とのこと。境内に、名号を写したと思われる石柱(写真下・左)があるが、少し字体が違うような気がした。彫刻の限界か。小さなお守りも頂いた。「後醍醐天皇御下賜/利劔名號御守/大本山 百萬遍知恩寺」。利剣名号を前にして、初めて真剣に祈った。教えに沿わないことだけど。

最後に。西本願寺では仏旗がはっきり写らなかったので、この写真(写真下・右)を。

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西本願寺・飛雲閣

2010-04-13 23:47:51 | まち歩き

日曜の朝刊・地域ページで、「国宝『飛雲閣』15日まで公開」というタイトルの記事を読んだ。国宝。京都三名閣(金閣・銀閣・飛雲閣)の一つ。伝・聚楽第遺構。となれば、行ってみたくもなる。大雨の昨日はパスして、曇り空の今日、出かけてきた。

通常は、宗祖降誕会(5/20・21)のみの公開だが、今年は特別に4/10~15(13日以降12:00~15:00)も公開(無料)されている。宗祖・親鸞聖人の750回大遠忌法要が来年4月に迫っており、その広報も兼ねているのだろう。

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西本願寺は三度目になるが、今回は御影堂(写真上・左)にも阿弥陀堂(写真上・右)にも赤・緑・白の三色の幕が廻らされ、華やかだった。人出も多い。阿弥陀堂門を入ってすぐ、“かわいい”挿絵の入った新しいリーフレットがあった。以前来たときは韓国語のリーフレットしか残っていなかったが、今回は、各国語揃っている。リーフレットの新調だけではない。御影堂・阿弥陀堂の修復も完了、庭園内復元整備、龍虎殿を新築と、来年に向けての準備が着々と整えられている。また、このようにリーフレットを完備しているということは、参拝のために訪れる人だけでなく、見学に来る人をも温かく迎えている証でもある。

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目指す飛雲閣は、御影堂の南、龍虎殿を挟んで、書院(写真上・右)の向かい側に位置する。この書院も、同時公開。飛雲閣を含む滴翠園は、白壁(写真上・左)に囲まれた一角にある。入り口には「写真撮影禁止」と大書きされていた。飛雲閣は外観のみの公開である。戸外なのに、なぜ禁止?本願寺出版の写真集でも買おうか。

庭には茶室があり、趣のある燈籠が点在し、池の向こうに記事で見た飛雲閣が聳えている。建物と正対した。ちぐはぐ。これが率直な感想。「左右非対称になっており、不規則ながら巧みに調和されています(本願寺HP)」という表現を、肯じえない。記事の写真(モノクロ)は良かったのに。飛雲閣は、こけら葺きの三層建築。一層目は、向かって右の屋根が入母屋造、左の屋根は唐破風造。二層目は、寄棟造に唐破風で、壁の左半分には三十六歌仙の杉戸絵、右半分は白い塗り壁に華頭窓。三層目は、宝形造。写真を撮ることができなかったのが残念!文章だけでは、伝わらない。

やはり問題は二層目だろう。外に向かっての杉戸絵の絢爛豪華。一層目とのボリュームのアンバランス。三層目が乗っていない部分に取ってつけたような棟瓦。1993~1997年に、屋根の葺き替えや梵鐘の復元、庭の整備のほかに杉戸絵の復元も行なわれているそうで、絵の色もまだ鮮やか。絵自体は、遠くてよくわからないが、有名な技術者が復元に尽力したのだろう。それにしても、ほとんど野ざらしのこの部分に、なぜ絵を入れたのだろうか。設計者の意図がわからない。

それでも、1997年に葺き替えたという、こけら葺きの屋根は、素晴らしかったし、池から船で建物に入るという建築様式も面白い。それに一層目は、屋根の様式は違っても、同じ白の塗り壁、同じこけら葺きで、落ち着きがあって美しい。上層部がなければ・・・と思ってしまった。

10_013 御影堂門の前から撮影した梵鐘(写真右)。飛雲閣の上層部もわずかに見える。

堀川通りに沿った西本願寺の塀に、何本も大きな旗が立っていた。さきの、お堂の3色の幕だけでなく、こういった旗も初めて見る。

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調べてみたら、カラフルな旗(写真上・左)は、「仏旗」らしい。1950年5月25日に成立した世界仏教徒連盟(WFB)の第1回会議(6月)で、仏教のシンボルとしてこの旗を導入したのだそうだ。日本は1954年の第2回全日本仏教徒会議において、この旗を採択したらしい。

(財団法人全日本仏教会HP:http://www.jbf.ne.jp/b10/index.html

写真では見にくいが、旗は縦縞で、左から青・黄・赤・白・樺・輝き(前出5色の横縞)の6色となっている。これらの色が象徴するものは、上記・財団法人全日本仏教会HPに詳しい。能の揚幕にも使用される緑・黄・赤・白・黒(紫)の五色は陰陽五行から来ており、かつてはこの五色が、「意味のある」仏教的な色彩だった。新たな旗の鮮やかさは、仏教の本場がタイやスリランカなど、暑い国であることを思い出させる。

赤と白の旗(写真上・中、写真上・右)は、「紋旗」というらしい。八角の菊くずし紋。これも珍しい意匠ではあるが、本願寺系列校の校章にも利用されているとのこと。

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賀茂波爾神社(赤の宮)

2010-04-11 02:04:34 | まち歩き

川端通に、「赤の宮」というバス停(京都バス)がある。どこにお宮さんがあるのだろうと思っていた。川端通から北白川疏水通を東に進むと、東大路通の手前に、赤い鳥居が見える。「賀茂波爾神社」と石柱に刻まれたこの神社の別称が、「赤の宮(祭神:波爾安日子神・波爾安日女神)」だった。

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北西の道に面した鳥居をくぐり、月極駐車場となっている境内に続く石畳はやがて北東に折れ、舞殿が姿を現した。

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舞殿の奥には、本殿がある。本殿の東隣には、末社の「権九郎稲荷社(祭神:宇迦之御魂神)」に続く丹塗りの鳥居が、伏見稲荷のように連なっている。

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この鳥居の参道は、ほんの数メートルで突き当たり、東側にお社があった。石の狐が左右を護り、お社の上には陶器の狐など。狐の表情を見ていると、なんだか、お社の写真を撮るのは憚られた。お参りして、戻ろうと振り返った途端、お社の奥にある大木の枝が折れ、鳥居の上にバキッと落ちる音が。お願いが聞き届けられた証拠?

この鳥居の前には井戸があり、「波爾井御神水」の立て札。ご近所の方々が、ペットボトルに水を入れておられた。「くせのない水だから、コーヒー淹れたらおいしいのよ」と。「京都の名水」には数えられていないようだが、飲んでみると確かにまろやか・・・な気がした。

(京都通百科事典HP「京都の名水」:http://www.kyototsuu.jp/Sightseeing/GoodWater.html

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鳥居のさらに東、境内の北東(写真下・左)には、紙垂で囲われた聖域がある。舞殿の南西(写真下・右)も、同様だった。また、南西では、60センチほどの石にも縄が巡らされていた。

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この神社の社地は、後世になって拡がったというから、この聖域は、元の社地の表裏両鬼門だろうか。それとも、土俵の跡とか?『拾遺名所図絵(1787年)』で「享保年中に干菜寺勧進として此所に大相撲あり」という記述があったことだし。

(国際日本文化研究センターHP『拾遺名所図会』赤宮:http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyotosyui/page7t/km_01_440.html

『拾遺名所図会』から、1787年には、「赤宮」と呼ばれていたことがわかる。この神社の住所は高野上竹屋町だが、神社のすぐ隣は、「一乗寺赤の宮町」。地名ともなった「赤宮」の由来は、いくつかの説があり、はっきりしない。稲荷の鳥居の赤とか、赤土とか。

「波爾」の由来としては、『京都観光Navi』HPに高野川は「かつて埴川と呼ばれていた」とある。波爾とは、土や土器を意味する「埴」である、というのだ。「埴川」は、『日本後記』に登場する。

「巻八延暦十八(799)年八月己卯条3癸卯。禊於埴川。」(日本後記:http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/9583/nihonkouki.html

この記載の前後数年を確認したが、禊を毎年この時期、この川で行なっているわけではなく、また「埴川」が高野川と同一であるという確証も得られなかった。

10_012 神社名の話が続くが、「賀茂」という名の通り、ここは下鴨神社の境外摂社である。但し、摂社となったのは明治10年3月。舞殿東面には、摂社となって100年を記念して境内を整備した、と書かれた額がかかっていた。

この神社の創建年代は不明だが、『延喜式』神名帳に式内社として「賀茂波尓神社」とあることから、901年以前より存在していたことがわかる。

(国学院大学HP『神社資料集成』山城の国神社一覧:http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/jinjastate01.html

鳥居前の提灯の二葉葵(写真下・左)、舞殿幕の二葉葵(写真下・中)、拝殿屋根の飾り瓦の三つ葉葵(写真下・右)で、賀茂社との関わりが目に見える形になっている。現在、御蔭祭の際に、ここで路地祭が行なわれている。神山から上賀茂神社へお迎えした荒御霊を下鴨神社へ運ぶ途中、ここに立ち寄るのだ。これは、摂社となってからなのか、それともそれ以前からなのか。『延喜式』で賀茂の名がついているからには、創建当初から、そのような役割を果たしていたと考えるのが自然だが。

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10_009 提灯の正面や、舞殿屋根の飾り瓦(写真左・この記事最初の写真)には菊紋がついていた。

道路に面した鳥居の脇、神社敷地の南東角に、「高野川原開墾来歴碑(明治32年5月)」(写真下)があった。ここでは、高野川の氾濫で荒れ果てていた近辺の流域を、江戸中期に開墾した大坂商人の功績が語られている。この神社も、何度も流され、建て直されたのだろう。

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住蓮山安楽寺

2010-04-04 02:28:00 | まち歩き

疏水沿いも、鴨川沿いも、御所も、桜は満開。今日は少し風が冷たいけれど、京都は今が花見どき。

あちこちの桜を見ながら、四月の公開は第一・第二土日だけという安楽寺へ。浄土宗の寺。

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ここは、“承元(建永)の法難”の契機となった、松虫鈴虫事件の舞台である。浄土宗黎明期、鹿ケ谷山中に草庵を結んだ法然の高弟・住蓮と安楽の、六時礼讃の哀調が評判になっていた。後鳥羽上皇寵愛の女御・松虫鈴虫姉妹は、上皇の熊野参詣中こっそり草庵に赴き(1206年=建永元年12月)、住蓮・安楽に頼んで剃髪、出家した。それが上皇の逆鱗に触れ、二僧は斬首(1207年=建永2年2月)となった。かねてから浄土宗の広まりには、叡山も(1204年「延暦寺奏上」対・天台座主)、南都も(1205年「興福寺奏上」対・朝廷)危機感を持っていた。上皇は、この事件の後、“専修念仏停止(せんじゅねんぶつちょうじ)”の勅命(1207年=建永2年2月)を出し、同2月18日に法然を土佐(実際は讃岐)、親鸞を越後へ配流と決定。事件への連座を口実として、鎌倉新興仏教である浄土宗の勢いを殺ぐ意図があったのだろう。他に5人が流罪、2人が死罪となっている。建永2年は10月25日を以て承元(1207~1210年)と改元するため、この弾圧事件は、両方の元号の名で呼ばれる。

松虫鈴虫のその後。僧の斬首を知って自害したという説もあるが、ここでは、紀伊の国・粉河寺で身を潜めた後、瀬戸内海の生口島にある光明坊で 念仏三昧の余生を送った、とされている。松虫は35歳、鈴虫は45歳で往生したとのこと。

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写真上の石塔は、一基をさまざまな角度から写したものである。道路に面した西面には「浄土禮讃根源地」(写真上・左)、参道に面した北面には「圓光大師霊場」(写真上・中)、山門を背にした東面には「圓光大師化縁跡地/住蓮山安楽寺」(写真上・右)、南面には「志ゝケ谷御庵室」(写真上・左)。普通は、寺の名前が一番目立つ所、即ち道路に面して刻まれているものだが、これは違う。住蓮・安楽による六時礼讃声明の美声で、人々を浄土宗に帰依せしめた、ということが重要なのだろう。寺で頂いたリーフレットに依ると、当時の草庵は、この場所よりもっと東の山中にあったそうだ。赦免されて数年後、帰洛を許された(1211年11月17日)法然上人が、二人の菩提を弔うため、旧地に草庵を復興し「住蓮山安楽寺」と名づけたのだとか。1532~1555年に、現在地に移転したという。

なお、この寺の旧公式HP(2001~2009年)掲載の「本堂の形態の変遷」項目に、『都名所図会(初版)』と『花洛名勝図会』が参考文献として挙げられている。『都名所図会(初版)』では「入母屋造茅葺の前堂と入母屋造瓦葺後堂の2つの建造物が本堂として南北に並んで」いるらしい。この初版(1780年)は未確認だが、再版(1786年)の該当絵図を、日文研HPで確認した。方形裳階瓦葺の本堂に方丈。初版から再版の6年の間に、本堂は改築されているのだ。また『花洛名勝図会(1864年)』も、日文研HPで確認できる。こちらは、本堂の後ろに、現在の内陣となる部分が増築されていることがわかる。石畳や庭の様子も、現在の状態に近い。

安楽寺旧公式HP「安楽寺ハガキ伝道」:(http://www.kyoto.zaq.ne.jp/anrakuji/anrakuji/hagakibox/hagakidendou3/hagakidendou3.htm

国際日本文化研究センターHP「都名所図会」:(http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/page7t/km_01_221.html

国際日本文化研究センターHP「花洛名勝図会」:(http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/karaku/page7t/km_04_04_036t_02.html

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写真上・左は、門を入って正面の方丈。写真上・右は、石畳を左に折れて正面の本堂。本堂内では30分毎に寺の縁起や仏像についてのお話がある。お話を聞いてから、書院へ廻る。さつきの庭が目に入る。書院の縁側に座ってみると、東山を借景としていることがわかる。

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本堂の軒丸瓦は、三つ巴。本堂に置いてあった仏具の台には竜胆車が描かれていた。

10_020 この寺の御本尊は阿弥陀如来だが、阿弥陀三尊形式で、観音菩薩・勢至菩薩が両脇にいる。両菩薩像の前には「くさの地蔵」「龍樹菩薩像」。「くさ」とは、湿疹のことで、このお地蔵さんにお願いすれば皮膚病が治るという信仰があったことから、その名で呼ばれているらしい。お礼参りに奉納したという柄杓が、本堂の壁に沢山かかっていた。内陣に入って、これらの仏像を間近で眺めることができた。天井近くには四天王の絵があった。そう言えば、山門の階段下には「洛東十二番くわん世音」の石柱(写真右)があった。「洛東十二番」は、この観音菩薩像のことだろうか。

外陣には、住蓮・安楽・松虫・鈴虫の木像、法然上人張子像、親鸞聖人旅姿像、十一面観音菩薩像。さきの「洛東十二番」は、こちらか?法然上人像は、張子とは思えないほど、大きさもあり、重厚な雰囲気。張子に使用した紙は、上人が残した書簡などらしい。こういうものは初めて見た。

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4時半に閉門。哲学の道から東へ一本入ったところながら、観光客は、この時間まだそぞろ歩き、「もう閉まってる」という声も。

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