宇治拾遺物語、謡曲のほかにも、六条河原院を題材とした古典文学は存在する。
同時代人が六条院を評したものを引用する。
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むかし、左のおほいまうちぎみいまそかりけり。賀茂川のほとりに、六條わたりに、家をいとおもしろく造りて住み給ひけり。神無月のつごもりがた、菊の花うつろひざかりなるに、紅葉の千種に見ゆる折、親王たちおはしまさせて、夜ひと夜、酒のみし遊びて、夜あけもて行くほどに、この殿のおもしろきをほむる歌よむ。そこにありけるかたゐ翁、板敷のしたにはひありきて、人にみなよませ果ててよめる。
塩釜にいつか来にけむ朝なぎに
釣りする舟はここによらなむ
となむよみけるは、みちの国にいきたりけるに、あやしくおもしろき所々おほかりけり。わがみかど六十余国の中に塩釜といふ所に似たるところなかりけり。さればなむ、かの翁、さらにここをめでて、「塩釜にいつか来にけむ」とよめりける。
『伊勢物語』第81段(新潮日本古典集成)
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同書同段頭注に「業平は融の三歳年下」とある通り、融(822-895)と業平(825-880)は同時代人である。『伊勢物語』はほとんどの段が「むかしをとこ」の物語であり、実在人物を語る段も「むかし」と始まる。ここでは河原院の風情あるさまが描かれている。
京都市考古資料館に置いているリーフレット「平安京の構造」によれば、「貴族には地位や身分に応じて宅地が与えられ、風情を凝らした庭園を備えた邸宅が営まれ」たとのこと。一方、慶滋保胤(933?-1002)による『池亭記』では、六条大路より北の土地を購入して家を建てたことが記されている。
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予本無居処、寄居上東門之人家。常思損益、不要永住。縦求不可得之。其価直二三畝千万銭乎。予六条以北、初朴荒地、築四垣開一門。
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保胤の生きた時代は源融の生年とは100年超の開きがあるが、京都アスニーで入手した地図「平安京の主な施設と邸宅」には、ともにその場所が記されている。「池亭」と記載があるのは、北は六条坊門小路、南は揚梅小路、東は室町小路、西は町小路に囲まれた左京三坊六条の一町分の区画の土地である。現在の下京中学校の辺りだろうか。六条河原院の敷地は、その4倍の広さ。同じ広さの邸宅は、宇多院、淳和院、冷泉院、四条後院など譲位後の御所のほかは、高陽院(賀陽親王邸を入手した藤原頼道が邸宅を拡大したもの)のみである。敷地だけでも、河原院は特別であることがわかる。
平安京は、その末期には左京を中心として発展していくが、二条大路より北は貴族の邸宅、南は庶民の居住区で商業地域となっていったようだ。六条河原院は融の没後、息子が相続して宇多天皇に献上したというが、住む人のいなくなった京の東端の豪邸が、見捨てられた結果、どうなったか。
「六条河原院…(中略)…それはたちまち廃墟(原文ママ)と化し、『源氏物語』では怨霊が出る話が作られ、『今昔物語集』では幽霊の出る説話の場所となった」【『物語 京都の歴史』(中公新書)】
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いさよふ月にゆくりなくあくがれんことを、女は思ひやすらひ…(中略)…そのわたり近きなにがしの院におはしまし着きて、預り召し出づるほど、荒れたる門の忍ぶ草茂りて見上げられたる、たとしへなく木暗し…(中略)…宵過ぐるほど、すこし寝入りたまへるに、御枕上にいとをかしげなる女ゐて、「おのがいとめでたしと見たてまつるをば尋ね思ほさで、かくことなることなき人を率ておはして時めかしたまふこそ、いとめざましくつらけれ」…(中略)…物に襲はるる心地して、おどろきたまへれば、灯も消えにけり…(中略)…女君いみじくわななきまどひて、いかさまにせむと思へり…(中略)…この枕上に夢に見えつる容貌したる女、面影に見えてふと消え失せぬ…(中略)…この人いかになりぬるぞと思ほす心騒ぎに、身の上も知られたまはず添ひ臥して、「やや」とおどろかしたまへど、ただ冷えに冷え入りて、息はとく絶えはてにけり。…(中略)…かのありし院ながら、添ひたりし女のさまも同じやうにて見えければ、荒れたりし所に棲みけんものの我に見入れけんたよりに、かくなりぬることと思し出づるにも、ゆゆしくなん。
『源氏物語①』夕顔巻(小学館 日本古典文学全集20)
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院に棲む物の怪が自分に取り付いて夕顔を取り殺したのだ、と源氏は述懐している。「なにがしの院」は「河原院がモデルといわれる。河原院は…(中略)…種々の古記録によれば、延長四年(九二六)、六月二十五日、融の亡霊が現れた。十世紀ごろには荒廃していた」と頭注にある。
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今は昔、河原の院は、融の左大臣の家なり。陸奥の塩竈の形を作りて、潮を汲み寄せて、塩を焼かせなど、さまざまのをかしきことを尽して、住み給ひける。大臣失せてのち、宇多院には奉りたるなり。延喜の帝、たびたび行幸ありけり。また、院の住ませ給ひけるをりに、夜中ばかりに…(中略)…日の装束うるはしくしたる人の…(中略)…かしこまりてゐたり…(中略)…「融の大臣か」と問はせ給へば、「しかに候ふ」と申す…(中略)…「…(中略)…故大臣の子孫の、われに取らせたれば、住むにこそあれ。わが押しとリて、ゐたらばこそあらめ、礼も知らず、いかにかくは恨むるぞ」と、高やかに仰せられければ、かい消つやうに失せぬ。……
『宇治拾遺物語』151話:河原の院、融公の霊住む事
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ここでは、融の亡霊が出現しているものの、宇多院に一喝されて退散しているので、さして恐ろしい話ではない。これと同話が『今昔物語集』巻27第2話にある。
一方で『今昔物語集』巻27第17話では、妻と上洛した男が河原院に泊まった際、鬼に妻を吸い殺されるというおどろおどろしい話が語られる。手元に現代語訳しかないが、引用する。
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今は昔のこと、五位の位を買うために、東国から都を指してのぼって来た者があった。その妻も、
「それはさいわい、わたしも京見物に」
と言って、夫といっしょに上洛したが、おり悪しく予定した宿がふさがって、行きどころがなくなってしまった。そこにたまたま、河原の院という東六条にある古びた大きな屋敷が、住む人もなかったので、少しばかりの縁をたよりに、留守をあずかる者に一晩貸してくれるように頼みこんだ。……(中略)……なんとも正体のわからぬ物が、さっと手を差し伸ばして、ここにいた妻を摑み取り……(中略)……見る見るうちに妻が引きずり込まれたから、自分も大急ぎで開き戸に飛びつき、さて開こうとして引っ張っても、もうしまったきりびくともあかなくなった。……(中略)……斧を持ち出して切り開き、灯を点して中へはいってみた。すると妻を、どういうふうにしたものか……(中略)……鬼が吸い殺したのだと、人々は口々に話し合った……(中略)……様子を知らない古い家なんかには、宿を取るべきではない、という話である。
『今昔物語』日本古典文庫11(河出書房新社)第三部 霊気 鬼のため妻を吸い殺される話 福永武彦訳
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なお、「河原」についてだが、『方丈記』(新潮日本古典集成)頭注に、「鴨川の通称」とある。
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……三十あまりにして、更に、わが心と、一つの庵をむすぶ。
これをありしすまひにならぶるに、十分が一なり……(中略)……所、河原近ければ、水難もふかく、白波のおそれもさわがし。
『方丈記 発心集』(新潮日本古典集成)方丈記 四
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同書には「河原」がほかにも数回登場する。
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築地のつら、道のほとりに、飢ゑ死ぬるもののたぐひ、数も知らず……(中略)……いはむや、河原などには、馬・車の行き交ふ道だになし
『方丈記 発心集』(新潮日本古典集成)方丈記 二
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『方丈記』の最終文に「時に、建暦の二年、弥生のつごもりごろ、桑門の蓮胤、外山の庵にして、これをしるす」とあり、1212年の著であることがわかる。「河原院」は鴨川のほとりの邸宅で、その通称は300年を超えて使われ、さらに現在の河原町通の名称にもつながっていると言えるだろう。