京都逍遥

◇◆◇京都に暮らす大阪人、京都を歩く

特別展 二条離宮

2025-01-26 21:06:57 | まち歩き

二条城本丸御殿の修理完了、同一般公開が昨年9月に始まったことで、関連イベントが多く開催されている。寺町通の京都市歴史資料館でも、2024/11/30ー2025/2/22の期間、「特別展 二条離宮――元離宮二条城 本丸御殿公開記念――」が開催中である。

1/26の学芸員によるギャラリートークは、大変な盛況ぶりであった。内容は一般には知られていない新しい知見も多く詳細であるが、解説はわかりやすい。ギャラリートークは2/18にもあり、歴史好きな方にはぜひおすすめしたい。

写真一枚目のポスターと同じ体裁のチラシを京都駅前の観光案内所でもらっていた。そのチラシの裏側は次の通り。

「菊紋装飾」とあるのは、二の丸御殿大広間南の破風板に取り付けられていたものであるらしい。2018年9月の台風で剥がれ落ち、その衝撃で花弁に歪みが出ているとのこと。この花弁は16枚。皇室の紋章が十六八重表菊と定められたのは1926年の皇室儀制令なので、明治17(1884)年に離宮となり、同26(1893)年から二の丸御殿の改修で取り付けられた菊紋が十六一重表菊であるのもわかる。

花ついでに、今回展示されていた本丸御殿の御常御殿渡廊下の杉戸絵についてもひとこと。ポスター左下の犬の絵は、その杉戸絵のものである。引き違い戸なのでバラと仔犬を描いた板戸が2枚あり、展示ガラス越しにかなり接近して見ることができる。描かれたのは江戸時代であるらしい(展示資料一覧より)。江戸の時代にバラとは、粋である。そぐわない、とも思う。本丸御殿は、1894年に桂宮御殿の一部を移築したもので、その後の修復の有無は不明。仔犬7匹は、特に白色が退色しているが、上部に描かれたバラは、白色も濃ピンク色も鮮やか。正面を向いた仔犬はかわいらしいが、横顔の2匹はどうだろう。別人の加筆ではないかと思うほど、違和感を感じた。

鯱瓦2点(北大手門櫓・西南隅櫓)は、全く顔つきが違う。ともに江戸時代の作(展示資料一覧より)であるらしいが、違う地域で造られたもののように感じた。土も違うように見える。成分分析すれば、地域を特定できないだろうか。作り手が違う、あるいは工房が違うだけなのか?

鯱は「頭はトラで、背にとげのある常に尾をそらした魚の形をしている(集英社『国語辞典』)」ものだが、北大手門櫓の鯱瓦の頭は寺院の天井画の龍のよう、西南隅櫓の鯱瓦の頭は鬼瓦の顔のようだ。検索しても、トラの頭に見える鯱瓦は見つからなかった。

市歴史資料館では、パンフレットを販売している。展示解説は写真撮影禁止なので、パンフレットを読んで再確認。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二条城の透かし手入れ

2025-01-25 23:20:05 | まち歩き

半月ぶりに二条城南側の押小路通を歩いたら、生垣がきれいに剪定されていた。たしか秋にも整えられていたように記憶する。

外周の松の剪定と透かし手入れが今週から始まっていたようだ。

☆1/20はしごをかけて剪定作業中

☆透かしが完了したアカマツ

☆1/20剪定前のクロマツ

☆1月22日剪定が進む

透かし手入れがなされると、きちんと感が増して、清々しい。この木一本の松葉を手で摘み取る作業を思うだけでも、植木職人さんのすごさを感じる。まだ樹木のお手入れはしばらく続くだろう。この手間をかけることで、世界遺産二条城の美観は保たれている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新春の二条城

2025-01-24 21:32:36 | まち歩き

正月1日、東大手門入口には新春のポスターが、門の脇にはきらびやかな屏風が置かれていた。

子ども用のレイヤーカードのように、レンチキュラーというのか、見る角度によって画像が違って見える。ほんの数日前にも、屏風はあった。小正月を過ぎて20日前後まで飾っていたようだ。今日、前を通り過ぎるときには見かけなかった。

さて、1日に入城した際は、御殿は観覧不可で、お庭と展示収蔵館のみ見ることができた。

☆二の丸庭園こも巻きのソテツ

☆展示収蔵館前ポスター

昨夏にも、白い猫を二条城で見かけた。同じ猫だろうか。御堀端を急いで通り過ぎて行った。

二条城の向こうに沈む夕焼け。

 

ところで、1月4日~27日の期間、世界遺産登録30周年記念事業として「二条城の早春2025」と銘打ち、二の丸御殿〈大広間〉「帳台の間」が初公開されている。訪れたのはぼたん雪が降り積もる日だったが、外国人旅行者など非常に観覧客が多かった。帳台の間は、一の間(上段の間)に入室する将軍のための前室であったのではとされている。以前訪れた際は、一の間の東側に赤い立派な房のついた引手が目立つ帳台襖が締め切りだったが、今回、襖は開け放たれている。座敷越しでは遠くてよくわからないと思ったが、廊下をまわると帳台の間の北側襖も開けられていたので、そちらからはゆっくり眺めることができた。

当初描かれた花鳥図と、二条離宮となった時代に御所の障壁画を再利用した名所絵の模写がそこにあった。他の部屋と同様、本物の障壁画は展示収蔵館におさめられ、適宜展示されている。

収蔵館では2月23日まで、〈大広間〉帳台の間と〈黒書院〉帳台の間の障壁画のうち、皇室の離宮となった時代に御所から転用された障壁画の原画が公開されている。金具跡、色の違う金箔など、転用の痕跡が明らかにわかる。

朝、真っ白の世界になっていた二条城。観覧を終える頃、雪はすっかり融け、いつもの風景に。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

都七福神まいり――萬福寺

2025-01-18 21:34:25 | まち歩き

都七福神まいりの最後、7か所目は萬福寺。都七福神のご縁日である7日は、御朱印には金印が授与されると六波羅蜜かどこかの朱印授与所に書いてあった。

布袋尊【諸縁吉祥】 黄檗山萬福寺|日本最古 都七福神まいり

黄檗宗大本山萬福寺 ‐京都府宇治市

総門をくぐるなり、その規模に圧倒される。三門で拝観受付をした際に、七福神の布袋さまはどこにおまつりされているのか聞いてみる。すぐ先の建物、天王殿とのこと。

☆三門を振り返る

国宝・天王殿の階段を上がり、三門の方を振り返って撮影。

 

五色の幕の下に、少し怖い笑顔の布袋さまが鎮座されていた。布袋さまは弥勒菩薩に同定されている。解説チラシに「玄関としての天王殿」とあり、布袋さまと背中合わせに韋駄天が、両脇に四天王が祀られていた。

天王殿から七福神の旗のある廊下を通ると、売店前に御朱印所があった。金印は桃の印だけである。この先にある大雄寶殿の桃戸が有名だからであろうか。

☆大雄寶殿と月台の生け花

☆大雄寶殿の桃戸

戸が全開なので、表にある桃の絵は見えない。

☆開山堂

開山堂にも桃戸があった。開山堂のおかげで、桃戸がどんなものかわかった。

 

萬福寺は「伽藍の配置や堂舎の建築様式は中国の明朝様式を取り入れたもの(上記チラシ)」であるが、桃は古来、日本でも魔除けとされていた。『古事記』では、イザナギが黄泉の国のイザナミから逃げて現世との境にまで戻ってきたとき、桃の実3個で追っ手を追い払ったとある。

****************************************************************************

やっとのことで危急を逃れたイザナギノ命は、そこで桃にこう言った。「お前は今、私を助けてくれたが、葦茂るこの豊かな葦原中国(あしはらのなかつくに)に住む、ありとあらゆる命すこやかな人たちが、もしや辛い目にあって苦しむようなことでもあれば。私同様に助けてやっておくれ。」

            『現代語訳 古事記』福永武彦訳(河出文庫)

****************************************************************************

 

また『日本書紀』には次のようにある。

****************************************************************************

一書に曰く……イザナミノ尊は、その身体が膨れ上って、その上に八種の雷神が取りついていた。イザナギノ尊は驚き恐れ、いっさんに逃げ出した。礼人はみな身を起して、そのあとを追いかけて来た。逃げる途中……イザナギノ尊は……桃の実を取っては雷神に投げつけたから、雷神はこれを避けて逃げた。これが、桃によって鬼を避けることのもとである。

            『現代語訳 日本書紀』福永武彦訳(河出文庫)

****************************************************************************

都七福神まいりはコンプリート。今年一年、まめに過ごせそうだ。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

都七福神まいり――革堂

2025-01-17 21:16:52 | まち歩き

都七福神まいり、6か所目は革堂行顔寺へ。開祖行円上人が自ら射て死に至らしめた鹿を悼んで、その鹿革の衣をいつも着用していたことから「皮聖(かわひじり)」と呼ばれ、皮聖のお堂であるから「革堂(かわどう→かうどう→こうどう)」となったのだとか。

寿老神【不老長寿】 革堂(行願寺)|日本最古 都七福神まいり

革堂について | 霊麀山 革堂 行願寺

菊の御紋の幕のある本堂に参拝して御朱印をいただき、ほかのお堂も参拝する。

このお堂前に幟が立っており、寿老神をおまつりするのはここだとわかる。寿老神堂である。

寺の住所は、「寺町通竹屋町上ル行願寺門前町」 である。1004年創建当時は一条通小川にあったのを「度々の災火により寺地を転々とし、宝永五年(1708)の大火の後、当地に移され(上記HP)」たというから、1591年からの秀吉による都市改造とは関係がないのかもしれない。「行顔寺門前」の町名は、現在地の近くに移転したこともある名残とも考えられる(「門前」ではなく寺名が町名となるのが自然。つまり、大きな寺なら、所在地に寺の名を冠して「〇〇寺町」とし、門前には「〇〇寺門前町」となることが多い)。

地図によれば、現在地よりも50メートルほど東に「西革堂町」が見える。また、河原町今出川のすぐ西には「革堂内町」も。

一方、もとあった一条通小川には、現在の小川通を挟んで「革堂町」が、その西に「革堂仲ノ町」、さらに西に「革堂西町」がある。

町名が被らないよう苦心した跡がうかがわれる。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする