京都逍遥

◇◆◇京都に暮らす大阪人、京都を歩く

大徳寺興臨院 春の特別公開

2024-05-12 15:47:25 | まち歩き

大徳寺興臨院の2024年春季特別公開は、3/9(土)~6/16(日)の期間に開催されている。総門からまっすぐ進んだところに興臨院の門がある。

特別公開のリーフレットで、方丈庭園のサツキの写真が掲載されていたので、ちょうどいい時期になるのを待っていた。「花だより」に掲載されている寺社の中で大徳寺から最も近い仁和寺(大徳寺より1㎞ほど南)で、5月第1週にサツキが咲き始めとあったので、そろそろかと思い、先週末に行ってみた。

室内の撮影は禁止だが、建物から外を撮影することはできる。

写真ではわかりづらいが、わずかながら3輪ほどは咲いていた。

花だより|【京都市公式】京都観光Navi (kyoto.travel)

今確認すると、5/10付更新で、仁和寺のサツキは見ごろ終了となっている。

花頭窓から庭を見る。

花頭窓を背に、門と波型連子。

右手に赤く見える木は、濃紫(のむら)紅葉という名だと聞いた。

「ノムラモミジの葉の特徴は、新芽の時点で濃い赤色をしていることと、葉が大きく切れ込みが深いこと。」(春にも赤い葉が楽しめるノムラモミジ|育て方西や剪定方法・普段の手入れ方法も解説 (meetsmore.com)

ノムラモミジは、方丈西側に1本、北側にも2本ほど植えられていた。

方丈北の東側にあるノムラモミジは松と近接しているのに、どちらの木もよく育って見上げるばかりの大木。その樹上辺りで、ウグイスが鳴き続けていた。探したがウグイスを見つけることはできなかったので、録音かと思うほど。かなり上手な歌い手だ。ピッチがだんだんと上がり、しばらく休んでは、また低いピッチから鳴き始める。1オクターブ近くの声域。

方丈東側には茶室に続く飛び石がある。茶室「涵虚亭」も公開されていて、外側から拝観できる。この飛び石が続く左手に、にじり口が見える。拝観は水屋側の入り口からで、その入口は板間、右手には床の間、床の間の右端は袖壁になっている。これを「洞床」というらしい。何のための袖壁?花瓶も香炉も置くことができない。何か目的があるのだろうけれども。

興臨院は畠山家の菩提寺として建立され(その名は畠山義総の法名から採られた)、前田利家による本堂屋根修復の後、前田家の菩提寺になったとのことである。屋根の軒丸瓦は三つ巴、飾り瓦は五七の桐紋。お茶室襖や玄関の襖にも桐紋。前田家の家紋はもともと加賀梅鉢紋だが、利家は秀吉から桐紋と菊紋を下賜されたらしい。下賜されても加賀梅鉢紋を使用していたという話もあるが、修復時、瓦に桐紋を入れていたのだろうか。

方丈北東の部屋は「日本で最初の床の間」のある書院。利家公の肖像画掛け軸がかかっていた。

「室中の上部が響き天井となっている」と由緒書にあるが、見上げてもよくわからない。室中には入れないので試してみることもできない。礼の間、室中、檀那の間の襖には平成9年に描かれたという襖絵が。檀那の間の襖絵は寒山拾得で、昭和に復元されたという庭の石組(二人が、あるいは寒山が暮らしたという深山を模したもの)とリンクしていた。

GWのすぐ後ということもあって拝観する人が少なく、ゆったりと見ることができた。じゅうぶん堪能した頃、徐々に人が増えてきて、気がつけばウグイスの声も間遠になっていた。

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大徳寺黄梅院 春の特別公開

2024-05-06 15:19:44 | まち歩き

大徳寺塔頭黄梅院2024年春の特別公開は、3/30(土)~5/19(日)の日程で行われている。こちらも特別公開事業は京都春秋の運営で、リーフレットには破頭庭の写真。その写真にあまり魅力を感じなかったので期待していなかったのだが、建物に入るまでのよく手入れされた前庭、苔の美しい庭園、禅宗らしい枯山水の庭園は、見応えがあった。

黄梅院の名の由来は、禅宗五祖(達磨大師から数えて五代目)と言われる弘忍(ぐにん/こうにん)の出身地、黄梅県(現 湖北省黄岡市黄梅県)から採ったものであるらしい。箱根の早雲寺に北条氏政の正室(1543-1569 法名:黄梅院)の菩提寺が同名で建立されたことからも、当時、禅宗において黄梅の名が使われることがあったとわかる。

入口を入って右手に、鐘楼や庫裡を寄進した小早川隆景などゆかりのある人物名の入った石碑が4基ある。黄梅庵(黄梅院の前身)は、そもそも信長の父、信秀(法名 萬松院殿桃巌道見大禅定門)の菩提を弔うために建立されたことから、「萬松院殿」の石碑が、別格であるようにみえる。

左手奥には小さな鐘楼。

さきの入り口から高尾紅葉の大木の下、石畳を進むと、右手奥に唐門がある。唐門は貴人の入り口であるため、締め切りである。この位置からだと、枝が伸びすぎていて唐門の様子は判然としないが、唐門・方丈の屋根はともに最も格式が高いと言われる檜皮葺。

さらに進んで小さな門をくぐり、受付を済ませて前庭を見ながら行く。

写真撮影が可能なのは、次の写真の入り口までである。

この前庭には、七角形の葉をした低木が多く植えられ、ヒイラギモチに似ているが、何の木なのかわからない。天が平たく、小ぶりで艶のあるしっかりした葉。

信長の菩提寺とするため秀吉は黄梅庵を増改築したが、結局別に総見院を建立し、黄梅庵の本堂・唐門を改築後、名称は黄梅院に改められた。

内部には「直中庭」「破頭庭」「作仏庭」がある。

「直中庭(じきちゅうてい)」は千利休作庭と言われ、目立つ場所に秀吉の千成瓢箪を模した池がある。池には伏見城遺構の石橋がかかり、瓢箪の口近くには加藤清正が朝鮮から持ち帰ったという灯籠(総見院の井戸の石も同様。一体どれだけ持ち帰ったのか)、比叡山の不動三尊石、鶴石亀石、庭を横切る渡廊下の反対側(北側)には、多賀大社(?うろ覚えなので、違うかも)から分祀された祠と、秀吉手製という蹲(直径60㎝はある石をくりぬいたもので、石工でなければ作れそうにない)など、さまざまいわれのあるものが。

「直中」は『論語』から採られたらしい。

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葉公語孔子曰、吾黨有直躬者、其父攘羊、而子證之、孔子曰、

吾黨之直者異於是、父爲子隱、子爲父隱、直在其中矣

  『論語』巻第七 子路第十三 十八(岩波文庫)

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最終部分、「正直さはそこに自然にそなわるものですよ」(同書口語訳)とある。父は子のために隠し、子は父のために隠すという行為の中に正直さが備わるとは、なんと難しい。

塀を隔てた東側には「破頭庭(はとうてい)」。ここが、リーフレットや立て看板の写真の庭である。本堂手前に大海を表す白川砂、奥に陸を表す苔。庭に面した本堂南側は、東から「礼(らい)の間」「室中(しっちゅう)と仏間」「檀那の間」があり、檀那の間の正面辺りに観音菩薩・勢至菩薩に見立てた「聴聞石」が立っている。仏間の正面ではなく少しずらした所からお釈迦様の話を傾聴する姿。白川砂は規則正しく横に細く・太く箒目があり、静かな海の様子を表しているという。砂の北東角だけ箒目が扇形になっており、川の河口を表しているらしい。その川は、本堂北にある「作仏庭(さぶつてい)」の立石の滝から庫裡への廊下の下を通り、流れてきたようだ。また、川は作仏庭を東から西に流れ、ぐるりと建物をまわっているようにも見える。川の流れは波打つ箒目によって表現され、小舟や島を表す岩石に遮られたところは、箒目は曲線を描いている。本堂北側には、東から「書院の間」、僧侶の寝室である「眠蔵(めんぞう)」、「衣鉢(いはつ)の間」が配されている。仏間の裏手が僧侶の寝室となっており、床から60㎝ほどのところに板絵の入った仏間への出入り口があった。有事の際に仏様のお顔だけ外して持って逃げる、あるいは作仏庭に設けられた小さい井戸にお顔を避難させるための間取りと伺った。解説の方がとても詳しくわかりやすくて助かった。ただ、情報量が多すぎて、覚えきれず。

破頭庭の東側にある唐門(入ってすぐ右手に見えた、締め切りの門)まわりには波型連子(弓欄間)が施され、きれいだった。採光と通風に優れているし、禅宗らしい簡素な造りでもある。

書院は「自休軒」と呼ばれ、武野紹鴎作の茶室「昨夢軒」が北側にある。ここには「貴人床*(きにんゆか)」と呼ばれる床の間があり(解説より)、現在の御住職の手になる掛け軸「生死涅槃(尚)如昨夢」が掛かっていた。昨夢の語は大乗経によるらしいが、手元に参照できるものがなく、確認できなかった。確認できたら追記するつもりである。

【2024.5.9追記】

・読み仮名追加

・*印「貴人床」について、リーフレットより転記する。「昨夢軒の席は貴人床になっていて、書院自休軒の中に組み込まれているところから囲え込み式と言われている」。これだけではどんなものかわからないので解説員の方に伺うと、「床の間」とのお返事。また別の方は「貴人畳は知っているけれども、貴人床は何のことだろう」と。Webで調べてみたが、どういうものかはっきりとはわからなかった。

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大徳寺総見院春の特別公開

2024-05-05 20:23:54 | まち歩き
大徳寺総見院の春の特別公開は、3/30(土)~5/6(月)の日程で行われている。本坊同様、京都春秋が特別拝観を運営されていた。
 
快晴の2日、織田信長菩提寺という総見院に出かけた。信長一周忌に合わせ、その菩提を弔うため、秀吉によって建立された。総見院という名称は、信長の戒名(総見院殿贈大相国一品泰巌大居士 )に由来する。
信長の木造等身大坐像を実際に見るのが目的である。木像は吊欄間のある本堂の室中に安置され、多少薄暗い中ではあるが迫力がある。顎がしっかりとしており、教科書に掲載されていた緑の袴を身に着けた若い頃の肖像画とは雰囲気が違う。吊欄間の東側には、黒っぽい衣冠束帯姿の肖像画が掛けられており、これも違う。木像の作者(康清)も、肖像画の作者(狩野永徳)も信長と同時代人で実際に会ったことがあるとされているのに、また、どちらも当時の著名な芸術家であるのに、この違いは何だろう。
 
狩野永徳筆の信長肖像画は、大徳寺本坊と総見院に一枚ずつあるようだが、そのどちらかの絵が、本来は片身替わりの衣装だったことがわかっている(2011年6月)。左右の袖色が違う片身替わりは当時の流行で、新しいもの好きの信長にはぴったりだ。
 
日経新聞:目立たれては困る 信長の肖像画、秀吉が改変か 刀少なく、服装も地味に - 日本経済新聞 (nikkei.com)
im:狩野永徳の織田信長像、当初は派手だった | ニュース | アイエム[インターネットミュージアム] (museum.or.jp) 
 
信長坐像は、秀吉が、二体作らせたうちのひとつだという。沈香で造られたというひとつは、葬儀の際に遺体の代わりとして火葬されたらしい。棺に入れたのなら、そちらは坐像ではなく立像だったのだろうか。また、沈香は貴重なものだし、等身大像を造ることができるほどの大きな香木が存在したとも思えない(正倉院所蔵の香木は156㎝×径43㎝、重量11.6㎏)。一部香木を使用した、ということか。
 
「2体彫られたうちの1体は、葬儀の際に荼毘にふされますが、香木によって作られたその木像の薫りは洛中一帯に広がったと言われます。」
京都市観光協会 総見院|【京都市公式】京都観光Navi (kyoto.travel) 
 
 
写真左は正門。右は、通用口で、ここから左側約10mほどが「親子塀」と言われる二層の塀で、創建(1583年)当時のものということである。
親子塀は内側と外側で二重に塀が造られ、内部に人が入れるほどの空洞があるらしい。通用口の塀は、下部約80㎝、上部約60㎝、高さ2m未満であることが確認できた。下の写真は、通用口から、親子塀上部を撮影したもの。
明治の廃仏毀釈以降、堂宇や宝物が失われ、さきの木像や鐘は本山に避難させたらしい。木像は1961年本山より戻り、鐘は鐘楼とともに現在も塀のすぐ外側にある。鐘楼と鐘は創建当時のものというから、塀を新しく内側に作って、鐘は総見院のものではない体としたのだろうか。現在も、鐘は「本山に預けている」ことになっているらしい。
下の写真は、木像を本山から戻す際に載せた輿。外廊下上部に吊り下げられている。黒漆と赤漆が使用されているのだろうか。大切に取り扱われたことがわかる。
 
 
総見院には駒札がなく、市によるオフィシャルな解説は、上の「京都観光Navi」のみのようだ。フィールド・ミュージアム京都の「大徳寺」には、総見院は掲載されていなかった。
 
北山杉の台杉や小さめに仕立てられた低木など、上品な庭。入口傍にある侘助椿が有名らしいが、花の季節は過ぎていた。
 
加藤清正が朝鮮出兵の帰国時に持ち帰ったと伝わる石で造った井戸は、深く暗い。現在も地下水の流れがあり、水はとどまっていないのだという。
 
信長一族の墓所は境内北西にあり、「比叡山が見える」との解説が。境内外、西側の道路から、確かに比叡山を望むことができた。
 

 
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