東大路通で所用を済ませ、また知恩寺でも・・・と思っていたら、激しい雨。頭痛もするし無理はすまい、と百万遍からバスに乗り、今出川通を西へ。ふと思いつき、御所西の姉宅へ寄ろうと、烏丸今出川で降りて、烏丸通を南へ下った。
蛤御門の辺りで、雨は小降りになった。すぐ傍に護王神社がある。ちょっと寄ってみた。
烏丸通沿いの塀の上に、木芙蓉が。いくつか蕾も見つけた。この優しげな淡紅梅色。みごとに咲き誇る様子を見て歩いたら、うきうきするだろうな。濃紅梅色の蕾と、淡萌黄色の葉で、かさねの色目で言うところの、「紅梅の匂」に近い。葉が青色だったら完璧だった。
狛犬の代わりに、猪が、鳥居前と拝殿前を護っている。
この猪たちの謂れは、神社の由来とも関係がある。 神社の主祭神は和気清麻呂と、その姉、和気広虫姫。和気清麻呂は、道鏡の皇位継承を阻止し、流罪となるも、許されてから後、長く活躍する人物である。宇佐八幡への道中、300頭もの猪が周りを取り囲んで護ったという故事から、明治期に猪たちが建立されたらしい。平安京への遷都を桓武天皇に進言したのも彼。
さきの烏丸通沿いの塀には、いくつかパネルがかかっている。戦前の十円紙幣には、この護王神社が描かれていたとのこと。お札のデザインにも、その時代が反映される。ここの祭神は、皇族による皇位継承の正当性を主張した人物だ。
社殿は、もと、和気清麻呂造営の神護寺に霊社としてあり、明治19年(1886)現在地に移された。なお、明治7年(1874)に「護法善神」から「護王神社」に改称され、「別格官幣社」となった。別格官幣社とは、国に功績を挙げた人物を祀る神社で、官幣小社と同格らしい。これら近代社格制度は明治4年(1871)に制定されたが、昭和21年(1946)神道指令に従って、廃止されている。
猪の台座にある、この紋(写真左)は何だろう。「尼ケ崎藤」に似ているが、少し違う。門の扉には、大きな菊紋(写真右)が。よく見ると、拝殿や本殿のあちこちに菊紋。「社殿の装飾に菊の紋章を使用することは、当初は官幣社のみに許されていたが、明治7年に国幣社にも許可されるようになった(ウィキペディア)」とあるが、それにしてもきらびやかだ。皇室に対して特別大きな功績があったことを誇示しているのか、それとも「別格」として何か特別な配慮がなされたのか。
ここは、「足腰の健康・病気怪我回復」のご利益があるらしい。遅かった。足の怪我は何度したことか。先月も、足の裏を切って、縫合したばかり。
さらっと一周りしてから、姉宅へ。姉は午前中、知恩寺の手作り市へ行って来たと言う。そうか、手作り市は15日だった。雨降りだったけど、ちょっと見てくれば良かったな。