京都逍遥

◇◆◇京都に暮らす大阪人、京都を歩く

詩仙堂・丈山遺宝展

2010-05-26 00:22:48 | まち歩き

ここ8年、詩仙堂に通っているのに、遺宝展(5/25~27)に行ったことはなかった。今年は絶対忘れず行こうと、初日に出かけた。

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道路に面した門(写真上・左)をくぐると、ゆるやかに続く階段の両側から竹が生い茂り、静かな時が始まる。竹の間から見える茅葺の建物(写真上・中)はプライベート空間で、現在も使われている、と伺った。階段の先には低い門(写真上・右)があり、本来の玄関は、石畳の先、その正面。開け放した玄関から、座敷を通して向こう側に新緑の庭が見える。拝観入り口は建物左手。開門は9時で、早めに行ったつもりでも、先客がいた。遺宝展は10時開場(~4時)なので、時間まで、ゆっくりとお庭を楽しんだ。

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さつきは、あと10日~2週間というところだろうか。さつきの時季も楽しみだが、今の庭は、茶花が多く、彩り豊か。

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バイカウツギ(上段左)、カキツバタ(同右)、アヤメ(中段左)、オオベニウツギ(同右)、オオデマリ(下段左)、テッセン(同右)。このテッセンは、十方明峰閣(坐禅堂)の垣根にあり、ここで遺宝展が行なわれていた。

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ここは、通常拝観できず、お庭にも入ることはできない。垣根越しに見るしかなかった建物に、入ることが嬉しい。

和室の壁に笹竜胆の紋(石川家の家紋、と伺う)の入った幕がめぐらされ、それを覆うほど沢山の掛け軸が吊るされている。漢詩の大家である丈山使用の典籍が木箱と共に。狩野探幽画の36歌仙の杉板が2枚、『詩堂』や『小有洞』などの扁額などなど。襖には真新しい襖絵(5年ほど前にできたらしい)が垣間見え、これもいつか見たいものだと思う。

何と言っても圧巻は、丈山筆の隷書体の掛け軸。隷書体は、パソコンで使用するフォントとしてしか、目にしない。手書きの、この美しさ。

もう一つ、気になったのは、王維の五言絶句の書。ちょうど手持ちの『漢詩鑑賞事典』に載っていた。タイトルは『竹里館』。

獨坐幽篁裏/彈琴復長嘯/深林人不知/名月來相照

奥深い竹林に独り座って、琴を弾いたり長吟したり。この愉しみは月と自分だけが知っている・・・。この漢詩は、徳川から離れ、文人として暮らした丈山の境地、そのものと思われる。『都名所図会』の絵図を見ると、『小有洞』門の周囲は竹、また竹。

一句目は、詩仙の間の、床の間にあった掛け軸「独坐鎮寰宇」を思い出させる。「寰宇」とは世界の意で、調べてみると「唯我独尊絶対主観の境地」という意味らしい。茶席の掛け軸で用いられる禅語とのこと。この意味、仏教とは隔たっているような気がする。個人的には、坐禅を組んで無の境地に至ると心が澄んだ宙のように清らかになる、そういう坐禅を勧める標語のようなもの、のように感じる。主観に重きを置いていないように思うのだ。只管打坐。ひたすら坐禅せよ、ということではないか。

『都名所図会(1786年再板)』では「詩仙堂」、『拾遺都名所図会(1787年)』でも「詩仙堂」、『都名所画譜(1894年)』では、「詩僊堂」の名で絵図が掲載されている。さきの扁額と同様の文字だ。「仙」は、もとは「僊」の俗字だと、『新字源(角川)』にあった。「最初は、こちらの字を使っていたようです」と、ご住職。

(日文研HP『都名所図会』:http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/page7t/km_01_232.html

(同『拾遺都名所図会』:http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyotosyui/page7t/km_01_409.html

(同『都名所画譜』:http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/gafu/page7/KM_07_01_011F.html

『拾遺都名所図会』は、丈山の名について詳述している。「石川丈山の姓ハ源氏 諱ハ重之 初の名ハ嘉右衛門 後に左親衛と改む 一の諱は凹 字は丈山 六々山人と別穪して世々三州に住す」。

笹竜胆紋は、凹凸窠玄関前の須弥檀の緞帳にも刺繍されていた。笹竜胆と言えば、清和源氏のシンボル。丈山は、さきの引用より、源氏だ。また一方で、竜胆は、曹洞宗の寺院に多い紋とも言われる。宗祖・道元が久我家(村上源氏)出身で、その家紋が竜胆だからだ。この詩仙堂は、現在、曹洞宗大本山永平寺の末寺となっている。二つの意味の笹竜胆。しかし、ここの寺紋は、ひっそりとしている。普段目にするのは、緞帳の一箇所のみ。飾り瓦や軒丸瓦にも、その意匠は見られない。

「凹凸窠」から取ったのか、「凹」が諱というのは珍しい。一体誰がつけたのだろう。

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賀茂祭(葵祭)

2010-05-16 00:22:37 | まち歩き

「賀茂祭」が正式名称であることは、下鴨神社楼門に掲げられた看板(写真下・左)からもわかる。「葵祭」の名称は、江戸時代、祭の装飾に葵桂を使用したことから呼び習わされるようになったものだ。

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京都御所を10時半に出発した行列は、下鴨神社に11時40分頃到着する。御所では2~3回見たので、今日は神社へ。行列の人たちのお食事時間を考慮して、1時に行ってみた。糺の森の 馬場には人垣ができていて、これから走馬の儀が行なわれるという。参道中ほどに看板(写真上・右)が出ていて、見どころと時間が表示されていた。同じ内容のチラシも、早く行けば手に入る。楼門の隙間から社頭の儀を見ることはできないかと、鳥居の方へ近づいた。残念ながら鳥居の向こうは進入禁止。馬が出てくるのを見るしかない。

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馬が馬場の方へ移動すると、鳥居の向こうを通行できるようになった。

とにかく楼門の方へ。それでも楼門手前でロープが張ってあり、社頭の儀の様子は伺えない。

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門前に控える従者(写真上・左)。勅使代が祭文を奏上する社頭の儀が終了して、みな楼門から出てくる(写真上・中)。並んで、勅使代が出てくるのを待つ(写真上・右)。そう、祭の本来の主役は、勅使だ。宮内庁の掌典職が、その役に当たっていた。岩清水祭、春日祭、賀茂祭は、三勅祭と呼ばれるらしい。

1時半を過ぎて、やっと楼門が開放され、参拝できるようになった。舞殿では狂言奉納(写真下・右)が始まった。

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ゆっくりしてはいられない。路頭の儀を見たいし、上賀茂神社にも行かねば・・・と、狂言が一つ終わったらすぐに、御蔭通に戻り、自転車を押して下鴨本通を北へ。行列は下鴨神社北西の鳥居から西へ出るので、その細い道と下鴨本通交差点辺りはとても混雑している。北大路通りまで、住宅街の中の道を通り、下鴨中通と北大路通の交差点で見物することにした。北大路通りを行列が通るため、西行き車線のみ通行止めにしている。3時前、行列は通過。馬のご機嫌を伺いながら、信号を待ちながらなので、すっきりしたパレードとは言い難い。

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幼稚園児が道路に座っていたところ、警備の人に「馬が暴れたときにすぐ逃げられるように立って見てくださいね。」と言われていた。確かに。

行列が通過するとすぐ、下鴨中通を上がって上賀茂神社を目指す。3時半頃到着。行列の到着は4時頃だっただろうか。ここの社頭の儀は、勅使が奏上した祭文を、宮司が幣物と共に神前に奉納するとのこと。同じ祭文が、下鴨神社と上賀茂神社で奏上されるのだ。行列の到着時は木陰に避難したほど眩しく暑かったが、社頭の儀が終わる5時半過ぎには、涼しい風が吹き始めた。

続いて走馬の儀。すごい勢いで駆け抜ける馬。「フラッシュ禁止」と、何度もアナウンスがあり、最初は遠慮していたにも拘らず、あちこちで光り始める。それでなのか、馬が一頭、鳥居前で曲がりきれなくて、鳥居の中に突っ込んでしまった。騎手は振り落とされたが、大丈夫そうだった。その後は、早めにスピードを落とすのが、見ていてよくわかる。

走馬の儀が終了すると、参拝が可能となる。参拝を終え、神社を後にしたのが6時半。来年は、上賀茂神社の西側拝観席で見よう。

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御蔭祭

2010-05-13 00:56:29 | まち歩き

葵祭に先立って、下鴨神社に神霊を迎える神事が、今日(5/12)行なわれた。

上高野の御蔭山(御生山:みあれやま)が、鴨の大神降臨伝承の地だ。下鴨神社でお祓いした一行は、その山の中にある御蔭神社に向かう。御蔭神社本殿で荒御魂を神木に遷す神事を行い、神馬に乗せた神木を下鴨神社に運ぶ途中、高野の賀茂波爾神社(赤の宮)に寄り、路地祭を行なう。下鴨中通の北大路通南辺りから馬や馬車を仕立てた旧来の徒歩行列となり、下鴨神社の参道に入る。糺の森で切り芝神事を行い、下鴨神社本殿に荒御魂を遷す、という具合に儀式は進む。

下鴨神社楼門、9時頃。儀式の間、この楼門から入ることはできない。

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門の後方から、樹下の神事を見ることができた。斎串を振ってから息を吹きかけて半分に折り、後で御手洗川へ流すのだそうだ。「樹下」というぐらいだから、かつては糺の森にある川の傍で行なわれたのに違いない。斎串に穢れを移して、水に流すのだ。

神事が終了すると、行粧は参道にスタンバイしている車やバスに分乗して、御蔭神社に向かう。御蔭通を東へ、御蔭橋をわたって川端通を北へ進んだようだ。なるほど、御蔭祭で通る道路だから「御蔭」なのか。

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御蔭神社は、叡電八瀬比叡山口駅の南西にある。叡電をはさんで、エクシヴの向かいにあるという感じだ。三宅八幡駅からは徒歩15分程度。上り坂が続くが、充分歩ける。三宅八幡から線路沿いに東へ延びる道はやがて細い山道となり、その先すぐに案内板。そして鳥居が見える。あまりに寂しい道。

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鳥居を過ぎればまだ上り坂。 坂の突き当たりに手水所があり、左手の階段を登ると、本殿。

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本殿内では、下鴨神社宮司が、正午に祭神二柱の荒御魂を神木に遷し、白い布を掛けた小さな櫃に入れて、幕から出てきた。儀式終了後の本殿(写真下・右)。下鴨神社と同様、東西2つの本殿がある。下鴨神社の法被を着た方に聞くと「東は玉依日売命荒御魂、西は賀茂建角身命荒御魂」とのこと。では、下鴨神社の場合と反対になる。本当なのか?

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本殿のある高台から、坂を下る列が見える。鳥居前の由緒書(写真下・右)、本殿前の立て札、山道の案内板、それぞれ「カゲ」の文字が違うのが不思議。

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『拾遺都名所図会』に「御蔭神社御祭」の絵図がある。「御本社」が二つ、行列の様子(木の枝を持つ先導、太鼓)など、今と変わらない様子も描かれている。http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyotosyui/page7/km_01_452f.html

「御蔭山」の解説文もある。http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyotosyui/page7/km_01_441.html

山道を下ると再びバスに分乗、北泉通でバスを降りて、大原道を赤の宮へ向かう。行列が到着したのは2時頃。赤の宮には露店がぎっしり。儀式の間に客の呼び込みをするのは止めてほしい。

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本殿での儀式、雅楽の演奏、そして舞の奉納があった。写真下・右は、儀式が終了した後の本殿。

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3時半を過ぎて、一行は、御蔭通り西から、参道に入った。

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行列が通った後、参道の中ほどで見物客は進入禁止になる。回り道をして、切芝神事の行なわれる所へ急いだ。時すでに遅し。人垣の間から神事を見ることになる。神馬を前に、東游 の舞が行なわれ、最古の祭儀式と言われる三代詠が奏された。

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神事が終わり、順に下鴨神社へ向かう。朝のお祓いと切芝神事には、マイクを持った神職さんの解説があった。観光客に親切。よく分かって、ありがたかった。

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行粧は、このまま本殿に入り、4時半頃、本殿の門は閉ざされた。ちゃんと門番がいる。門前両脇の木には、御幣のようなものが沢山かかっている。荒御魂を本宮に遷御する神事は、5時頃終わった。待っていた人たちは門の中に入り、拝殿前で参拝。祭で使用した小道具が拝殿に置かれていた。

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上賀茂神社でも 、同日の夜中、神山から神霊を迎える御阿礼神事を行なうそうだ(非公開)。立命館大学文学部リレー講義「日本文化の源流を求めて」というシリーズのHPに、下鴨神社の宮司さんの話が載っていた。「御生(みあれ)」とは「流れている水が大切だということ」「水にはそういう生命を生み出す大きな力がある。太陽にはそれを育てる大きな力がある。そこにこめられた力、威力、それが神さん」とあった。

境内で下鴨神社の法被を着ておられた方に伺うと、「神さんは毎年生まれ変わる」とのこと。本宮に和御魂がおられるところに荒御魂を迎えて「若返る」、という表現もどこかで読んだ。

神とは、本来、荒ぶる神だ。祟る神もいただろう。そういう大きな力、恐ろしい力を鎮めるため、祭りというものが行なわれた。供物を備え、舞を奉納し、鎮まって頂く。荒御魂から和御魂になって頂く。そうして実りと安定を願ったのだろう。今は田植えの時期。これから育つ稲をどうかお守りください、という意味が込められているのでは。あるいは、生命の息吹がそこここに感じられるこの季節に、神さんも、新たな生命力を得るということか。

最後に、それぞれの神社のフタバアオイの神紋を、比べておこう。

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10_034 写真上・左は、下鴨神社。きちんと撮れていないが、右の葉は左に比べて立っている。また、蕾は左の茎から右側へ。

写真上・右は御蔭神社。蕾の出方が違うが、それ以上に陰陽の2色の葉が印象的だ。

写真下は、赤の宮。左右の葉のバランスは下鴨神社と同様だが、蕾が茎の上の方についている。ただ、ここの舞殿の幕(写真の左下の白い帯部分)は、この意匠と、反転した意匠とが交互に描かれていた。上賀茂神社の、葉と蕾が反転している意匠(葉脈の模様は違うが)を思い出させる。

ついでに、下鴨神社拝殿手前の門の両脇に立てられていた剣鉾の吹散(旗)には、徳川葵と上下逆の三つ葉葵の刺繍が(門番のいる写真)。また、当日の小道具に使われた旗には、片面に徳川葵、もう片面に神紋の双葉葵が刺繍されていた。

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須賀神社・神幸祭(角豆祭)

2010-05-10 01:01:03 | まち歩き

聖護院門跡の南向かいにある須賀神社。剣鉾が出るという神幸祭は、5月第二日曜だ。

10_006_2 春日上通に面した鳥居(写真左)付近には、自転車がいっぱい。神事に出席する方のものか、行列に参加する方のものか。交通整理の警官も出ている。神官の一人に許可をもらって、鳥居前に自転車を置かせて頂いた。

10_002 境内では、行列に参加するアルバイトの学生さんたちが大勢、装束に身を包んで待機。行列の小道具(写真右)も出ているし、自転車は邪魔になった。

鳥居をくぐって左側に本殿がある。

10_001_2 神事は1時から始まっており、私は少し遅れて着いた。名前を呼んで、順に玉串を上げておられるようだ。吉田神社総代の方も呼ばれていた。聞けば、午前中は吉田神社の神事に須賀神社の氏子ら関係者が出席したとのこと。

「吉田神社とは関わりがあるのよ。聖護院さんもね。」と教えられた。

須賀神社は、1141年創建だが、吉田神楽岡に長期間遷座(1332~1924年)していたため、吉田神社との関係が深いのだろう。写真上は、神事が終了して撒饌が済んだ頃。約30分の神事の間は、撮影を遠慮した。

本殿奥に黒っぽく写っているものが、祭で町内を巡行する神輿。神官・氏子らが退席すると「バイトさん」と声がかかり、神輿を出して、巡行準備を始めた。

10_003_2 準備にはおよそ30分(写真左)。2時前に行列は神社を出発し、春日上通を東へ、錦林小学校まで。学校沿いの吉田東通には、各町の子ども神輿がずらっと並んで待っていた。行列は北へと進み、後ろを、子ども神輿がついてゆく。神楽坂通を折れて、聖護院脇の道を下る。春日上通に突き当たり、西へ。

10_021_2 聖護院前で、お寺の方から祈祷を受け(写真右)、東大路通を越えて京大病院の間の信号まで。そこで休憩してから、南側の町内を廻るのだという。疏水の橋を渡った向こうに聖護院蓮華蔵町があり、そこへも行くのだと聞いた。

10_016_2 剣鉾は、殆ど担いで廻る(写真左)が、何ヶ所かで「鉾差し」が行なわれる。鉾を立てて、腰につけた差袋に載せ、鈴を鳴らすのがそれだ(写真下)。剣鉾は、4基だった。

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狭い路地で、電線の間を縫うように鉾差しをする所(写真下・右)もある。京大病院前では、いくつかの剣鉾が一度に鉾差しを行なった。見るからに重い鉾を、バランスを取って持ち、天に突き上げるようにして鈴を鳴らす。悪霊退散。どなたもベテランのようにお見受けしたが、かなり難しそうだ。

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鉾のかざりの神額には、それぞれ「天得矛」(写真下)・「 西天王」・三日月の意匠・太陽の意匠が見られた。

10_023_2 鉾を持つ方々の法被には、鉾かざりの意匠に合わせた紋が入っていた。これは葵。神額の下(写真では右側)には、立ち葵紋のようなものが見える。

10_004 神社の提灯(写真右)や行列の小道具殆どに、三つ巴と木瓜紋が入っていた。八坂神社の神紋と同じ。

そもそも、全国の須賀神社は、祇園信仰の 神社である。須賀神社をはじめ、八坂神社・八雲神社は「天王社」であり、牛頭天王=スサノオノミコトを祭神とする。ヤマタノオロチを退治したスサノオが、クシナダ姫と結婚して住む土地を探したとき、「この土地に来て、私の心はすがすがしい。(『古事記』河出文庫)」と言って、出雲の須賀に宮殿を建てたのだという。またそこで「八雲立つ」の歌を詠んだことから、「八雲」「須賀」は、スサノオと関連する神社の名前となった。

この神社が、かつて平安神宮の地にあって「西天王社」と呼ばれていたのは、牛頭天王からきた名だろう。平安神宮は「岡崎西天王町」で、近辺には「岡崎天王町」「岡崎東天王町」の地名が残っている。

「角豆(ささげ)祭」の謂れともなった、ササゲ(マメ科の一年草)に似たキササゲ(ノウゼンカズラ科の落葉高木)が、境内に生えている(写真下)。「ささげのつる葉に多くのさや豆がつくように氏子の繁栄を祝う意味であろう」と、鳥居前の京都市の立て札にあった。

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10_027 祭の最中、人気のなくなった本殿を見ると、まだ新しいことがよくわかる。

「5年ほど前の、祭前日の夜中に、全焼したの。神輿も、燃えてしまって。」「氏子が、頑張って再建したのよ。原因はわからないの。放火か、失火か。 」

ひどい話があるものだ。無事再建なった須賀神社の、氏子の皆さんのご苦労を想像する。

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