伏見に所用があり、城南宮に行ってみた。1号線に面した西側第一駐車場に入ろうと地図を見ながら行ったのに、東の第三駐車場に入ってしまった。駐車場の北、「城南離宮」と扁額のかかった石の鳥居から入る。
参道は石畳で、すっきりと明るい。ここはよさそうなところだと期待が高まる。庭園入口、直幡津神社などを過ぎると、すぐに丹塗りの鳥居が。神幸祭神事は始まったばかりで、三基の神輿の前に神職さんがお神酒・りんご・柿・鯛など、次々とお供え物を運び、祝詞が奏上され、玉串奉納と続く。
神事を拝見する人は少なかった。お供え物を撤去して神職さんが下がって行かれ、あとは12時からの神輿のお練りを待つばかりとなる。写真下・左は、神輿前に供えられた様子。お供え物と神輿の間に見える紅白は、餅。江戸時代は、貴重な餅を来場者に配ったとことから、「餅祭り」とも言われたらしい。
三基の神輿前の札にはそれぞれ氏子区域の名前が書かれている。左から、松神輿(下鳥羽・塔ノ森)、竹神輿(武田)、梅神輿(上鳥羽)。
舞殿には獅子舞の獅子、拝殿前には鉾と吹流しを飾っている。これらは祭りのときだけ出されるものらしい。
鉾の金具にも、それぞれ松竹梅の模様が入っていた。写真は裏から見たところ。昔は、鉾も神輿と一緒に巡っていたのではないかという気がする。悪霊を退散させるために、鈴を鳴らし、天を突いて。
本殿の左右に小さなお社が鎮座していた。向かって左手に三社、右手に四社。右には住吉大神とか、大国主命とか・・・・・・。さすがにお社は撮影できなかったし、書き留めもしなかったため、詳細は忘れてしまった。
さて、この神社のご祭神は、国常立尊、八千矛神(大国主命)、息長帯日売神(神功皇后)の三神である。神社HPによると、ご神体は、神功皇后が 船で出陣の際、戦勝を祈願して八千矛神を招き寄せた御旗なのだという。平安京が作られたとき、宮中で保管されていたその旗をご神体として、三神を祀って都の守護神としたのが神社の起こりなのだそうだ。
城南宮HP:(http://www.jonangu.com/history.htm)
しかし、『古事記(新潮日本古典集成)』に依れば、神功皇后への新羅親征の神託は、大国主命を招きよせよというものではない。
「こは、天照大神の御心ぞ。また、底箇の男・中箇の男・上箇の男の三柱の大神ぞ。今まことにその国を求めむと思ほさば、天つ神地つ祇、また山の神また河海のもろもろの神に、ことごと御てぐらを奉り、わが御魂を、船の上に坐せて、真木の灰を瓢に納れ、また、箸またひらでを多に作りて、みなみな大き海に散らし浮けて度りますべし(同書p.176~177)」
大国主命は、「地つ祇」であり、ここでは並列して挙げられる多くの神の中の一である。「わが御魂」は航海の守護神たる住吉三神を指し、この神が自身を「船の上に坐」すよう促している。この神社のHPの由緒で、なぜ大国主命だけをピックアップしたのかわからないが、本殿の周りに、小さなお社が7つもあるのは、こういった意味からなのだろう。
鳥居、鉾飾り、提灯、軒丸瓦などに見られた神紋は、日月星。鳥居と、前述した七社のうち一つの飾り瓦には菊紋も、神輿の提灯には三つ葉葵も見られた。神功皇后だから、菊紋。徳川葵の由緒はわからないそうだが(巫女さんに聞いてみた)、境内にある直幡津神社の紋が、三つ葉葵(写真下・右)だからかも、とのこと。
1号線に面した鳥居から入る第一駐車場は、今日は半分に区切られ、出店が並んでいた。昼から賑わうのだろう。
曲水の宴が行われるお庭も、神輿巡行も時間切れとなり、渋々車に乗り込んだ。