京都逍遥

◇◆◇京都に暮らす大阪人、京都を歩く

妙心寺退蔵院

2009-11-28 00:00:24 | まち歩き

昨日夕刊の「紅葉だより」に依れば、まだ「見頃」とのこと。ここ数年は、どこも11月末が見頃だったのに、今年の京都の紅葉は、一週間ほど早いようだ。先週は寒かったし、忙しかったし、出かける気になれなかったのだから仕方がない。退蔵院の今日は、見頃には遅れたが、まだきれいな紅葉が残っていた。

妙心寺は、開基・花園天皇により、関山慧玄(無相大師)を開山として1342年建立された。臨済宗妙心寺派の大本山である。退蔵院を始め山内塔頭は38、境外塔頭は10。

退蔵院は、開基・波多野重通により、妙心寺第三世無因宗因禅師を開山として、1404年千本松原に創建された。今の下京区、JR丹波口駅近く、当時で言えば、殆ど都の南西の果てになる。妙心寺派の寺院としては、肩身の狭い思いをしつつの創建だったろう。1399年、反・足利の大内氏と妙心寺第六世との関係のため、妙心寺寺領が義満に没収されているのだ(名称も龍雲寺に変更させられた)。1432年に妙心寺が返還され、妙心寺中興の祖・日峰宗舜が、退蔵院を、その山内に移転させた。寺は応仁の乱で焼失するが、亀年禅師により中興され今に至る。写真下・左は、退蔵院の門。写真下・右は、本坊。

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本坊左手の石畳をゆくと、方丈への入り口がある。そこを入ると「袴腰造り」という札がかかっているのだが、これがよくわからない。退蔵院HPには「唐破風造りの変態で非常に珍しいとされている玄関の様式」「破風の曲線が直線になっており、ちょうど袴の腰のよう」とあるが、どの破風のことなのか・・・。袴腰造りは鐘楼に多いようだ。建物が袴をはいたように見えるところから、この名で呼ばれるらしい。鐘楼の場合は、写真で確認するとよくわかり、納得できるのだが、この玄関については、解説がほしかった。写真下・左が、方丈への入り口。塀に連なっているので門のようだが、これが「玄関」なのだろう。玄関なら、この直線的な屋根の部分は破風といえる。これが、袴の腰の部分に似ているということだろうか。写真下・右は、「袴腰造り」の札のあった廊下から、写真左の入り口に向かって撮影したもの。ついでに、写真下・左に見える軒丸瓦は、三つ巴。他に紋らしきものは見当たらなかったので、これが寺紋と考えていいだろう。

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方丈正面の庭は、はっきり言ってつまらない。苔に松が2本と椿。背景に数種の常緑樹。そのスギゴケの状態が良くないのだ。

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普通は、方丈正面に見応えのある庭をおくものだ。ところが、ここは正面右手から右奥(西側)にかけて、「元信の庭」と書かれた枯山水が広がる。 作庭は、庭師でも有名な禅師でもなく、画聖・狩野元信。方丈西側の襖を開け放つと、そこに自然の襖絵が現前するような、そんな庭を造ろうとしたらしい。西側から見たなら、右側・築山奥に立石による段落ちの枯滝、組栗石を敷いた渓流、手前に亀島、鶴島、西に三尊石、その向こうに蓬莱島。滝からの水の流れが大海に注ぐ様子をあらわしているそうだ。石組みと白砂に低木や熊笹をあしらった、禅の庭である。方丈外廊下からの拝観は、枯滝や石橋など、あまりよくわからなくて残念だった。方丈外廊下には、国宝・瓢鮎図の複写パネルがあった。日本における水墨画の祖、如拙が描いた瓢鮎図は、禅機画(禅の悟りの契機を描いたもの)であり、義持の命によって31人が賛詩を寄せている。実物は、京都国立博物館に寄託しているとのこと。

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この庭の奥には、昭和の庭である余香苑がある。こちらで紅葉を見ることができた。入り口の門には鯰の彫刻。正面門の塀や庭を巡る塀の飾り瓦には鯰と瓢箪があった。お茶席で頂くお菓子にも鯰の柄が入っている。

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この庭の水琴窟は、圓光寺のような、水鉢傍で竹筒を耳に当てる方式とは違った。手水に使った水が、蹲の下に埋められた瓶に反響するという仕掛けである。ただただ、柄杓を取って那智黒石の上に水を流し、遅れて聞こえる反響音を楽しんだ。

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余香苑では、枝垂桜やサツキ、椿に牡丹、蓮など四季を通じて花を楽しむことができる。また、春には観桜会、秋には観月会・観楓会と、精進料理とセットになったプランも用意されているらしい。妙心寺通沿いには、退蔵院専用の駐車場もあった。                 退蔵院は、年間通じて一般拝観を受け入れており、妙心寺塔頭の中で、最も外に向けて開かれたお寺なのかもしれない。                                                 

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正伝寺

2009-11-26 23:59:58 | まち歩き

山号・吉祥山、正式名称・正伝護国禅寺。1268年、東巌慧安禅師により開かれた、臨済宗南禅寺派の寺。昨日行った光悦寺のすぐ北の、西賀茂・毘沙門山の中腹にある。元は一条今出川にあったのを、1282年、加茂の祠官森経久が西賀茂の荘園を寄付して、ここに伽藍を造営した。室町時代は皇室の信仰篤かったというが、応仁の乱で衰退、秀吉・家康らの庇護により、江戸時代には塔頭は五寺あったのだという。

山門をくぐると、巨木に圧倒される。

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09_004_2 少し歩くと、再び門が。そこからさらに坂を登る。

本堂に続く坂の脇に植えられた杉の大木は、圧巻。

これは、方丈から庭を眺めた時にも見えるのだ。

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拝観は、重文・方丈の外廊下から、方丈内部を見、獅子の児渡し庭園を眺めるのみ。方丈は、伏見桃山城の御成殿を移築したもので、淡彩山水画の襖絵がある。方丈中央のご本尊を安置する間には、圓光寺で見たのと同じような紫の幕が2本。「大本山南禅寺」とあった。入り口近くの間は、10畳の普通の畳敷きで、襖絵の入った襖の向こうには、奥行き一間ほどの部屋が続き、違い棚が見えた。奥には茶室でもありそうな、侘びさびを感じる静かな空間。

お庭は、禅寺らしく筋目の入った白砂敷平庭。ただ、この庭は、龍安寺に代表される石の代わりに、さつきの刈り込みを七五三に配している。龍安寺は柿葺油土塀で、なお一層さびを感じさせるが、ここは白い土塀に瓦葺き。地から天へ目をやれば、白砂のグレー、さつきの緑、塀の白・グレー、借景の緑、遠くにかすむ比叡山・・・と、無彩色と緑の層を成す。

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写真左は外廊下で座って撮影、写真右は、外廊下奥で立って撮影したもの。ともに、方丈中央やや左寄りから、庭を眺めたものである。比叡山が真正面。右手の緑は山の稜線、左手の緑は参道脇の杉である。両方から比叡山に向かって斜めに下りる線。この遠近法は、いずれ何年も先に、比叡山の頂上が消失点になるのだろうか。

上の写真から見えるだろうか。塀の外、左寄りに鐘楼、中央にみかんの木がある。比叡山と、周りの山の緑を借景にするなら、この木は伸びすぎだ。禅寺の庭は造りこんだ庭なのだから、作庭家(小堀遠州)の意図したように整えて欲しい。作庭家の意図・・・書き残したものがないなら、管理する人が想像するしかないのか。

鐘楼の瓦には丸に正の文字が入っていた。本堂や山門、鐘楼の軒丸瓦などは、三つ巴。

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駐車場の方から帰ったら、看板を見つけた。

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カート?プレーヤー?と、目の前を3~4人の男性とゴルフバッグを積んだカートが通り過ぎる。境内を横切るこの通路は、ゴルフ場のものらしい。写真上・右の中央辺り、通路奥は、ごく短いトンネルで、この上が参道なのだ。参道下を横切るとはいえ、山門の中にゴルフ場通路があるとは。地図で確認したら、正伝寺を囲むようにゴルフコースがあり、この通路はクラブハウスから17番ホールや5番ホールに行くために使われているようだ。 京都ゴルフ倶楽部舟山コース。近郊のゴルフ場を地図でさらっと見てみると、上賀茂神社に隣接して京都ゴルフ倶楽部上賀茂コース、万福寺(宇治市)傍には宇治カントリークラブ。

せっかく西賀茂まで足を伸ばしたので、おつかいものとして有名なパティスリー菓欒の西賀茂チーズを買いに行った。菓欒は、船岡東通、神光院前交差点の東南角にある。

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おつかいものに焼き菓子詰め合わせを、自宅用に西賀茂チーズなどプチケーキを。口に入れると、ふわりと崩れ、こくのある風味が広がる。チョコスフレも、好きな味。買って良かった。

この次、正伝寺は、さつきの季節、雨上がりに行こう。比叡山がきれいに見えるときに、さつきの濃ピンクで華やかに彩られたお庭を見に行こう。そうしたら、印象が変わるかもしれない。

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光悦寺

2009-11-26 00:53:17 | まち歩き

数年前の美しい紅葉を思い出し、光悦寺へ。山号は大虚山、開山は日慈上人、日蓮宗の寺である。本阿弥光悦の旧跡・本阿弥家先祖供養の位牌堂であり、光悦の没後、寺となった。

本阿弥光悦は、江戸の文化人。寺の収蔵館(11月末まで開館)にある品からも分かる通り、書、蒔絵、陶芸に優れ、作庭もこなすなど、多才な人であった。本阿弥家の家業は、刀剣鑑定・磨砺・浄拭で、京の三長者(後藤・茶屋・角倉)に並ぶ富豪であり、京の町衆の7割が法華信徒と言われた当時にあって、本法寺の熱心な大壇越であった。

光悦が家康からこの地を拝領したいきさつは孫・光甫の記した『本阿弥行状記』にあり、その文章と背景の解釈の違いで、家康の真意について、いくつかの説がある。①洛外で物騒な鷹峰だが、光悦なら何とかするだろうと考えた ②古田織部が夏の陣で豊臣方に通謀したと疑い、切腹させる。織部は光悦の茶道の師であったため、光悦を都から追いやった ③光悦が後水尾天皇の庇護を受けていたため、朝廷とのつながりが強くなるのを嫌って、光悦を都から遠ざけた ④何らかの功績に対して恩賞を与えた ⑤法華宗の内部対立で、戦闘的な一派の勢いが強くなり、それを嫌って都から遠ざけた

資料を読み込んだわけではないので軽々しく言うべきでないが、個人的な印象としては、夏の陣勝利の後で二条城に寄った家康の下に、馳せ参じなかった光悦への不満、という感じだ。家康自身は浄土宗だったし、法華宗徒の財力や社会改革へのエネルギーを脅威と感じていたかもしれない。しかし、さきの『行状記』の著述を読む限り、「来なかったからお仕置き」という軽さも感じる。『行状記』は後代に書かれたものだから、その表現が正確とは言えないのだろうが。その上、私は原本を読んでいないのだ。(参考HP:「日蓮宗現代宗教研究所」http://www.genshu.gr.jp/DPJ/kyouka/03/03_110.htm

光悦が、職人を従えてこの地に居を構えて以降、法華宗徒の文人の転宅、同じく町衆が別宅を構えたりと、工芸集落として、また法華宗徒の集落として発展した。創作のみでなく、この地に建立した4つの日蓮宗寺院では、念仏三昧だったという。

さて、今日のコースは、西大路通の金閣寺前から、そのまま北へ。簡単な地図を手に、左大文字をすぐ傍に見ながら。途中、山道に入ったが、やがて地図にあるピンカーブに辿り着いた。21%の急勾配。上るのに一苦労。ここを下るのは危ない。ほとんど登り切った所で、振り返って一枚。この道でなく、東側のバス通りを歩くべき。

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この短い辛い坂を登り切ると、光悦寺はすぐ。紅葉は・・・先週来れば、ちょうどよかっただろうと思われた。

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山門と本堂の飾り瓦には梅紋。軒丸瓦は三つ巴。

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やつで(写真下・左)と、山茶花(写真下・右)。

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境内には大正時代に建てられた七つの茶室が点在するが、内部非公開。山号にもある「大虚」庵(写真下・左)、了寂軒(写真下・右)など。大きな弱さ、空しさ?「太虚」なら大空だが。でも、その寂しさも了るのなら、まあ良いのだろう。

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紅葉(写真下・左)に増して、 ドウダンツツジ(写真下・右)がきれいな赤だった。

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山を撮影するには逆光。あの坂を登っただけのことはあって、見晴らし良く、山が近くに見える。ただ、木々が育ちすぎて、市内を見下ろすことのできる場所は、一ヶ所のみ。

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著名な光悦垣は、 そのだんだんと低くなる姿から、「臥牛垣」とも言うらしい。

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収蔵館の本阿弥光悦翁木像は、高村光雲作とあった。扉に螺鈿の飾りがある厨子に入った、小さな木像。何とも味のある、いい姿だった。

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京都行幸

2009-11-19 23:08:58 | まち歩き

自転車で、河原町通から丸太町通を西に行くと、烏丸通の交差点に警官。そういえば朝刊に、天皇、皇后両陛下が、即位20年記念茶会を京都御所で開催(11/18)し、お泊まりは大宮御所とあった。大宮御所は、京都御苑内、寺町御門と清和院御門の間で塀に囲まれた一角。先日の一般公開では見ることができなかった。

堀川通にも交差点に警官。信号を手作業で変えるのだろう。ボックスを開けたり、無線で連絡を取ったり忙しげにしていたが、「何時ごろ、お通りになるんですか?」と聞いてみた。意外に面倒がらずに答えてくれた。「3時ごろです。」「お顔を拝見できますか?」「できますよ。」

千本通はもちろん、信号のある辻には全て警官が待機。パトカーも何台か停まっている。沿道の店の人や通行人らが、ところどころで固まって、携帯を片手に待ち受ける。

「3」とフロントガラスに数字を張った車が通る。どうやら「あと3分で通過」の合図らしい。ややあって「1」の車。西大路通の信号の向こうに白バイが2台、見えた。「来る、来る」と周りの人が騒ぎ始める。対向車を通行止めにするでもなく、ただ信号の操作のみ。

091119_1456311 対向二車線の道の内側をゆっくり走っていたので、歩道から、よく見えた。今日はかなり寒い日だったのに、車の窓を開け、コートも手袋もなしで、沿道で待つ人に手を振り続ける・・・。お身体を大事にしていただきたいものだ。

車には、控えめに菊の紋。

お二人は、20年前に亡くなった天皇陛下の姉・鷹司和子さんが眠る二尊院を訪れたとのこと。二尊院は、丸太町通・新丸太町通の西の終点から、さらに西。小倉山の麓にある。今なら、紅葉が見事だろう。そういえば、今年は、嵯峨に紅葉を見に行っていないなと思いつつ、御所に戻る車を見送った。

西の京円町バス停では、後ろに隠していた吸殻入れ・ゴミ箱を、警官が元に戻している。ゴミが溢れているわけでもないのに。昔、堺・大仙公園で、昭和天皇行幸に備えて、周辺整備をしていたのを思い出した。道路が拡幅されたり、公園に隣接する家を壊して公園を広げたり。電車から見えるように出窓に人形を並べた家があったのに、あの家もなくなったな・・・というようなことを、つらつらと思い出している。

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真如堂・お十夜法要

2009-11-17 23:35:17 | まち歩き

真如堂。山号・鈴聲山、正式名称・真正極楽寺。984年創建、開基は戒算、天台宗の寺である。本尊は、慈覚大師円仁作の阿弥陀如来立像、「頷きの弥陀」。大蓮寺の本尊と似ているのか確かめに行った。

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11月5~15日は、真如堂でのお十夜法要。結願法要の最終日に、本尊が開帳される。拝観料(500円)を払い、「南無阿弥陀仏」と墨書きされた晒(?)を羽織って、須弥壇に上がり、厨子の扉の手前から本尊を拝見した。

扉や外壁に彫刻の施された見事な厨子は、綱吉と桂昌院による寄進と聞いた。なるほど、徳川葵の紋も。少し暗いが、均整の取れた阿弥陀如来が見えた。向かって右の千手観音、左の不動明王も姿が良く、その光背も良かった。通常、阿弥陀三尊は、阿弥陀如来を中央に、向かって右に観音菩薩(慈悲)、左に勢至菩薩(智慧)だが、この寺の像の配置は独特である。この不動明王は、安倍晴明の念持仏だったとか。09035

寺には、安倍晴明と閻魔大王を描いた掛け軸が伝わり、本堂にはこのパネルがある。安倍晴明が冥界に赴いた際、不動明王の取り計らいで閻魔大王から結定往生の印を受け、蘇生したという話があるそうだ。真如堂ではその結定往生の印紋(赤い宝珠の中に白抜きの五芒星)を、本堂受付で授与しているとのこと。15日の本尊拝観後、「奉修十日十夜別時念佛会決定往生之符」を頂いた。

さて、その阿弥陀如来。十日近く前に見た像の記憶を辿ることは難しく、結局頂いて帰ったリーフレットを比較することに。はっきり言って、似ていない。大蓮寺のは、頭が大きく全体に丸みを帯びているが、真如堂のは、プロポーションが良い。お顔の様子も少し違う。ついでに光背も違う。大蓮寺の本尊が一夜のうちに二つになって、一つを真如堂に返還したという伝承は伝承ということ。少なくとも似ているのかと思っていたが。真如堂略年表に依れば、本尊の移動は、1468年応仁の乱を避け比叡山青竜寺へ動座、1470年江州穴大宝光寺(穴太真如堂)に移座、1478年洛中一条町(現・元真如堂町)へ遷座、1484年本堂旧地・神楽岡へ帰座ということである。

同じ名前の寺は多いが、極楽寺や阿弥陀寺は特に多い。その多くの極楽寺の中で、これこそが正真正銘の極楽の寺、というところから、真正極楽寺という正式名称がある。真如堂境内には、本堂のほかに、三重塔、元三大師堂、本坊、開山堂、新長谷寺、薬師堂、茶所、鎌倉地蔵堂、縣井観音堂、赤崎弁天、鐘楼、千体地蔵堂、三千仏名堂、萬霊堂、阿弥陀如来露仏などがある。また境内塔頭なのか、喜運院、理正院、松林院、法輪院、東陽院、覚円院、吉祥院、法伝寺などの寺院もある。結願法要は、これらの寺院が集まって行なわれた。

写真左は、お練りが始まる前の本堂入り口。写真右は、僧侶が履き替える履。2時直前になって、法被を着た関係者の方々が、バタバタと準備を始めた。

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本堂前で待っていると、2時に法螺貝が鳴り響き、やがてその法螺貝を手にした山伏、親に手を引かれた稚児、御詠歌講中、華麗な法衣を纏った僧侶らのお練りが始まった。

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本堂から鉦の音が聞こえる。行列は、外廊下をぐるりと一回りしてから、本堂に入った。見物の人たちも、後に続いて本堂に入り、結願法要に臨席した。30分以上鉦を鳴らし続ける鉦講中は、すごい。変化がないようでいて、実は打ち方にも違いがある。垂直に叩く、手前から向こうへ叩くなどして、音色を微妙に変化させていた。

真如堂の寺紋は、三つ藤巴紋。開基・戒算上人が藤原氏の出身だったから、藤紋か?

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写真上は、左から本坊、覚円院、吉祥院。みな、同じ三つ藤巴紋。但し、幕と提灯とでは、意匠が違って見える。

次の写真は、違う紋の寺院。左から東陽院、法輪院、松林院。違うとはいえ、二つは下がり藤である。東陽院のみ、全く別の八丁子紋。

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僧の法衣には五三桐と隅立て四目結紋があった。本堂でも隅立て四目結紋を見た。これは、真如堂が三井家の菩提寺であるところから、その家紋を使用しているのだと思われる。本堂に掛けられた(公開11月)刺繍の『観経曼荼羅』は、1767年、三井家より寄贈されたものだとか。3月に公開される『涅槃図』も、三井家による寄贈。法衣新調にも関わったのかもしれない。

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見物人は、100人強というところか。「去年よりも多い」と話しているのを耳にした。とにかく寒くて、あちこち見ることもなく、早々と帰ってきてしまった。紅葉は、本堂西側、池の辺りが良かった。真如堂の紅葉がきれいだと思ったのは、いつだったろう。5年ほど前になるか。ここ数年は、あまり満足できない。葉先が枯れていたり、色づきがもう一つと感じたり。紅葉狩りに静かな所を求めるならいいのだが。

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