昨日夕刊の「紅葉だより」に依れば、まだ「見頃」とのこと。ここ数年は、どこも11月末が見頃だったのに、今年の京都の紅葉は、一週間ほど早いようだ。先週は寒かったし、忙しかったし、出かける気になれなかったのだから仕方がない。退蔵院の今日は、見頃には遅れたが、まだきれいな紅葉が残っていた。
妙心寺は、開基・花園天皇により、関山慧玄(無相大師)を開山として1342年建立された。臨済宗妙心寺派の大本山である。退蔵院を始め山内塔頭は38、境外塔頭は10。
退蔵院は、開基・波多野重通により、妙心寺第三世無因宗因禅師を開山として、1404年千本松原に創建された。今の下京区、JR丹波口駅近く、当時で言えば、殆ど都の南西の果てになる。妙心寺派の寺院としては、肩身の狭い思いをしつつの創建だったろう。1399年、反・足利の大内氏と妙心寺第六世との関係のため、妙心寺寺領が義満に没収されているのだ(名称も龍雲寺に変更させられた)。1432年に妙心寺が返還され、妙心寺中興の祖・日峰宗舜が、退蔵院を、その山内に移転させた。寺は応仁の乱で焼失するが、亀年禅師により中興され今に至る。写真下・左は、退蔵院の門。写真下・右は、本坊。
本坊左手の石畳をゆくと、方丈への入り口がある。そこを入ると「袴腰造り」という札がかかっているのだが、これがよくわからない。退蔵院HPには「唐破風造りの変態で非常に珍しいとされている玄関の様式」「破風の曲線が直線になっており、ちょうど袴の腰のよう」とあるが、どの破風のことなのか・・・。袴腰造りは鐘楼に多いようだ。建物が袴をはいたように見えるところから、この名で呼ばれるらしい。鐘楼の場合は、写真で確認するとよくわかり、納得できるのだが、この玄関については、解説がほしかった。写真下・左が、方丈への入り口。塀に連なっているので門のようだが、これが「玄関」なのだろう。玄関なら、この直線的な屋根の部分は破風といえる。これが、袴の腰の部分に似ているということだろうか。写真下・右は、「袴腰造り」の札のあった廊下から、写真左の入り口に向かって撮影したもの。ついでに、写真下・左に見える軒丸瓦は、三つ巴。他に紋らしきものは見当たらなかったので、これが寺紋と考えていいだろう。
方丈正面の庭は、はっきり言ってつまらない。苔に松が2本と椿。背景に数種の常緑樹。そのスギゴケの状態が良くないのだ。
普通は、方丈正面に見応えのある庭をおくものだ。ところが、ここは正面右手から右奥(西側)にかけて、「元信の庭」と書かれた枯山水が広がる。 作庭は、庭師でも有名な禅師でもなく、画聖・狩野元信。方丈西側の襖を開け放つと、そこに自然の襖絵が現前するような、そんな庭を造ろうとしたらしい。西側から見たなら、右側・築山奥に立石による段落ちの枯滝、組栗石を敷いた渓流、手前に亀島、鶴島、西に三尊石、その向こうに蓬莱島。滝からの水の流れが大海に注ぐ様子をあらわしているそうだ。石組みと白砂に低木や熊笹をあしらった、禅の庭である。方丈外廊下からの拝観は、枯滝や石橋など、あまりよくわからなくて残念だった。方丈外廊下には、国宝・瓢鮎図の複写パネルがあった。日本における水墨画の祖、如拙が描いた瓢鮎図は、禅機画(禅の悟りの契機を描いたもの)であり、義持の命によって31人が賛詩を寄せている。実物は、京都国立博物館に寄託しているとのこと。
この庭の奥には、昭和の庭である余香苑がある。こちらで紅葉を見ることができた。入り口の門には鯰の彫刻。正面門の塀や庭を巡る塀の飾り瓦には鯰と瓢箪があった。お茶席で頂くお菓子にも鯰の柄が入っている。
この庭の水琴窟は、圓光寺のような、水鉢傍で竹筒を耳に当てる方式とは違った。手水に使った水が、蹲の下に埋められた瓶に反響するという仕掛けである。ただただ、柄杓を取って那智黒石の上に水を流し、遅れて聞こえる反響音を楽しんだ。
余香苑では、枝垂桜やサツキ、椿に牡丹、蓮など四季を通じて花を楽しむことができる。また、春には観桜会、秋には観月会・観楓会と、精進料理とセットになったプランも用意されているらしい。妙心寺通沿いには、退蔵院専用の駐車場もあった。 退蔵院は、年間通じて一般拝観を受け入れており、妙心寺塔頭の中で、最も外に向けて開かれたお寺なのかもしれない。