京都逍遥

◇◆◇京都に暮らす大阪人、京都を歩く

熊野神社

2009-10-27 23:59:10 | まち歩き

20年ぶりに自転車に乗っている。四条河原町の銀行からの帰り道、雨が降り出した。しばらく川端通を走ったけれど、雨に濡れて冷たくなってきた。川端通四条と三条の間の新門前通に赤い傘を見つけて、雨宿り。通りの南北に番傘を模した休憩所がある。傘の下には、石造りの椅子が4~5個。街路樹は、紅葉が始まっていた。

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雨が止むまで10分ほど待って、東大路通を北へ上がり熊野神社を目指した。バスで何度も「熊野神社前」というアナウンスを聞いたことがある。どんな所だろうと思っていたのだ。

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熊野神社は、その名の通り紀州の熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)から熊野大神を勧請した神社である。811年、修験道の日圓上人によって開かれ、後白河法皇など皇族や公家の崇敬を集めた。1106年聖護院が建立されると、熊野神社は、その鎮守神となる。1162年、平清盛が奉遷使に任ぜられ、土砂や木材を紀州の熊野本社から運んだらしい。1221年承久の乱で没落、1467~77年応仁の乱で焼失するも、1666年聖護院宮道寛法親王によって再興された。1912年市電開通に伴い社域を狭められて今日に至る。主祭神は、イザナミノミコト、「相殿(あいどの)」と呼ばれる祭神は、イザナギノミコト、天照大神、速玉男神、事解男命。

熊野は、記紀の神が活躍した土地である。神武天皇は、高倉下命から捧げられた神剣を手に、天照大神が遣わした八咫烏の道案内で軍を進め、熊野・大和を制圧したのであった。熊野三山の神紋や牛王符には、八咫烏が描かれている。そして、ここ熊野神社でも、八咫烏は散見される。鳥居両脇の門に、拝殿の飾り瓦に、拝殿を飾る木彫り(足が一本しか見えないので自信はないが、やはりこれは烏だろう)に、拝殿前の提灯に。

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写真(上・右)でも分かるとおり、菊の紋も使われている。また、次の写真からは、三つ巴も使われていることが分かる。三つ巴は、熊野三山の神紋でもある。ついでに言うなら、熊野本宮大社は八咫烏と三つ巴の併せ紋であり、菊紋も使用している。熊野速玉大社は五七桐も使用しているようだ。

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境内には祖霊社、稲荷社、春日社があった。

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これは、拝殿に隣接する祖霊社。氏子の祖霊を祀っている。次は稲荷社と春日社。稲荷社には、稲荷大神、金刀比羅大神を祀り、春日社には、春日大神、須賀大神、神倉大神を祀る。

09_023 この二社は、いつ頃どういう経緯で祀られたものなのだろう。少なくとも神倉大神は、熊野三山と関係があるのだが。神倉大神は、子どもの頃近くに住んで何度も行ったことのある神倉神社に祀られている神だ。速玉神社を新宮と言うのに対して、神倉神社は元宮と言われる。ご神体はゴトビキ岩で、元は自然信仰の場であった。熊野那智大社も同様に、那智の滝が信仰対象であったのが、その性格を変えてイザナギノミコトとイザナミノミコトを主祭神としている。須賀大神は、南部の須賀神社の神を指すのか、熊野の阿須賀神社の神を指すのか、それとも全然別の神社の神か・・・。熊野神社の由緒に関して、参考となるものがあまりに少なく、調べられずに消化不良気味。仕方がないので、別の角度から撮った写真でも最後に。09_021

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東大路通・丸太町通の角に位置し、人通りも車の通りも多い場所だというのに、鳥居をくぐれば、異空間だった。思ったよりも狭い境内なのに、大木が囲んでいて、静かで。ドングリが沢山落ちていて、苔むした木があって、山の中にいるみたいだった。

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西本願寺-京の華舞台・弐の宴 

2009-10-25 02:30:09 | まち歩き

通称西本願寺。山号龍谷山、寺号本願寺、浄土真宗本願寺派本山。創建1272年。世界文化遺産。

国宝、重要文化財が数多あるこの寺の南能舞台で、今日(10/24)、『羽衣 彩色之伝』が上演(シテ:片山清司)された。毎年行なわれる京都文化祭典(2009.9.13~10.31)の一環である。特別公開のとき以外は、事前予約の必要な書院。重文能舞台での能だけでなく、書院をぜひ見たいと思い、チケットを手に入れた。

開演一時間前に到着すると、入場門が指定されており、北小路通に入る。この通りには、唐門、大玄関門、台所門が、さほど距離をおかずに並んでいる。書院入り口の列に並ぶため、台所門から入った。すると前にまた門が。写真左は書院の門。この塀の続きに、書院玄関(写真右)がある。

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この向かいには、先ほど通り過ぎた唐門。これは国宝で、中国の故事を題材にした色彩豊かな彫刻で埋め尽くされている。

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唐獅子、龍、虎、孔雀の姿も、四脚門形式の、この控え柱にある彫刻も、この色づかいも、全く中国的だ。門の地の色が黒というところが、日本である。中国なら赤を使うのではないか。

さて、観能の場所、書院は、対面所と白書院から成る。対面所は、203畳敷きの大広間で格天井。広い上段の床には障壁画や襖絵も。続いて雀の間、雁の間、菊の間と、襖絵の図柄を冠した部屋が続く。こちらも格天井。廊下にも花が描かれた格天井が・・・と思っていたら、狭屋(さや)の間という名前がついていた。南は広縁があって能舞台に面しているが、西・北・東は狭屋の間が囲んでいる。一間ほどの幅の細長いこの部分が、部屋。北狭屋の間を挟んで白書院と北能舞台がある。白書院は三の間、二の間、一の間(紫明の間と分かれている。南側の雀、雁、菊の間も格天井で、扇などの絵が入っていたが、白書院の格天井は、もっとずっと高く、立派な欄間があり、襖絵も格調高い。

この書院の建物は国宝、北能舞台も国宝。今日『羽衣』が上演される南能舞台は、重要文化財である。国宝の建物に座って、重要文化財の舞台で上演される能を観る。なんと贅沢な。南も北も、鏡板に老松は描かれておらず、経年変化で色落ちして見えないだけなのか、最初から描かれていなかったのか・・・と思っていたら、「老松が描かれるようになったのは18世紀後半辺りかららしい(『名作能50(世界文化社)』」との一文を見つけた。また、南舞台を見て奥行き広く感じたが、それも、その日もらったパンフレットに「現存する能舞台としては日本最大のものとして、重要文化財に指定され」たとあった。国宝の北は日本最古とのこと。北は、ゆるいアーチ型の橋掛かりがきれいだった。

書院を二回りしてから、席に着く。「小書き」に「彩色之伝」とある特殊な演出について、解説があった。羽衣をかけるのは、松の立ち木の作り物でなく、橋掛かりの一の松前の欄干。冠に付けるのは、日月でなく蓮の蕾。笛は普通より高い調子・・・などなど。能には、こういう解説が必要だと思う。シテの片山清司さん、中学校での出張能楽教室でお見かけしたことがある。『舎利』、あれは派手で面白かったが、今日のは舞が主となっていて、少し地味。地謡の部分も少ないように感じた。舞台周りには5本のマイク。能楽堂でなく、このような殆ど戸外での上演はマイクが必要なのだろうか。なくても、きっと通る声だろう。私は早目に行ったので、広縁で、前から4番目という好位置で見ることができた。能楽堂なら段差があって後ろでも見やすいが、ここは座敷に座布団敷き。後ろに座ったら、見えなかっただろうと思う。それにしても、本来の能舞台というのは、客席からこんなに離れているのだ。ここのところ通っている能楽堂では前から二番目で観ているので、ずいぶん違う。

さて、能が終わり、御影堂へ。ちょうど、菊花展の最中だった。

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左が御影堂、右が阿弥陀堂。

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ちらっと見えている木は、市天然記念物、樹齢約400年の大銀杏(写真下・左)。阿弥陀堂門(写真下・右)には、菊の彫刻があった。門柱の足元には、火事よけの龍。青海波で、さらに水を呼んでいる。

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御影堂は、1636年建立で、親鸞聖人木像を中央に、歴代門主の御影が左右にあるという。薄暗くてよく見えなかったが、向かって左には「南無不可思議光如来」と書かれた掛け軸。右側も多分、同じような文字だった。

本堂である阿弥陀堂は1760年再建。御影堂よりも少し小さい建物である。現在は二つが渡り廊下でつながっている。本尊の阿弥陀如来木像を中央に、左右にインド・中国・日本の念仏の祖師七師、聖徳太子影像があるらしい。時刻は夕方4時。鐘が鳴り、読経があり、と言う間にお坊様が、本尊以外の折り戸を次々閉めていったので、確認できなかった。開いていても、薄暗くてよく見えなかったかもしれないが。

最後に、西本願寺の紋について。よく言われるのは、明治31年、22代鏡如上人と結婚した九條籌子が、実家から持ってきた「下がり藤紋」だ。確かにそうだが、調べてみると、事情はかなり複雑である。

西本願寺では、新年と盂蘭盆会に2代~23代の御影を飾るそうだ。その肖像画に描かれた法衣の紋から、また『本願寺史』から、およそのことがわかる。

肖像画では、2代~8代は牡丹唐草、9代は鶴丸、10代は四つ藤(八藤)、11代~20代は五七桐の法衣をまとっているらしい。宗祖と2代以外は、京都の八卿の猶子という。3代~9代は藤原氏(大半は日野家)の猶子となり、10代は九條前関白尚経の猶子であった。13代は、1628年、大谷家家紋を鶴丸から四つ藤(八藤)に変更したとのこと。

最初は牡丹唐草、そして日野家の鶴丸紋、九條家の藤紋、11代が門跡となって五七桐を許されて以来の桐紋。これらが西本願寺が使用してきた紋である。

現在、屋根の飾り金具などには下がり藤が目立つ。ただ、一番新しい建物、龍虎殿の飾り瓦は、三つ巴だった。

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そういえば、書院内部の木彫りの飾りに、大きな五七桐が見られた。この紋は、記念五条袈裟の紋として、今も使用しているらしい。平成4年の顕如宗主400回忌で使用されたというから、2011年の親鸞聖人750回大遠忌でも、使われるかもしれない。(紋について:『輪番独語』2008年5月参照http://blog.engi-project.net/rinban/archives/cat8/2008/05/

おまけ。入場で列に並んでいる時に「当日券ないといわれたんですけどなんとかなりませんか」と、後ろで尋ねるのが聞こえた。しばらくすると、担当の人が団体用の葉書を持って来て「これでどうぞ」なんて言っている。私がこの催しを知ったときには既に前売りは終了していて、チケットショップで当日券の1、2倍の値段で買ったのだった。他にもそういう人はいただろうし、チケットが手に入らず諦めた人が何人もいただろう。ゴリ押ししたのがどういう人なのか知らないが、特別に、というのは解せない。

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時代祭

2009-10-23 01:56:25 | まち歩き

葵祭、祇園祭と書いてきて、京都三大祭の最後を飾る時代祭を書かない訳にはいかない。千年の都にあって、この時代祭の歴史は、たったの114年しかない。時代祭とは、明治期に創建された平安神宮のお祭りなのである。

そもそも、平安神宮の創建は、維新で衰退した京都の町おこしの一つであった。疏水開削や路面電車開通などと並ぶ、人心一新のための事業である。桓武天皇が長岡京から平安京に遷都し、その後1000年以上もこの国の中心であったという誇りを人々に思い出させるためのものであった。祭神は桓武天皇である。(1940(昭和15)年、孝明天皇が合祀される。)

時代祭は、「平安神宮創建と平安遷都1100年祭を奉祝する行事として、明治28年に始まり(平安神宮HP:http://www.heianjingu.or.jp/03/0101.html)」、現在では「平安神宮のご祭神、桓武天皇と孝明天皇のご神霊に京都の市中を巡行していただき、市民の暮らしぶりを親しくご覧いただくことと、京都全市民が心を一つにゆくさきの平安を祈る(同)」ものになった。初年度は時代行列のみで、10/25に実施されたが、2年目からは神幸列が加わり、日程も、平安遷都がなされた10/22に固定されることになる。(京都市歴史資料館『フィールド・ミュージアム京都』HP:http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/_index.html

「京都全市民が」とは、平安神宮創建と同時に、市全域から成る「平安講社」を設立し、神苑維持管理・祭の挙行・建物の維持にあたったという事情を反映した言葉である。この組織は、旧学区(1941年国民学校令で廃止になる前の学区)により構成され、現在も引き続き、祭を主催している。最近市内に転居した私には、居住地区でどの程度の拠出があるのか、どのような役割があるのか、全くわからない。ただ、今日話を聞いた春日学区(平安講社第三社・9学区)では、9年に一度、持ち回りで担当する藤原時代の行列のため、今年は400万円かかったのだと言う。黒田装束店が早朝から着付けをし、行列に参加する人たちは、御所のすぐ東にある春日小学校校庭で、時間待ちをしていた。

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左が春日小学校、右は春日学区が担当した藤原時代列。

旧学区は、江戸(1868年8月)の町組(上京45、下京41)が明治(1869年1月)に番組(上京33、下京33)となり、同年開設された番組小学校(64校)を起源とする。「町組」「番組」の頃より行政機能を有し、現在では地域行政や住民自治単位として機能している。

時代祭においては、各時代毎に担当講社・学区が決まっている。行列の順序を踏襲するなら、次の通り。

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*時代行列

明治維新時代:維新勤皇隊列(第八=中京/朱雀学区)

          幕末志士列(京都青年会議所有志)

江戸時代:徳川城使上洛列(第六=下京・南)

                  江戸時代婦人列(祇園東・宮川町お茶屋組合)

安土桃山時代:豊公参朝列(第十=伏見)

        織田公上洛列(第五=東山・山科、中京・下京の一部)

室町時代:室町幕府執政列(第九=右京・西京から学区輪番)

       室町洛中風俗列(深草室町風俗列保存会)

吉野時代:楠公上洛列(第九=右京・西京)

     中世婦人列(大原農協婦人会、桂・桂東婦人会、上七軒歌舞会)

鎌倉時代:城南流鏑馬列(第四=中京・下京)

藤原時代:藤原公卿参朝列(第三=上京・中京の一部)

       平安時代婦人列(祇園甲部歌舞会・先斗町お茶屋組合)

延暦時代:延暦武官行進列(第二=北・上京・左京・中京の一部)

       延暦文官参朝列(第一=北・上京の一部)

*神幸列

神饌講社列(京都料理組合有志)

前列(第七=左京の一部)

神幸列(平安神宮)

白川女献花列(白川女風俗保存会)

弓箭組列(亀岡市、南丹市有志)

*************** 

行列のうち、室町時代は尊氏=逆賊とのことで、最近まで含まれていなかった。京都の文化(北山文化・東山文化)が開花した時代を行列に加えようと、府・市が5000万円を拠出し、同程度の寄付を集めて2007年に新しく加えられたとのことだ。この祭は、京都の伝統服飾工芸を誇示する場でもある。学者による時代考証を重ね、当時の材料、当時の技法に拘って製作される衣裳や馬具、調度品。恐ろしく贅沢なものだ。雨が降ってカビが生えてしまう沓、汗で痛む烏帽子、修復や新調の必要に、毎年どれほどの負担があるのだろう・・・。が、祭とはそういうものだ。郷土愛に支えられて、開催が可能となる。大阪のだんじり祭でも、地元の負担は大きい。天満で仕事をしていたときは、職場に天神祭への寄付依頼があったものだ。

さて、10時半ごろ、行在所祭が始まる。雅楽が演奏され、神饌の献上、崇敬者や市民代表の参拝、白川女の献花など。

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神霊が移された、二基の鳳輦(ほうれん)。

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2000人が参加し、行列の前後で2時間かかるこの祭の、出番までの時間待ち。王朝人が蹴鞠でも始めそうな、雅な雰囲気。

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平安神宮の神紋は、桜に橘らしい。大極殿の前の左近の桜と右近の橘。そこからきているのか?桜は山桜、橘は、先に蕾のような、実のようなものがついた6葉で、ちょっと珍しい意匠だ。よく見かける橘は、梅宮神社の神紋、陶器のたち吉のシンボルの5葉のもの。09_022

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気になったのは、五つ鐶輪に桜の紋。(写真下・左)散るさまを連想させる桜は、武家にはそぐわない。

また、織田公上洛列の幟にあった、織田木瓜に挟まれた揚羽蝶紋。(写真下・右)揚羽蝶は、平家の紋である。信長は当時の源平交代説から平氏を称したとも言われ、これは納得できる。

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平安講社の方々は、殆どが桜橘の紋を裃につけておられた。ただ、数十名は五七桐紋。桐紋は、牛車にも。この方々がどの行列に参加しておられたのか、確認できていない。牛車は秀吉が乗っていると見立てて、豊公参朝列で使用されるものだ。ここに付き従っておられたのだろうか。

桐紋は元来、菊紋と並んで皇室の紋であった。それを、天皇が功労のあった臣下に下賜し、さらにその部下に与えられて、桐紋を使用する武家が増加した。江戸時代には庶民も使用したという。信長は、1568年足利義昭から「紋桐(朝廷から拝領した足利氏の紋)・引両筋(足利氏伝来の家紋)(『信長公記・原本現代訳(ニュートンプレス)』」を拝領している。同書の口絵にある信長肖像画(長興寺所蔵)を見ると、それが五三桐紋であることがわかる。なお「引両筋」とは、二つ引き両のこと。信長は秀吉に、その桐紋を与えたらしい。また秀吉は、朝廷からも、桐紋を下賜されている。しかし、千成瓢箪と共に秀吉の紋として有名なのは、太閤桐だ。秀吉の桐紋は、五三桐、五七桐、太閤桐と、変容を遂げたのだろうか。

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建礼門の東側で出番待ちしていた方々の美しい装束を間近で見られたことが収穫だった。ロープの後ろから行列を眺めるだけでなく、待機中の方々の近くへ行ってみる、話を聞いてみる、そんなちょっとしたことで、京都の祭が少しずつわかってくる。

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阿弥陀寺の天井絵

2009-10-20 00:21:47 | まち歩き

土曜の朝刊・地域面(京都)に、「画家・上田さん阿弥陀寺に天井絵」というタイトルの記事を見つけた。「本堂は普段非公開だが、天井絵の奉納を受けて、今月19、20日に限定公開される」との一文。ぜひ見てみたい、と出かけてきた。

阿弥陀寺(上京区寺町通今出川上ル)は、山号を蓮薹山、院号を捴見院といい、浄土宗で、本尊は阿弥陀如来である。

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山号とは、仏教寺院につける称号のことで、もともとは中国で同名の寺院を区別するために所在地の山の名をつけたものらしい。「阿弥陀寺」を検索すると、浄土宗、浄土真宗、時宗、曹洞宗、真言宗に属する寺が、13箇所ほど見つかる。山号は所在地と無関係のものもあるというが、確かに、これは区別するのに良い方途である。このお寺の「蓮薹山」は、所在地の名前と言っていいだろう。創建は近江・坂本だが、京へ移転した先が芝薬師・蓮台野(現在の中立売大宮付近)、その後、秀吉の都市改革で、現在地に移転した。

一方、院号とは、皇族が門跡となっている寺院などに対して許される称号である。今日頂いた解説によると、「阿弥陀寺は疲弊するが、時の帝・後陽成天皇は勅願所として多くの公家を檀越とし擁護」とある。ここに皇族が門跡になったという記述はないが、帝の庇護を受け、公家の檀家が多かったことから、院号を賜ったのかもしれない。飾り瓦は殆どが左右三つ巴だったが、境内の塔頭や門に、菊紋が一部見られた。

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本堂の銅飾り金具や、提灯、飾り瓦に、織田木瓜紋。

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この記事最初の写真で、門の左手前にある石柱には「織田信長公本廟」とある。この寺では、光秀謀反の知らせを受けた開山・清玉上人が、本能寺に駆けつけ、自害した信長をそこで火葬し、遺骨を持ち帰って供養した、と 伝えられている。この寺には、信長、信忠、森蘭丸兄弟ら本能寺で戦い敗れた数名の墓がある。

秀吉は、信長の法事を清玉上人に断られたので、大徳寺に総見院を建て、香木で作った木像を遺体の代わりにして信長の葬儀を行ったという。ルイス・フロイスの『完訳フロイス日本史3(中公文庫)』には、火事で「毛髪といわず骨といわず灰燼に帰さざるものは一つもなくなり、彼のものとしては地上になんら残存しなかった」とある。信長の伝記として最も信頼度の高い資料と言われる太田牛一の『信長公記・原本現代訳(ニュートンプレス)』では、「信長公は・・・(略)・・・すでに御殿に火がかかり・・・(略)・・・戸口にカギをかけ、あわれにもご自害なさった」となっている。信長の最期は正確にはわからないのだ。

しかし、いくら混乱していたとはいえ、明智勢に囲まれていたはずの本能寺に入ることはできただろうか。また、そんな中で火葬して遺骨を拾い集める時間的な余裕があっただろうか。秀吉の法事申し入れの件を勘案するなら、このお寺と織田家の深い関係は推測されるが、そこまでである。

当時の寺域から少しく離れ、また規模も小さくなったという現在の寺は、歴史を感じさせる門に比して、本堂は新しく見える。その本堂の南側には、駐車場を隔てて金木犀の生垣が続き、ちょうど季節で、秋の香りが漂っている。

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本堂の中へ。中央に本尊の大きな阿弥陀如来。この阿弥陀如来の手前の格天井に、天井絵が描かれた。(阿弥陀如来の頭の上も格天井だが、ここには描かれていない。)向かって右手には地蔵菩薩を中央に、右に善導、左に法然。向かって左手には信長の木像を中央に、右に信広、左に信忠の木像。

さて、本題の天井絵。タイトルは「彩華来迎花浄土之図」というらしい。きらびやかな天蓋の向こうに、華やかな天井絵が見える。この天蓋の下には僧侶の座があり、右手に黒漆の磬(けい)が置かれていた。ここにも織田木瓜紋があしらわれ、ご住職に尋ねると、これはお経の節目に合図として叩く楽器のようなものということだった。

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天井絵は、新聞記事通りカラー、パンジー、ヒマワリといった洋花から、沙羅の花や桜、椿などの木の花、なでしこ、あじさい、百合、菊、などの見知った草花など多様な花が鮮やかに描かれている。四方の角には、蓮の蕾と共に「持国天」「増長天」「廣目天」「多聞天」の文字。仏法を守護する四天王である。

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経年変化も考慮に入れての、この鮮やかさ。阿弥陀寺への道を聞かれ、私も行くからとご一緒した方は、この画家の元生徒さん。彼女によれば、「先生は、いつもはもっと淡い色調で描かれるのよ。白をベースにしてね」とのこと。杉板への彩色技法、色調、構図など、画家にとっても新しい、常とは違った作品であろう。観覧客が引きも切らずに訪れ、堂内では「先生」と声がかかる。そして、その先生はというと、小柄でお洒落なかわいらしい方だった。

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高野川

2009-10-14 00:22:14 | まち歩き

このひと月の間、歩く余裕がなかった。左京に転居して約二週間、やっとデジカメを持ち歩く日々が帰ってきた。と言っても今日は、区役所に行くついでに近くの高野川を歩くことに。高野川の遊歩道起点は、馬橋と松ヶ崎人道橋の間。そこから川端東一条まで、花を観ながら歩いた。まず目に付くのは彼岸花。赤も白も。ところどころに固めて植えられている。

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オシロイバナやセイタカアワダチソウは種が飛んできたのだろうけれど、黄花コスモスや玉簾(?)は、植えられたものに違いない。

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ランタナも見つけた。そして、この大きな白い花は芙蓉?

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道路も門もない民家の塀からも石段が延びていたりして、かつての姿を想像したり。そうして高野川と賀茂川の合流地点に到着。左の写真は、合流地点から賀茂川を北に見たもの。右は高野川を北に見たもの。

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合流地点から、鴨川を見たものが、次の左の写真。ここから高野川に置かれた亀たちを足場に、鴨川の東岸へと渡ることになる。

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賀茂川は水量が少ないと思っていたが、高野川は、もっと少ない。雑草が、両岸から川の中央部にまで侵食し、川幅の1/5ほどしか、水は流れていない。松ヶ崎人道橋から高野橋辺りまでは、丈の高い草がすっかり枯死して倒れている中洲もある。除草剤を撒いて、枯らせたのだろうか。

今日は除草作業日だったらしく、何人もの作業員の方々が、電動草刈り機で仕事をしていた。範囲が広すぎる。草刈り作業では間に合わないこともあるのかもしれない。川の状態を保つのと同時に、川辺の散歩道を維持するのは大変である。自然を自然に保つために、かかる労力。

高野川の川岸で見つけた花たちは、ご近所の方々が植えた(と思われる)草花である。鴨川に入ると、植栽というべきものが見られる。合流地点の出町柳付近では、さっそく寒木瓜の花。

高野川の遊歩道は、鴨川のそれに比べると1/10ほどの広さで、整備も行き届かないようだ。それでも、朝はランニングする人がちらほらいて、日中は学生が自転車を押しながらふざけ合い、夕方には犬を連れた数人が、談笑する。以前住んでいた山科の疏水沿いは、ある程度整備されていても、人通りが少なかったり、薄暗かったり・・・。ここは、橋の下のビニールシートには少し緊張するが、見晴らしがよく、安心して歩くことができる。

川端通を帰ると、川向こうから大声が聞こえた。川に向かって詩吟を朗詠しているのだ。釣り糸を垂れる男性に、一心不乱にDSiと格闘する学生。休日の夕方には、サックスか何か金管楽器の練習をする人もいたな・・・。

高野川の川べりは、小さい子どもがいれば、おにぎりを持って、日中ずっと遊んでいたいような、そんな所。

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