葵祭、祇園祭と書いてきて、京都三大祭の最後を飾る時代祭を書かない訳にはいかない。千年の都にあって、この時代祭の歴史は、たったの114年しかない。時代祭とは、明治期に創建された平安神宮のお祭りなのである。
そもそも、平安神宮の創建は、維新で衰退した京都の町おこしの一つであった。疏水開削や路面電車開通などと並ぶ、人心一新のための事業である。桓武天皇が長岡京から平安京に遷都し、その後1000年以上もこの国の中心であったという誇りを人々に思い出させるためのものであった。祭神は桓武天皇である。(1940(昭和15)年、孝明天皇が合祀される。)
時代祭は、「平安神宮創建と平安遷都1100年祭を奉祝する行事として、明治28年に始まり(平安神宮HP:http://www.heianjingu.or.jp/03/0101.html)」、現在では「平安神宮のご祭神、桓武天皇と孝明天皇のご神霊に京都の市中を巡行していただき、市民の暮らしぶりを親しくご覧いただくことと、京都全市民が心を一つにゆくさきの平安を祈る(同)」ものになった。初年度は時代行列のみで、10/25に実施されたが、2年目からは神幸列が加わり、日程も、平安遷都がなされた10/22に固定されることになる。(京都市歴史資料館『フィールド・ミュージアム京都』HP:http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/_index.html)
「京都全市民が」とは、平安神宮創建と同時に、市全域から成る「平安講社」を設立し、神苑維持管理・祭の挙行・建物の維持にあたったという事情を反映した言葉である。この組織は、旧学区(1941年国民学校令で廃止になる前の学区)により構成され、現在も引き続き、祭を主催している。最近市内に転居した私には、居住地区でどの程度の拠出があるのか、どのような役割があるのか、全くわからない。ただ、今日話を聞いた春日学区(平安講社第三社・9学区)では、9年に一度、持ち回りで担当する藤原時代の行列のため、今年は400万円かかったのだと言う。黒田装束店が早朝から着付けをし、行列に参加する人たちは、御所のすぐ東にある春日小学校校庭で、時間待ちをしていた。
左が春日小学校、右は春日学区が担当した藤原時代列。
旧学区は、江戸(1868年8月)の町組(上京45、下京41)が明治(1869年1月)に番組(上京33、下京33)となり、同年開設された番組小学校(64校)を起源とする。「町組」「番組」の頃より行政機能を有し、現在では地域行政や住民自治単位として機能している。
時代祭においては、各時代毎に担当講社・学区が決まっている。行列の順序を踏襲するなら、次の通り。
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*時代行列
明治維新時代:維新勤皇隊列(第八=中京/朱雀学区)
幕末志士列(京都青年会議所有志)
江戸時代:徳川城使上洛列(第六=下京・南)
江戸時代婦人列(祇園東・宮川町お茶屋組合)
安土桃山時代:豊公参朝列(第十=伏見)
織田公上洛列(第五=東山・山科、中京・下京の一部)
室町時代:室町幕府執政列(第九=右京・西京から学区輪番)
室町洛中風俗列(深草室町風俗列保存会)
吉野時代:楠公上洛列(第九=右京・西京)
中世婦人列(大原農協婦人会、桂・桂東婦人会、上七軒歌舞会)
鎌倉時代:城南流鏑馬列(第四=中京・下京)
藤原時代:藤原公卿参朝列(第三=上京・中京の一部)
平安時代婦人列(祇園甲部歌舞会・先斗町お茶屋組合)
延暦時代:延暦武官行進列(第二=北・上京・左京・中京の一部)
延暦文官参朝列(第一=北・上京の一部)
*神幸列
神饌講社列(京都料理組合有志)
前列(第七=左京の一部)
神幸列(平安神宮)
白川女献花列(白川女風俗保存会)
弓箭組列(亀岡市、南丹市有志)
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行列のうち、室町時代は尊氏=逆賊とのことで、最近まで含まれていなかった。京都の文化(北山文化・東山文化)が開花した時代を行列に加えようと、府・市が5000万円を拠出し、同程度の寄付を集めて2007年に新しく加えられたとのことだ。この祭は、京都の伝統服飾工芸を誇示する場でもある。学者による時代考証を重ね、当時の材料、当時の技法に拘って製作される衣裳や馬具、調度品。恐ろしく贅沢なものだ。雨が降ってカビが生えてしまう沓、汗で痛む烏帽子、修復や新調の必要に、毎年どれほどの負担があるのだろう・・・。が、祭とはそういうものだ。郷土愛に支えられて、開催が可能となる。大阪のだんじり祭でも、地元の負担は大きい。天満で仕事をしていたときは、職場に天神祭への寄付依頼があったものだ。
さて、10時半ごろ、行在所祭が始まる。雅楽が演奏され、神饌の献上、崇敬者や市民代表の参拝、白川女の献花など。
神霊が移された、二基の鳳輦(ほうれん)。
2000人が参加し、行列の前後で2時間かかるこの祭の、出番までの時間待ち。王朝人が蹴鞠でも始めそうな、雅な雰囲気。
平安神宮の神紋は、桜に橘らしい。大極殿の前の左近の桜と右近の橘。そこからきているのか?桜は山桜、橘は、先に蕾のような、実のようなものがついた6葉で、ちょっと珍しい意匠だ。よく見かける橘は、梅宮神社の神紋、陶器のたち吉のシンボルの5葉のもの。
気になったのは、五つ鐶輪に桜の紋。(写真下・左)散るさまを連想させる桜は、武家にはそぐわない。
また、織田公上洛列の幟にあった、織田木瓜に挟まれた揚羽蝶紋。(写真下・右)揚羽蝶は、平家の紋である。信長は当時の源平交代説から平氏を称したとも言われ、これは納得できる。
平安講社の方々は、殆どが桜橘の紋を裃につけておられた。ただ、数十名は五七桐紋。桐紋は、牛車にも。この方々がどの行列に参加しておられたのか、確認できていない。牛車は秀吉が乗っていると見立てて、豊公参朝列で使用されるものだ。ここに付き従っておられたのだろうか。
桐紋は元来、菊紋と並んで皇室の紋であった。それを、天皇が功労のあった臣下に下賜し、さらにその部下に与えられて、桐紋を使用する武家が増加した。江戸時代には庶民も使用したという。信長は、1568年足利義昭から「紋桐(朝廷から拝領した足利氏の紋)・引両筋(足利氏伝来の家紋)(『信長公記・原本現代訳(ニュートンプレス)』」を拝領している。同書の口絵にある信長肖像画(長興寺所蔵)を見ると、それが五三桐紋であることがわかる。なお「引両筋」とは、二つ引き両のこと。信長は秀吉に、その桐紋を与えたらしい。また秀吉は、朝廷からも、桐紋を下賜されている。しかし、千成瓢箪と共に秀吉の紋として有名なのは、太閤桐だ。秀吉の桐紋は、五三桐、五七桐、太閤桐と、変容を遂げたのだろうか。
建礼門の東側で出番待ちしていた方々の美しい装束を間近で見られたことが収穫だった。ロープの後ろから行列を眺めるだけでなく、待機中の方々の近くへ行ってみる、話を聞いてみる、そんなちょっとしたことで、京都の祭が少しずつわかってくる。