京都逍遥

◇◆◇京都に暮らす大阪人、京都を歩く

モーリス・ユトリロ展

2010-09-28 23:54:53 | アート・文化

京都駅伊勢丹隣接、美術館「えき」KYOTOで、9/9~10/17の会期で行われているユトリロ展。「全作品日本初公開」と銘打ち、約90点の個人コレクションが公開されている。所蔵者の名前は明かされていない。

10_001

10_003

人混みの中で絵を見るのは大嫌いなので、朝一番に。10時前、京都駅の大階段(写真上・左)に人は少なく、階段に面した伊勢丹7階入口(写真上・右)はまだ閉まっている。JR京都駅南北通路に面した伊勢丹入口も閉まっているが、パスポート事務所のある8階へのエレベーターは使用できた。8階から大階段へ出たところに、展覧会ポスターがあった。

10_002 この絵は、『カルボネルの家、トゥルネル河岸』。1920年頃の作だ。モンマニーの時代、白の時代、色彩の時代と分けられる製作時期において、白と色彩の過渡期に当たる頃か。定規を使用したようなくっきりと太い建物の輪郭は、1916年頃の作とされている『エリゼ・デ・ボザール小路、モンマルトル』と同様。個人的には、むしろ、輪郭がわずかに曖昧な『ノルヴァン通り、モンマルトル(1918~20年頃)』や『モン=スニ通り、モンマルトル(1948年頃)』などが好みだ。

ごく初期(1905~06年)の『モンマニーの風景』二作には驚かされた。こういうものは初めて見たから。色の重なり。塗りたくるという表現がぴったりだろう。重苦しい。

ユトリロが、その風景に描き入れる人物は、初期には殆ど後姿だった。帽子を被り長いスカートを身に着けた腰の張った女性に、下村玉廣が描いた人物図案のような男性。1920年代になると正面を向いた人物も描かれるが、それが、とんでもなく下手なのだ。目鼻口をほとんど点で表しているのだが、目だけにすればまだ良かったのにと思うような。これはかなりの驚きだ。

若い頃、白の時代の絵が好きだった。ユトリロ展は何度か見に行ったし、結構な数を見ているはず。今回の展覧会では、コレ!という、とても心惹かれるものはなかったのだが、点数が多く、通覧できるのはとてもいい。

雪の街路、雪の教会、雪の広場。雪景色のユトリロの絵は良かった。10年以上前の展覧会で気に入った『十字軍の帰還(1905年頃)』も雪だったことを思い出し、当時買った絵葉書を出して確認した。

それに、後期の絵(例えば『ビエーヴル通り、ブール=ラ=レーヌ(1943年)』『雪の積もったパンソンの丘の通り、モンマニー(1950年頃)』)に多く見られる枯れ枝。枝の先に筆を下ろして、一気に枝を下へ伸ばすのだろう。その梢の黒々とした重さが、かえって枝の動きを表しているように思えた。

あと、全般的に水彩画が良かった。特に『雪のムーラン・ド・ラ・ギャレット、モンマルトル』という小品。10_004

どれも絵葉書では違うもののように思え、若い日の郷愁もあって、図録だけは買った。そうそう、ユトリロは、絵葉書を見て絵を描くことが多かったのだった。この酔っ払いは、飲み代として絵を渡したのだった。絵には署名のほかに、製作年やタイトル(描いた場所)あるいは献辞の入ったものもあった。[À Madame Gaston Berheim,Hommages respectueux] [Meilleurs voeux de bonne année 1922, à Madame ●●]などの献辞、つまり「敬具」や「新年おめでとう」といった言葉からは、純粋に贈り物なのか、飲み代なのかわからない。

ところで、このカタログ末尾の作品説明には、タイトル、年代、技法、大きさ、サイン(場所と署名)、展覧会出品歴、目録、作品の移動歴、販売元が、記されている。これらの作品は、パリのいくつかの画廊から、チューリッヒの画廊から、パリやヴェルサイユの邸宅から購入し、あるいはオンフルールやリヨンやルーアンの競売で、ロンドン・アメリカのサザビーズオークション・クリスティーズオークションで競り落としたものだ。そうまでして集めた膨大な、このコレクションは、通常どのような形で在るのだろうか。大邸宅に飾っているのか、保管庫に預けているのか、専用の倉庫があるのか・・・・・・と、埒もないことを考える。いずれにしても財力だけでは集められない。ユトリロの作品への愛がなければ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平安神宮・神苑

2010-09-19 23:28:42 | まち歩き

平安神宮は、明治28年(1895年)3月15日創建で、鳥居のある南面を除き建物を取り囲むように庭がある。大正2年完成の中庭(1300坪)・西庭(1500坪)、大正15年の東庭(5500坪)、昭和56年開設の南庭(1700坪)。南庭の開設日(9月19日)を記念して、毎年この日に無料公開を行っている(花菖蒲の時期――今年は6月4日――にも無料公開)。

10_003

10_004

10_006 案内板の左下が南庭、左上が西庭、右上が中庭、右中央より下にかけての広い範囲が東庭。南庭に設けられた「神苑入口」より入場し、時計回りに周って東庭の出口より退出する。

南庭は、平安文学(『伊勢物語』『源氏物語』『古今和歌集』『竹取物語』『枕草子』)に記された、約200種の植物を見ることのできる「平安の苑」。イチイやアスナロ、ナツメといった木もあれば、オミナエシやツユクサなどの草花も。それぞれのプレートには、植物の名称と、文学作品からの抜粋。

10_011

10_018

アサガオのプレートには、『伊勢物語』37段「我ならで下紐とくなあさがほの夕影またぬ花にはありとも」が記されていた。

10_013

10_012

『伊勢物語』は、平安初期の成立。万葉の時代から平安初期まで、「あさがほ」といえば今の桔梗だったはず。しかし、桔梗は夕方しぼむことはないから歌意に合わない。アサガオ(ヒルガオ科)は早朝のみ開くのだから、今のアサガオで辻褄は合う。『伊勢物語』は平安初期に業平によって創られ、その後、段階的に成長したという説が有力だから、この段を後世の追加と見て、「あさがほ」を現在のアサガオと解釈し、ここに掲載しているのだろうか。そんなややこしい。こんなエロい歌をわざわざ採用しなくても、平安中期成立の『源氏物語』朝顔の段に、いくらでも例があるだろうに。「枯れたる花どもの中に、朝顔のこれかれにはひまつはれて、あるかなきかに咲きて、匂ひもことに変はれるを、折らせたまひてたてまつれたまふ」「見し折のつゆ忘られぬ朝顔の花の盛りは過ぎやしぬらむ」。

ついでに言えば、『伊勢物語(新潮日本古典集成)』の頭注では、「『朝顔』は今の木槿だともいう」とある。ムクゲは、朝花開いて夕方閉じ、翌朝また花開く。朝顔=ムクゲの典拠は、寡聞にして知らない。他にも一日花と呼ばれる花や夕方毎にしぼむ花は、いくつもある。例えばムクゲと同じアオイ科ではハマボウ、芙蓉、棉、ハイビスカス。ユリ科のニッコウキスゲやノカンゾウ、ヒュウガギボウシ、キク科のノゲシ、アヤメ科のシャガ。なぜムクゲが選ばれたのか。個人的には、『新撰字鏡(892年)』の「桔梗:阿佐加保 又云 岡止々支」から、基本的に桔梗=アサガオでいいと思うが、『伊勢物語』のこの段は後世の追加で、「あさがほ」=アサガオと想像する。だからといって、アサガオのプレートに、この歌があってもいいとは思わない。  

10_005 10_014

10_015

さて。お庭。南庭は、春のしだれ桜を見に行くべき。西庭・中庭は、カキツバタ・花菖蒲・スイレンを。東庭は栖鳳池にかかる泰平閣と周囲の松が美しいので、どの季節でもいいだろう(写真上)。10_010 あちこちに咲いている萩は風情があったのだが、夏の暑さが残るこの時期、わざわざ行くほどのこともない、という感想。やはり、花がないと。「平安の苑」の秋の七草は、咲き揃っていなかったし。

10_022 お庭を巡っている間に見かけた軒丸瓦は、ほとんど三つ巴だったが、ところどころに「平安神宮」と文字の入ったものもあった。

お庭を出てから、西側の建物で宇治茶(水出し玉露)を頂き、玉露・煎茶・雁が音の淹れ方実演を見た。

10_009

10_001

10 玉露は、お湯を40度に冷まして。甘くて美味しかった。甘すぎるぐらい。これから涼しくなったらもっと温かいお茶がいい・・・・と、雁が音を買って帰る。これは70度ぐらいで淹れるお茶。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

重陽神事・烏相撲

2010-09-10 00:20:04 | まち歩き

今日は、五節句の一つ、重陽。五節句には、人日(1月7日)・上巳(3月3日)・端午(5月5日)・七夕(7月7日)・重陽(9月9日)がある。大陸から伝来した暦に、日本古来の風習を当てはめた節句。暦とは、陰陽五行説によって作られたものだ。世の中のものは陰陽のバランスによって成り立ち(陰陽思想)、全ては木火土金水によって作られている(五行思想)という考え方。数字にも陰陽はあり、偶数は陰、奇数は陽。陽×陽となる節句はそのバランスが崩れ、邪気が入り込む。それを祓うため、節会が行われていた。重陽には、菊酒を飲んだり、被せ綿についた菊の朝露で身体をぬぐったり。被せ綿は準備も大変なので、たいていの神社では、菊酒をふるまうようだ。

さて、上賀茂神社。10時前に、駐車場北側の勅使殿に、神職さん、相撲童子が並んでいた。10時ちょうどに二の鳥居から入ってきて、土舎でお祓いがある。

10_008

10_010

10_011

10_013

相撲童子のまわしに赤い紐がついているのは、禰宜方、ついていないのは祝(ほうり)方。西東に分かれて、対戦する。斎王代も童女二人と共にお祓いを受けていた。土舎でおはらいを受けてから、再び列を作って本殿へ。神事(約一時間)の後、斎王代・童女・権禰宜らは、細殿から烏相撲を眺める。

10_017

10_021

神事が終わると神職らは楼門を出て東から下りて、土俵へ向かう。一方の斎王代は西から下りて細殿へ向かった。

10_006 立て砂の前に土俵があり、土俵を囲んで東・西・南にはパック旅行や関係者のためのテントが。

陽射しは強く、土俵際に並んで待っている子どもたちの背中には、玉の汗が見えた。

10_001 西側の禰宜代、東側の祝代の順に地取り(土俵に自分を中心にして円を二つくっつけて書き、8の字に歩いて回ること)を行った。祝代の円は、禰宜代の円よりもひと回り大きかった。祝代の方が背が高かったのだが、それは多分、背の高さ(手の長さ)には関係なく、後の人がより大きい円を書くことになっているのだろう。この所作は、どうやら勝利の呪術らしい。この後相撲に参加する子どもたちの名前を読み上げ、斎王代に聞いていただく。呪術。ここでも陰陽道が出てきた。

10_003 そうして刀禰烏と呼ばれる二人がカラスのように跳びながら、立て砂まで弓矢・太刀・扇を運ぶため横跳びで三往復するのだ。扇と一緒に運んだ円座に座り、禰宜方の刀禰烏は「カァカァカァ」、祝方の刀禰烏は「コーコーコー」と順に三度ずつ啼くのである。円座と武器はその後一緒に持って跳びながら、青白の幕を張ったあく舎へ戻って行った。相撲の横綱土俵入りで、手のひらを返す所作は、武器を持っていないことを意味すると聞いたことがある。武器は、立て砂に預けたこれだけですよ、この武器は使いませんよ、そういう意味のように思える。

さて、烏相撲の方は、一人ずつ対戦して全員済んだ後、三人抜きの取り組みがあった。見ていてなかなか面白い。まわしをとってひきずり回すようなのとか、身体を寄せてぐいぐい押すとか、たまに投げもあった。決まると、歓声が上がる。終了までは50分ぐらいだろうか。それにしても、斎王代に見ていただくというのが、よくわからない。

10_022砂で作られた土俵は、三番か四番毎に「重陽社」と書いた法被を着た方々が、整備される。その法被の背中には、「烏相撲」の文字と、軍配と、まわしをしめたかわいい八咫烏が描かれていた。

10_004

10_007

黄色い菊の花びらが沢山浮かんだ菊酒。隣の折敷に「志納」とあったが、百円玉が多いようだった。私が頂いた盃には、菊の花びらは入っていなかったな・・・・・・。

この神事には、陰陽道の影響が色濃く反映されているような気がする。上賀茂神社の社家である賀茂一族は有名な陰陽師だ。特に中世の賀茂忠行・保憲親子。三輪のカモと山城のカモは別系統という説もあるが、記紀を読むと、出雲の迦毛大御神(カモノオオミカミ=アヂスキタカヒコネノ神)の系統が葛城へ、そして山城へと移動したように思われてならない。その上、相撲自体、どうやら陰陽道と関係があるらしい。四股は四神(玄武・青龍・朱雀・白虎)を鎮めるためだとか、やぐらの房と土俵の色は、陰陽五行の5色(黒・青・赤・白+黄色)だとか、弓取り式は、陰陽師の調伏と同じだとか。

楼門脇には、ポスターがあった。

10_015

10_016

「烏相撲」の烏は、上賀茂神社祭神(賀茂別雷大神)の外祖父(賀茂建角身命)が、神武東征の際に八咫烏となって先導した故事による、と同神社HPでは説明されている。どうも弱いと思うのだが。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

蚕の社(木嶋神社)

2010-09-05 23:50:05 | まち歩き

嵐電の駅名にもなっている蚕の社。正式名称は、木島坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)。本殿の東隣に蚕養(こかい)神社があって、そちらの通称で呼ばれるようになった。

Photo 三条通沿いには石造りの春日鳥居が建てられていたが、三条から少し北に上がった神社入り口には総丸太の神明鳥居。

この神社で有名なのは、本殿西側にある三鳥居である。南、北西、北東に面して鳥居が三角形に組み合わさったものだ。これは、京都御苑内厳島神社・北野天満宮内伴氏神社と共に、京の三鳥居と呼ばれている。

本や雑誌掲載のPhoto_2 写真でおなじみの三鳥居は明神鳥居で、想像していたよりもずっと大きい。竹垣で囲われていて近くには寄れなかったが、高さは少なくとも5メートルはある。この鳥居の中央、石が寄せられ、紙垂のついた棒があるところから、かつて水がこんこんと湧き出ていたらしい。

Photo_6

Photo_8

20年ほど前の近隣の下水道工事以来、池の水が涸れてしまった、という話だ。地下水豊富な京都で湧水が涸れた、というのは、下鴨神社の御手洗池と同様。そして、この神社がある森は「元糺の森」と呼ばれ、三角鳥居のある石垣に囲まれたこの場所は「元糺の池」と言う。つまり、ここが本来の「糺の森」であった。この池で禊をして穢れを落とし、あるべき姿にただす、そういう場所だったのだろう。嵯峨天皇の時代に、この森の名称が現在の下鴨神社境内、糺の森へ遷ったのだ、と由緒書きにある。この神社の神紋がフタバアオイなので、なるほどそうかもしれないと思う。

Photo_5

Photo_4

拝殿の提灯に描かれたフタバアオイと、同じく拝殿幕のフタバアオイは違う意匠だ。ずっと昔に京の西方で勢力を持っていた新羅系渡来 氏族の秦氏と、京の北東で勢力を持っていた賀茂氏には、どういう関係があったのだろうか。秦氏は菩提寺として広隆寺を建て、松尾寺と伏見稲荷を建て、蚕養神社を建てた。太秦の地名も、彼らの土地であったことの証左だ。一方の賀茂氏は、現在の上賀茂近辺もとは奈良・葛城山麓の豪族だったという。拮抗する勢力が手を結ぶには、古今東西、婚姻と決まっている・・・・・・。『秦氏本系帳』『鴨県主家伝』というものがあり、姻戚関係、賜姓と、異なる記述があるらしい。直接確かめていないので、これ以上は書けない。

秦氏と景教を関連づけ、三角鳥居はダビデの星の象徴(三角を組み合わせて星)という説もある。他にもいくつかキリスト教と関連づけた事象はあるが、その真偽はともかく、もしもここに裏の意味があるのなら、考えた人はすごい、と思ってしまう。府内に多いハタ関係の名字は、今に続く秦氏の広がりを感じさせるけれど、個人的に知っている彼ら・彼女らは、京都独特の雅な顔、つまり、うりざね顔に引目の顔立ち。だから、秦氏がユダヤ人の末裔という説には与しない。

[2010.9.8追記]

『都名所図会』の「木島社」の項を引用する。

「木島社ハ太秦のひがし森の中にあり天照御魂神を祭る瓊々杵尊大己貴命ハ左右に坐す蠶粮社ハ本社のひがしにあり糸わた絹を商ふ人此の社を敬す西の傍に清泉あり 世の人元糺といふ名義ハ詳ならず中に三ッ組合の石柱の鳥井あり老人の安坐する姿を表せしとぞ 當所社司の説 石鳥居 八角の柱なり森の入り口にあり・・・(略)・・・」

江戸時代には、「元糺」の由来ははっきりとせず、三角形に組まれた鳥居は老人の安座する姿という説があった。この説は、説得力に欠けるように思うが。

日文研HP「都名所図会」:http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/page7t/km_01_302.html

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする