古寺を巡る 三十三間堂
1001躯の観音像が一堂に並ぶ、おなじみのお寺。
三十三間堂は何度も参拝をしているが、今回、4日間の京都巡りで改めて参拝をすることにした。当じつは冬と春の繋目のとき、寒くはないが雪がちらつき、写真に雪の降る様子だ写されていた。
建物の正式名称は「蓮華王院本堂」。同じ京都市東山区にある妙法院の飛地境内であり、同院が所有・管理している。元は後白河上皇が自身の離宮内に創建した仏堂で、蓮華王院の名称は千手観音の別称「蓮華王」に由来する。
創建当時は五重塔なども建つ本格的な寺院であったが、建長元年(1249)の大火で焼失した。文永3年(1266)に本堂のみが再建された。現在「三十三間堂」と称されている堂であり、当時は朱塗りの外装で、内装も極彩色で飾られていたという。室町時代は足利義政の命により、桃山時代は豊臣秀吉により、修復や整備が行われた。現代になって、平成29年(2017)には、45年にわたった千手観音立像全1,001体の修復が完了した。
参拝日 令和5年(2023)2月15日(水) 天候曇り時々小雪
所在地 京都府京都市東山区三十三間堂廻町657 山 号 妙法院に所属する寺により山号はなし 院 号 蓮華王院 宗 派 天台宗 寺 格 妙法院飛び地境内 本 尊 千手観音(国宝) 創建年 長寛2年(1165) 開 基 後白河天皇 正式名 蓮華王院本堂 別 称 三十三間堂 札所等 洛陽三十三所観音霊場第17番 文化財 本堂、木造千手観音立像(1,001躯)、木造二十八部衆立像ほか(国宝)
南大門【国重要文化財】 桃山時代の慶長5年(1600)建立。切り妻造り、本瓦葺き、三間一戸の八脚門。境内東南側の敷地外に建つ。虹梁の刻銘により豊臣秀頼が慶長5年に新築したものと推測されている。かつては慶長6年(1601)にこれも秀頼によって建てられた西大門もあったが、明治28年(1895)東寺に移築され南大門(重要文化財)となっている。
南大門から朱塗りの東大門及び回廊の方向を見る。真正面は京都国立博物館。
東大門の回廊を見る。
東大門に繋がる回廊。木部の朱塗りと白壁に緑の連子窓が綺麗。
東大門前のお寺(法住寺)の門と紅梅。
普門閣 ここが入り口。
普門閣を潜れば、正面に本堂、左に庭園。本堂の正面(向拝)は庭園側になる。
昭和36年(1961)の後白河法皇770回忌記念事業の際に、「昭和の小堀遠州」と称えられた作庭家・中根金作氏により造園された。その後、中根金作氏を祖父にもつ中根行宏氏、直紀氏により庭園の整備がすすみ、令和3年(2021年)に保存工事が完了。
東大門 昭和36年(1961)の白河法皇770回忌記念事業として再建された。
後白河法皇没後800年に建てられた石碑。
鐘楼。 昭和63年(1988)に再建された。
堂内は参拝客が大勢いるが、庭の見学には興味がないのか客が少ない。
本堂の全景を見る。
本堂【国宝】 三十三間堂と呼ばれる。現在の堂は文永3年(1266)に再建されたもの。
三十三間堂の名称は、本堂が平安時代の建物の平面規模を表す間面記法でいう「三十三間四面」となることに由来する。これは桁行三十三間]の周囲四面に一間の庇を巡らせたという意味である。つまり柱間が33あるのは本堂の内陣であり、建物外部から見える柱間は35ある。
ここでいう「間」(けん)は長さの単位ではなく、社寺建築の柱間の数を表す建築用語である。三十三間堂の柱間寸法は一定ではなくその柱間も今日柱間として使われる京間・中京間・田舎間のどれにも該当しない。三十三間堂の1間(柱間)は今日の2間(12尺)に相当する。実際の外縁小口間の長さ約121mとなる。
正面中央に7間の向拝を設ける。現状の向拝は江戸時代初期、慶安3年(1650)のものであるが、後白河上皇による創建当初から現状のような形式の向拝が取り付いていたとみられる。
格格子の障子戸と菱格子の欄間。
軒は二軒繁垂木、組物は出組(肘木を壁面から一手持ち出す)を用いる。柱間装置は正面はすべて板扉。
そもそも「33」は観音菩薩にある縁のある数字で、『法華経』等に観音菩薩が33種の姿に変じて衆生を救うと説かれることによる。俗に「三十三間堂の仏の数は三万三千三十三体」というのは、本尊と脇仏の一千一体がそれぞれ33に化身するからである。また、平成28年(2016)に京都市埋蔵文化財研究所の調査により、地盤は砂と粘土を層状に積んで構成されていることが明らかになった。これは積層ゴムが建物の揺れを吸収する「免震」のメカニズムと共通している。
入母屋造、本瓦葺き、桁行35間、梁間5間とする。実長は桁行が118.2m、梁間が16.4mである。
側面は最前方の一間のみ板扉で他は連子窓。
南東側からの全景。
背面は5か所に板扉を設け、他を連子窓となっている。
西側。
西側は背面となる。通し矢場の場でもある。西側の軒下(長さ約121m)を向こう側(南)こちら側に矢を射通す弓術の競技。安土桃山時代に行われ始め、江戸時代前期に各藩の弓術家により盛んに行われ、京の名物行事となった。縁の北端に的を置き、縁の南端から軒天井に当たらぬよう矢を射抜き、その本数を競った。
太閤塀(国重要文化財) 桃山時代、本瓦葺。豊臣秀吉によって寄進された築地塀。現境内の南端を区切る。方広寺仏殿が創建された時、蓮華王院も方広寺の境内に含まれたため、その工事に伴って築造された。修理の際に「天正十六年‥‥大ふつ殿瓦」と刻んだ瓦が発見されている。軒丸瓦には豊臣家の桐紋が見られる。かつては西にも存在したが、現在は南の塀のみ残っている。塀は高さ5.3m、長さ92mに及ぶ桃山期の豪壮さを示す建造物である。
南大門の並び側の太閤塀。
通し矢場入口門。
本堂は内苑の中央に南北に長い建物で、建物内に諸仏が置かれていて、参拝者は本堂内の西の廊下を北から南へ歩く。現状では堂の内外に彩色はみられないが、昭和5年(1930)の修理時に、虹梁下面に貼付された装飾鏡の座を外した下から極彩色の文様が現れ、建立当初の堂は彩色で覆われていたことが判明した。 内部のこれ以上は撮影禁止区域となる。
木造千手観音立像1,001躯【国宝】 1001体が並ぶ。寄木造または割矧ぎ造、漆箔。像高は166 - 167cm前後。千手観音立像には1体ずつ番号が振られており、堂内南端(本尊に向かって左端)の最上段が1号像、南端の最下段が10号像、堂内北端(本尊に向かって右端)の最上段が991号像、北端の最下段が1,000号像、本尊背後に立つ1体が1,001号像である。昭和戦前期には、南側から入堂し北側へ抜ける拝観順路であったため、南から北へと番号が振られている。(写真は三十三間堂HPより)
1,001体のうち、建長元年(1249)の火災の際に救い出された、創建時の平安時代の像の長寛仏は124体、再建時(鎌倉時代)の像は876体あり、他に室町時代に追加された像が1体のみ(32号像)ある。(写真は三十三間堂HPより)
木造千手観音坐像【国宝】 寄木造り、漆箔、玉眼。十一面四十二臂に表す通有の千手観音像である。像本体の高さは334.8Cm、台座や光背を含めた全体の高さは7Cmを超える。作者は大仏師法印湛慶、小仏師法眼康円および小仏師法眼康清であり、慶長3年(1251)に造り始め、3年後に完成した。(写真は三十三間堂HPより)
雷神像【国宝】 木造風神雷神像として、風神像と2躯。鎌倉復興期の作。それぞれ堂内左右端に安置。風袋と太鼓をそれぞれ持った風神・雷神像の姿をユーモラスに表したこれらの像は、俵屋宗達の「風神雷神図屏風」のモデルになったともいわれる。寄木造、彩色、玉眼。像高は風神が111.5Cmセンチ、雷神が100.0Cm。雷神は連鼓を負い、両手にそれぞれ桴を持ち、風神とは対称的に左膝を突き、右膝を立てる。手指は3本、足指は2本である。(写真は三十三間堂HPより)
三十三間堂の対面が京都国立博物館である。
案内図
御朱印
三十三間堂 終了
(参考文献) 三十三間堂HP フリー百科事典Wikipedia