『五木寛之の百寺巡礼』を往く

五木寛之著「百寺巡礼」に載っている寺100山と、全国に知られた古寺を訪ね写真に纏めたブログ。

49 泉涌寺 

2023-10-26 | 京都府

古寺を巡る 泉涌寺

天皇家から篤く信仰された御寺

 

 

東寺の参拝を終えて、次の参拝が泉涌寺で「せんにゅうじ」と呼ぶ。東寺の紅葉の名所・臥雲橋から山あいの道を歩いて約20分。泉涌寺の入り口門に辿り着く。泉涌寺は、東山の一峰である月輪山の麓に広がる。この寺域には、鎌倉時代の後堀川天皇、四条天皇、および江戸時代の後水尾天皇から孝明天皇にいたる天皇陵がある。

皇室の菩提所として、また諸宗兼学の道場として、壮麗な堂宇が甍を連ね、幽閑脱俗の仙境、清浄無垢の法城となっている。

斉衡2年(855)左大臣藤原緒嗣が僧・神修のために山荘を与えて寺となし仙遊寺と称するようになり、建保6年(1218)に、当寺が開山と仰ぐ月輪大師・俊芿(がちりんだいし・しゅんじょう)が宇都宮信房からこの聖地の寄進を受け、宋の法式を取り入れた大伽藍の造営を志し、嘉禄2年(1226)に主要伽藍の完成をみた。その時、寺地の一角から清水が涌き出たことにより泉涌寺と改めた。この泉は今も枯れることなく涌き続けている。

当時朝野の尊信篤く、後鳥羽・順徳上皇、後高倉院をはじめ、北条政子、泰時など、公家・武家両面から深く帰依された。仁治3年(1242)正月、四条天皇崩御の際は、当山で御葬儀が営まれ、山陵が当寺に造営された。その後、南北朝~安土桃山時代の諸天皇の、続いて江戸時代に後陽成天皇から孝明天皇に至る歴代天皇・皇后の御葬儀は当山で執り行われ、山陵境内に設けられて「月輪陵(つきのわのみさぎ)」と名づけられた。こうして当山は皇室の御香華院として、長く篤い信仰を集めることとなる。泉涌寺が「御寺」と呼ばれる所以である。

総門内の参道両側をはじめ山内一円には塔頭寺院が建ちならび、奥まった境内には大門、仏殿、舎利殿を配した中心伽藍と天智天皇、光仁天皇そして桓武天皇以降の天皇・皇族方の御尊牌をお祀りする霊明殿と御座所、庫裡などの建物が甍を連ねている。 全山木々に包まれて静かにたたづむ堂宇、玉砂利の境内は、春は新緑、秋は紅葉に色どられて、一種別天地の雰囲気をかもしだす。

 

参拝日    令和5年(2023)2月15日(水) 天候曇りときどき小雪

 

所在地    京都市京都府東山区泉涌寺山内町27                      山 号    東山 泉山                                  宗 派    天台宗泉涌寺派                                寺 格    総本山                                    本 尊    阿弥陀如来 釈迦如来 弥勒如来                        創建年    斎衛3年(856) (伝)                           開 山    神修 (伝)                                 開 基    藤原緒継                                   正式名    泉山泉涌寺                                  別 称    御寺                                     札所等    洛陽三十三所観音霊場第20番 ほか                       文化財    仏殿、大門、開山堂ほか(国重要文化財)

 

 

境内地図                                                                                                (ネットより)

 

 

総門 東福寺駅前から知積院方面へ通じる広い通りのほぼ中ほどにある泉涌寺通の交差点を東南の方向に向かい参道にある総門。

 

 

総門から大門までの参道。 参道の両側には泉涌寺の塔頭が並ぶ。泉涌寺の参道の両側には泉涌寺の塔頭、来迎院、善能寺、雲龍院、今熊野観音寺、新善光寺、戒光院、即成院、法音院、悲田院が建っている。

 

 

大門の前にある御寺泉涌寺とある石碑。

 

 

大門【国重要文化財】  泉涌寺道を登った所、伽藍の最も高い位置に建つ大門は、「東山J の額を掲げて東山門とも呼ぶ。 仁和寺の慶長度内裏の南門を、寛永年間に移築した四脚門。屋根は切妻造の本瓦葺き、組物は三斗組で妻に板墓股を用いている。 とくに入り側の墓股には唐獅子・龍・膜麟・ 2莫などの霊獣彫刻があるなど桃山建築の遺風を感じさせ、簡素ながら堂々とした正門となっている。

 

 

大門を潜り、緩い坂道の降り参道となっている。

 

 

参道を進むと正面に建っているのが仏殿。

 

仏殿【国重要文化財】   寛文8年(1668)四代将軍徳川家綱によって再建された本堂。外見は重層建築のように見えるが、裳階の付いた一重入母屋造りの本瓦葺き建物。

 

大屋根の軒に扇垂木、組物は詰組、勇壮な花頭窓など、本格的な禅宗様式の唐様建築の特徴を完備した代表作。建物内部は天井まで組物がつらなる空聞が美しく、高い須弥壇には運慶作と伝わる阿弥陀・釈迦・弥鞠の三尊仏が安置されている。

 

 

横から見る。

 

 

 

仏殿と前後して建つ舎利殿。

舎利殿   釈迦の歯(仏牙舎利)を奉安する貴重な霊殿。慶長年間、京都御所の建物を移築改装したもので、仏殿と同時代に現位置へ移された。開山者・俊芿律師が熱願された舎利を、弟子の湛海律師が安貞2年(1228)に宋朝より将来して祀られたもの。現在寛喜2年(1230)将来された韋駄天像・月蓋長者像(共に重文)とともに内陣に奉祀されている。

 

 

向拝の両側に建て込まれた白塗りの格子の蔀戸。

 

 

舎利殿を横から。

 

 

御座所門。

 

 

本坊門。泉涌寺本坊は、霊明殿、御座所、海会堂の3つの建物をつなぐ御座所庭園によって構成されている。一般の参拝者が拝観する入口門でもある。

 

 

本坊の入り口。 向かって左側から入る。 右側が御座所入口になる。

 

 

入口の前庭を見る。右方向に霊明殿。

 

 

御座所の前庭を通して霊明殿を見る。

 

 

 

 

 

御座所の玄関。 正面は御座所門。

 

なお御座所は両陛下はじめ、皇族方の御陵御参詣の際の御休所として現在も使われている。昭和天皇はかつて御陵参拝の際にこの庭をめでられ、「春ふけて 雨のそぼふるいけ水に かじかなくなり ここ泉涌寺」の御製をお詠みになられました。

 

 

 

 

御座所の東南から御殿の南側にかけて、庭園が築かれている。霊明殿・御座所・海会堂そして御陵拝所に取囲まれたて庭園は、曲折する池の汀にさつきが咲き、秋には紅葉、冬は雪化粧した雪見灯篭も観れる四季折々の自然を見せてくれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

庭園の正面には霊明殿の煌びやかな飾り破風のある建物を見せる。

 

 

 

 

 

霊明殿唐門。 

 

 

門の扉は菊の御紋が掲げられている。

 

 

歴代天皇の御尊牌(お位牌)をお把りした場所の通称を霊明殿という。唐門から白砂の庭のむこうに奔されるのが霊明殿。重厚な入母屋造り檎皮葺き、外観は辰殿風、すべて尾州槍材で造られた品格ある建築物。

 

殿内は内陣・中陣・外陣に分かれ、内障は5室の御厨子となっている。それぞれに御扉を設け、中央御扉内には四条天皇御尊像と御尊牌をはじめ、明治天皇・昭憲皇太后・大正天皇・貞明皇后・昭和天皇・香淳皇后の御真影・御尊牌が奉安されている。

 

 

 

 

現在の霊明殿は、明治17年(1884)に明治天皇の思し召しによって宮内省が再建した。

 

 

二月中旬。冬真っ盛りに椿の花が迎えてくれた。

 

 

仏殿から大門を見る。

 

 

泉涌寺の周りには、このような皇族の墓陵が数多くある。

 

 

こちらは93代後伏見天皇の十八世皇孫の守脩親王墓。120代仁孝天皇の皇女・淑子内親王墓。93代後伏見天皇の十九世皇孫朝彦親王墓。

 

 

 

案内図。

 

 

 

御朱印

 

 

 

 

泉涌寺 終了

 

(参考文献)   泉涌寺HP  フリー百科事典Wikipedia  
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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