古寺めぐり 寂光院
今でもひっそりと佇む平家物語の舞台となった寺
寂光院と三千院への参拝で京都・大原の里へ。京都駅前7時40分の大原行きのバスに乗る。3月の初めの日、京都市内を抜けて鯖街道と呼ばれた大原街道に入ると、バスはほぼ貸し切りになり8時42分に終点の大原停留所に到着。乗客は吾輩1人であった。停留所から大原女の小道を歩き、15分ぐらいで寂光院に着いた。このお寺には二十代のころ参拝したことがあるが、よく覚えていない。歩いた小道が舗装されて歩きやすくなっていた。
寂光院は天台宗の尼寺である。寺の草創については、寺伝によると推古天皇2年(594)、聖徳太子が父の用明天皇の菩提のため開創したとされる。当初の名称は玉泉寺で太子の乳母であった玉照姫(恵善尼)が初代住職であるというが、ほかの説もあり明確なことは分かっていない。現在、寂光院はそうした草創伝説よりも、「平家物語」に登場する建礼門院が隠棲したゆかりの地として知られている。当院では史料がなく詳細が分からないため、建礼門院に仕えて後に出家し、当院の住持をしていた阿波内侍を第2代の住職としている。阿波内侍は、大原女のモデルとされる。
平清盛の娘・建礼門院徳子は、文治元年(1185)に壇之浦で平家一族が滅亡後、生き残った高倉天皇の中宮で、安徳天皇の生母である。徳子は阿波内侍を頼って入寺し、出家して真如覚比丘尼と称した。後に第3代住持となって当院で余生を送った。また平重衡の妻・藤原輔子も出家し当院で徳子に仕えた。
寂光院や三千院のある大原の里は、念仏行者の修行の地であり、貴人の隠棲の地であった。平家一門と高倉・安徳両帝の冥福をひたすら祈っていた徳子をたずねて後白河法皇が寂光院を訪れるのは文治2年(1186)の事で、この故事は『平家物語』の「大原御幸」の段において語られ、物語のテーマである「諸行無常」を象徴するエピソードとして人々に愛読された。
本堂は淀殿・豊臣秀頼の命で片桐且元が奉行として、慶長年間(1596~1615)に再興したものであったが、平成12年(2000)に放火に遭い焼失してしまった。この際、本尊の地蔵菩薩立像(重要文化財)も焼損し、堂内にあった徳子と阿波内侍の張り子像(建礼門院の手紙や写経を使用して作ったものという)も焼けてしまった。本堂は、平成17年(2005)に古式通りに忠実に復元された。同時に新しく作られた本尊や徳子と阿波内侍の像も安置されている。
境内の外、東側には建礼門院徳子を祀る大原西陵がある。陵墓はもともと境内にあったが、明治以降は宮内省の管理下に移り、境内から切り離された。また、境内の外、西側には阿波内侍らの墓がある。
参拝日 令和6年(2024) 3月1日(金) 天候晴れ
所在地 京都府左京区大原草生町676 山 号 清香山 院 号 寂光院 宗 派 天台宗 本 尊 地蔵菩薩 創建年 伝・推古天皇2年(594) 開 基 伝・聖徳太子 札所等 神仏零場巡拝の道第105番 文化財 地蔵菩薩立像(国重要文化財)
大原の里。 右手方向にしばらく歩いたところ寂光院。
大原女の小道をひたすら歩く。
大原女の小道の案内標。
大原女の小道にひっそりと朧の清水。 建礼門院がこの泉に姿を写したと伝わる。
「柴葉漬と大原女の発祥の地」の石碑。 寂光院の入り口の少し手前に建っている。寂しく隠棲した建礼門院は、地元の住民が慰めのために持ち寄った漬物を大変気に入り、紫蘇の入った漬物という意味で「柴葉漬」と名付けたと伝えられる。
寂光院の入り口。
寂光院境内図。
拝観の受付、ほかに朱印の授与、数珠玉(数珠巡礼)の授与、写経やお抹茶の申込受付などが行われている。
写真映えのする石階段を上る。
もみじの季節は最高に美しいと思う。春が近い冬の山門。
山門。
山門から上がってきた石段を振り返る。
山門から本堂を見る。
本堂。 桃山時代頃の建築の特色を残していると言われていた本堂は、平成12(2000)年の火災で焼失した。ヒノキ材で屋根は木柿葺(こけらぶき)。
小松前住職の「すべて元の通りに」の言葉通りに、焼け残った木組みや部材を入念に調査し、材木を吟味して、5年の歳月を経て平成17(2005)年6月2日に落慶した。正面3間奥行3間で正面左右2間、側面1間は跳ね上げ式の蔀戸で内側障子戸。
本堂の扁額「寂光院御再興黄門秀頼郷 為御母儀浅井備前守 息女 二世安楽也」だそうだ・・・・。
向拝から書院方向を見る。
本堂西側を見る。
本堂・向拝から境内および山門を見る。
書院。 山門を潜り境内の東側に建つ。
境内の庭園。 本堂前西側の風情ある庭園は『平家物語』にも描かれるもので、心字池を中心に千年の姫小松や汀の桜、苔むした石のたたずまいが好ましい風情をかもしだしている。
文治2年(1186)の春、建礼門院が翠黛山(本堂正面に対座する山)の花摘みから帰って来て、訪ねてきた後白河法皇と対面するところにも登場する。
汀の池。 後白河法皇が訪ねた時、徳子は山に出かけ留守だった。法王はこの池を見て「池水に汀の桜散りしきて 浪の花こそ 盛りなりけり」と詠んだといわれる。
汀の桜。
苔むした石塔の佇まいが千年の風情を醸し出す。
姫小松の切株。 平成12年(2000)に火災に遭い枯れ死してしまった。『平家物語』灌頂巻の大原御幸に「池のうきくさ 浪にただよい 錦をさらすかとあやまたる 中嶋の松にかかれる藤なみの うら紫にさける色」と伝わる松である。
書院から本堂に繋がる渡り廊下。 右手の東側に四方正面の池を見ることができる。
四方正面の池。 本堂の東側にある池で、北側の背後の山腹から水を引き、三段に分かれた小さな滝を設ける。池の四方は回遊出来るように小径がついており、本堂の東側や書院の北側など、四方のどこから見ても正面となるように、周りに植栽が施されている。
三段に分かれた小さな滝。 三段がわかれている情景が写真では判りずらい。
雪見灯篭。 夲堂に向かって右手前にある置き型の鉄製灯籠で、豊臣秀吉が本堂を再建した際に伏見城から寄進されたものと伝える。宝珠、笠、火袋、脚からなる。笠は円形で降り棟をもうけず、軒先は花先形とする。火袋は側面を柱で5間に分かち、各面に五三の桐文を透し彫りにし、上方に欄間をもうけ格狭間(ごうざま)の煙出とし、1面を片開きの火口扉とする。円形台下に猫足三脚を付けている。銘文等はないが、制作も優れ保存も完好で重厚な鉄灯籠である。
諸行無常の鐘楼。 本堂の正面の池の汀にある江戸時代に建立された鐘楼には、「諸行無常の鐘」と称する梵鐘が懸かっている。鐘身に黄檗宗16世の百癡元拙(1683-1753)撰文になる宝暦2年(1752)2月の鋳出鐘銘があり、時の住持は本誉龍雄智法尼、弟子の薫誉智聞尼で、浄土宗僧侶であった。鋳物師は近江国栗太郡高野庄辻村在住の太田西兵衛重次である。
茶室庭の中門。 山門へ上る階段の途中にある。
茶室「弧雲」。 京都御所で行われた昭和天皇の即位の御大典の際に用いられた部材を下賜され、それをもとに茶室を造り、昭和6年(1931)に千宗室宗匠をたのみ献茶式を催し、茶室開きを行った。
「孤雲」のいわれは、建礼門院のもとを訪れた後白河法皇が、粗末な御庵室の障子に諸経の要文とともに貼られた色紙のなかに、「笙歌遥かに聞こゆ孤雲の上 聖衆来迎す落日の前」という大江定基の歌とともに、「思ひきや深山の奥にすまひして 雲居の月をよそに見んとは」という女院の歌を御覧になって、一行涙にむせんだという『平家物語』の大原御幸のなかの一節にちなむ。
建礼門院徳子の御庵室跡。 本堂の北奥に女院が隠棲していたと伝えられている庵跡。現在は石碑が立つのみだが、御庵室跡の右手奥に女院が使用したという井戸が残る。壇ノ浦の合戦で平家が敗れたあと、建礼門院はひとり助けられ、都を遠く離れた洛北の地に閑居した。翌年、後白河法皇が訪れたときの庵室の様子は「軒には蔦槿(つたあさがお)這ひかかり、信夫まじりの忘草」「後ろは山、前は野辺」という有様で、「来る人まれなる所」であった。女院は平家一門の菩提を弔いながら終生を過ごした。
山門付近の苔の景色。
寂光院の門前の手前に草生を見渡すことのできる高台がる。一直線の石畳を上ると建礼門院の墓所と伝えられる大原西陵がある。
秋には沿道の紅葉が美しい。
建礼門院徳子大原西陵。
寂光院入り口を降りたところの様子。
案内図
御朱印
寂光院 終了
(参考文献) 寂光院HP フリー百科事典Wikipedia ほか