『五木寛之の百寺巡礼』を往く

五木寛之著「百寺巡礼」に載っている寺100山と、全国に知られた古寺を訪ね写真に纏めたブログ。

79 曼珠院

2024-04-28 | 京都府

古寺巡り 曼珠院

皇室の一門が住職であった京都・洛北屈指の名刹で、小さな桂離宮とも呼ばれている。

 

 

曼珠院

 

曼珠院 延暦年間(728~806)、宗祖伝教大師最澄により、鎮護国家の道場として比叡の地に創建されたのが曼殊院のはじまり。その後、天暦年間(947~957)是算国師のときに北野天満宮が造営されると、是算国師が菅原家の出生であったことから、曼珠院の初代別当職に就き、それから以後の明治維新まで900年間を北野別当職を歴任した。

天仁年間(1108~1110)に、北野天満宮の管理のため北山に別院を建立。その後、御所内公家町に移転し、明暦二年(1656)になり桂離宮が建設されて、八条宮智仁親王の第二皇子良尚法親王が入寺されて、現在の地に堂宇を移し造営されたのが今日の曼殊院である。良尚法親王は後陽成天皇の甥、後水尾天皇は従兄弟にあたる。

曼殊院造営については、桂離宮を完成させたといわれる兄智忠親王のアドバイスを受けて建設され、桂離宮同様当時ヨーロッパで大流行した黄金分割が採用されている。曼殊院の瀟洒で、軽快な大書院・小書院は「桂離宮の新御殿」や「西本願寺の黒書院」と並んで数奇屋風書院の代表的な遺構とされている。
良尚法親王はここ曼殊院で、「侘びの美・さびの美」の世界に生きられた文化人でした。

また書院の釘隠しや引き手、欄間などが桂離宮と共通した意匠がみられ、同じ系列の工房で作られた物で、これらにより曼殊院は「小さな桂離宮」といわれている。

書院庭園は武家の庭とは違い、また寺院の庭とも違う、いわゆる公家好みの庭となっている。司馬遼太郎先生は「街道をゆく」のなかで、「公家文化は豊臣期・桃山期に育成され、江戸初期に開花した。桂離宮と曼殊院は桃山の美意識の成熟と終焉を示している」と書いている。

 

参拝日    令和6年(2024)3月1日(金) 天候曇り

 

所在地    京都府京都市左京区一乗寺竹ノ内45                        山 号    なし                                       宗 派    天台宗                                      寺 格    京都五ヶ室門跡                                  本 尊    阿弥陀如来                                    開 山    是算                                       創建年    天暦年間(947~957)                              別 称    竹内門跡                                     札場等    近畿三十六不動尊第17番                             文化財    大書院、小書院、木造慈恵大師座像(国重要文化財) 庭園(国の名勝)

 

 

叡山電鉄修学院駅から歩いて約20分。スマホに道案内をされ住宅街の横道を縫って緩やかな坂道を上る。やっと参道に到着。

 

勅使門。  正門となるが天皇・皇族の門として通常は出入りができない。 勅使門の両側に設けられた築地塀には定規筋という五本の線が入っている。定規筋の線の数が寺格の高さを表し、曼珠院の線は最高位の五本となる。

 

 

 

 

 

勅使門の前の築地塀と通路の間には紅葉が植えられ、最盛期には紅葉の名所になる。

 

 

勅使門の前の道から右手に曲がり北通用門から中に入る。

 

 

境内図。  宸殿が建つ以前の境内図で梅林の処が宸殿位置となる  (曼珠院HPより)

 

 

北側通用門。

 

 

北側通用門から潜り、庫裡の玄関を入る。

 

 

庫裡の玄関に掲げられ扁額は「媚竈(びそう)」と書かれ、良尚法親王の筆による。意味は「奥にいる権力者に媚びるのではなく、実際に竈(かまど)を預かっている者に感謝せよ」と意味し論語からの言葉。

 

 

 

庫裡の玄関。   一般参拝者はこちらの庫裡の玄関口から内部に入る。

 

 

 

庫裡の内部から玄関口を見る。

 

 

庫裡の入り口から廊下を渡り小書院に向かう。 途中、庫裡の左手に上之台所がある。高貴な来客や門跡寺院の住職などのための厨房。丸炉の間、一乗の間、花の間、宿直の間、御寝の間があり、棚には、食器類も展示されている。ただいま修繕工事中で拝観はできなかった。

 

小書院【国重要文化財】    大書院の東北方に建つ。間取りは東南側に八畳の「富士の間」、その北に主要室である「黄昏の間」がある。建物西側は二畳の茶立所を含むいくつかの小部屋に分かれている。二畳室は板床があり、炉が切ってあって、茶室としても使用できるようになっている

 

 

富士の間。

 

 

 

 

 

黄昏の間。  七畳に台目畳二畳の上段を備え、床・棚・付書院をもつ。「富士の間」「黄昏の間」境の欄間には菊の御紋の透かし彫り。                      (写真は曼珠院HPより)

 

 

床脇の棚は多種類の木材を組み合わせたもので「曼殊院棚」として知られる。(曼珠院HPより)

 

 

 

 

 

「富士の間」から南側庭園を額縁にして見る。

 

 

「富士の間」側の外廊下。   扁額は「閑酔亭」と書いてあるという。

 

 

 

 

 

小書院外廊下の欄干笠木の釘隠し。この金物も元々は七宝仕上げだったのでは?

 

 

「富士の間」から見た南側庭園。小書院側の庭園は静かに水面をさかのぼる屋形船を表現しているというが、よくわからない。

 

 

 

「富士の間」から見た東側庭園。

 

 

 

小書院の廊下から大書院側を見る。

 

 

 

七宝製の釘隠し(富士山をかたどる)もこの建物の特色である

 

 

 

 

 

庭園【国指定名勝】   枯山水の庭園は小堀遠州の作といわれるが、遠州は曼殊院の当地移転以前の正保4年(1647)に没しており、実際の作庭者は不明

 

 

大書院と同時期の建築で寄棟造、杮葺きである。

 

 

屋根の重なりの美しさを・・・。                  (曼珠院HPより)

 

 

 

 

 

 

 

 

大書院側を見る。

 

 

 

 

 

小書院と大書院の間の廊下

 

 

大書院の廊下へ。

 

 

 

大書院と廊下を見る。

 

大書院【国重要文化財】    本堂として、明暦2年(1656)に建立された。仏間に本尊阿弥陀如来立像を安置することから重要文化財指定名称は「曼殊院本堂」となっているが、当の曼殊院ではこの建物を「大書院」と呼んでいる。また、解体修理の際に発見された墨書等から、この建物は建設当時から「大書院」と称されていたことが分かる

 

 

正面東側に「十雪の間」、西側に「滝の間」があり、「十雪の間」背後には「仏間」、「滝の間」背後には「控えの間」がある。

 

 

 

 

 

十雪の間。 床の間には木造慈恵大師(良源)坐像(重要文化財)を安置し、仏間には本尊を中心とする諸仏を安置する。

 

 

滝の間。

 

桂離宮・新御殿の欄間と同じ卍崩しの欄間は月を表現しているとのこと。建物内の杉戸の引手金具には瓢箪、扇子などの具象的な形がデザインされ、桂離宮の御殿と共通した意匠を用いたというが、写真は撮っていなかった。

 

 

全体の外観を見ることはできないが、建物は寄棟造の杮葺きで、一見して寺院というより住宅風の建物である。

 

扁額は「塵慮儘(じんりょじん)」。  辞書を見ると、「塵慮」とは俗世間の名利を欲する心とあり、「儘」は思い通りになることとある。

 

 

釘隠し。

 

 

 

 

 

正面に鶴島と名をつけた植え込みには樹齢400年の五葉松。 五葉松は鶴を表現しているという。その根元には曼殊院型のキリシタン灯篭がある。公家風で趣味豊かな良尚親王の趣向を反映している。

 

 

 

 

大書院の周辺には、霧島つつじが植えられており、5月のはじめ頃に深紅の花を咲かせる。霧島つつじは宮崎県が原産で、ほかのつつじに比べてやや小ぶりの花をつける。その優雅な姿は美女に例えられる。赤じゅうたんのように花をつけた霧島つつじは、枯山水庭園と調和して殊のほか美しい。

 

 

 

庭園の鶴島を見る。

 

大書院の周辺には、霧島つつじが植えられており、5月のはじめ頃に深紅の花を咲かせる。霧島つつじは宮崎県が原産で、ほかのつつじに比べてやや小ぶりの花をつける。その優雅な姿は美女に例えられる。赤じゅうたんのように花をつけた霧島つつじは、枯山水庭園と調和して美しいというが、冬の終わりのころ彩は少ないが見事な庭だ。

 

 

大書院と宸殿を結ぶ渡り廊下に設けられている仕切り戸は、杉の一枚板。

 

 

大書院の廊下から宸殿に向かう。

 

 

宸殿。   令和4年(2022)に新築されたばかり。

 

宸殿の全景。   皇族関係が住職を務める門跡寺院にとって宸殿は本堂にあたる重要な建物。このには曼珠院が所有する国宝不動明王が安置されている。 一度公開されたが、今後直接のに拝めない秘仏になる。(写真は曼珠院HPより)

 

盲亀浮木(もうきふぼく)の庭。  宸殿の再建に合わせて作庭された。100年に一度、息継ぎをするため水面に表れる盲目の亀の頭が、ちょうど流れてきた木の穴に偶然すっぽりと埋まった、という光景が表現されている。つまり、仏教に出会うことや、人に生まれることの難しさを語りかけている庭だそうだ。

 

 

盲亀浮木の庭に面して、唐門が見える。

 

 

護摩堂。 宸殿の横に建つ。

 

 

案内図

 

 

御朱印

 

 

曼珠院 終了

 

(参考文献) 曼珠院HP フリー百科事典Wikipedia ほか