『五木寛之の百寺巡礼』を往く

五木寛之著「百寺巡礼」に載っている寺100山と、全国に知られた古寺を訪ね写真に纏めたブログ。

78 三千院

2024-04-13 | 京都府

百寺巡礼第81番 三千院

声明が響く隠れ里

 

「京都 大原  三千院  恋に疲れた女が一人・・・・」の歌でもおなじみの三千院は、全国に広く名を知られている。三千院は、京都市街の北東に位置する山中にあり、かつては貴人や仏教修行者の隠棲の地として知られた大原の里にある。大原の里には京都駅前からバスでほぼ1時間で着く。先ず、は寂光院(当ブロブ掲載NO77)をお参りし、その後三千院を詣でた。五木寛之著「百寺巡礼」三千院の巻には、紅葉の季節で大変な混雑ぶりが書かれてれていたが、拙者が訪問した大原は冬の終わりで人影はまばら、ひっそりとしていた。もともと、この大原の里は、当時の社会からこぼれ落ちた人びとを、黙って受け入れてくれる隠里で、避難所ともいうべき場所だったのである。と百寺巡礼に描かれていたのを思い出した。なるほど、そのような風情を感じる。  

青蓮院(当ブログNO58)、妙法院とともに、天台宗山門派の三門跡寺院の一つ。

 三千院は延暦年間(782‐806)に伝教大師最澄が比叡山東塔南谷の山梨の大木の下に一宇を構えたことに始まりる。その後、慈覚大師円仁に引き継がれ、最雲法親王入室により、平安後期以降、皇子皇族が住持する宮門跡となる。寺地は時代の流れの中で、比叡山内から近江坂本、そして洛中を火災や応仁の乱などにより幾度か移転し、その都度、寺名も円融房、梨本坊、梨本門跡、梶井宮と呼称されてきた。       明治4年(1871)、法親王還俗にともない、梶井御殿内の持仏堂に掲げられていた霊元天皇御宸筆の勅額により、三千院と称された。明治維新後、現在の地大原に移り「三千院」として1200年の歴史を紡いでいる。

 

参拝日    令和6年(2023) 3月1日(金) 天候曇り

 

所在地    京都府京都市左京区大原来迎院町540                       山 号    魚山                                       宗 派    天台宗                                      寺 格    京都五ヶ室門跡                                  本 尊    薬師如来                                     創建年    延暦年間(782~806)                              開 山    最澄                                       別 称    三千院門跡  梶井門跡   梨本門跡                                     札所等    西国薬師四十九霊場第45番 ほか                          文化財    阿弥陀三尊像(国宝)  往生極楽院阿弥陀堂(国重要文化財)

 

大原のバス停から三千院まで約550mの参道は細い小道である。その参道の入り口付近、民家の前に「女ひとり」の歌詞石碑。

 

 

参道。

 

 

 

 

 

 

境内図                            (三千院HPより)

 

 

 

三千院に到着。 右手に「梶井三千院門跡」と石標。三千院はかって梶井門跡と呼ばれていたため石標に梶井の字。

 

 

 

桜の馬場。 三千院へ参道で入り口の通り。みやげ屋、飲食店が並び、春には桜が咲き誇る。

 

城壁を思わせる苔むした石垣と白壁土塀。 秋には手前の紅葉が素晴らしい彩を添え石垣と白壁に映えるのだろう。石垣の石組みは城廓の石積み技術などで名高い近江坂本の穴太衆(あのうしゅう)という石工が積んだもので、自然石を使った石組みは頑強でかつ美しく、時を経ても崩れないといわれている。

 

 

 

何かの石碑かよくわからない。

 

 

 

桜の馬場のとおりには店が並ぶ。

 

 

御殿門。  三千院の玄関口にあたる。高い石垣に囲まれ、門跡寺院にふさわしい風格をそなえた政所としての城廓、城門を思わせる構え。

 

 

 

 

 

 

 

門から境内を見る。

 

 

 

御殿門を入ると鍵型の通路を進み、拝観の入り口まで進む。

 

 

 

 

 

 

庫裡。 拝観受付の場所で、こちらの玄関から内部に入る。

 

 

 

客殿の勅使玄関側。

 

 

 

勅使玄関。   客殿用の玄関で唐破風の屋根の造り。

 

 

 

 

 

   

中書院の玄関。 一般の参拝客は出入りできない。

 

 

 

客殿の前のある石碑。

 

 

客殿。 西側の勅使玄関から続く書院で、大正元年(1912)に修補された。 前庭は、聚碧園で池泉観賞式庭園。

 

 

 

 

 

 

客殿から円融坊を見る。

 

 

聚碧園。  客殿前に広がる池泉観賞式庭園。東部は山畔を利用した上下二段式とし、南部は円形とひょうたん形の池泉をむすんだ池庭を形成している。江戸時代の茶人・金森宗和による修築と伝えられている。

 

 

聚碧園の隅にある老木「涙の桜」は室町時代の歌僧頓阿(とんあ)上人が詠んだ一首に由来し、その桜は西行法師のお手植えとも、頓阿上人の友、陵阿(りょうあ)上人のお手植えとも伝えられている。
見るたびに袖こそ濡るれ桜花涙の種を植えや置きけん (頓阿上人)

 

 

 

 

 

宸殿。  三千院の最も重要な法要である御懴法講(おせんぼうこう)を執り行うため、御所の紫宸殿を模して、大正15年(1926)に建てられた。本尊は伝教大師作と伝わる薬師瑠璃光如来で、秘仏となっている。

 

 

本殿向かって左、西の間には歴代住職法親王の尊牌がお祀りされており、向かって右の東の間には天皇陛下をお迎えする玉座を設えている。その玉座の間には下村観山の襖絵があり、大きな虹が描かれていることから「虹の間」とも呼ばれている。

 

 

 

向拝を見る。  全面に有清園の庭園が広がる。

 

 

 

寝殿の回廊。

 

 

有清園。  宸殿より往生極楽院を眺める池泉回遊式庭園で、中国の六朝時代を代表する詩人・謝霊運(しゃれいうん )の「山水清音有(山水に清音有り」より命名された。

 

 

青苔に杉や檜などの立木が並び、山畔を利用して上部に三段式となった滝を配し、渓谷式に水を流して池泉に注ぐようになっている。春には山桜と石楠花が庭園を淡く染め、夏の新緑、秋の紅葉、そして雪景色と季節毎にその色を美しく変える。

 

 

 

弁天池。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

有清園から宸殿を見る。

 

 

 

寝殿の前の有清園をはさみ往生極楽院がある。屋根側面が三角形に見える側が正面になる。

 

 

 

 

 

往生極楽院【国重要文化財】。 単層入母屋造、柿葺、妻入の建物で間口3間、奥行き4間の小さなお堂は三千院の歴史の源とも言える。 煌びやかさ豪華さはなく隠れ里の大原の景色にマッチした堂宇といえる。 

 

阿弥陀三尊像。   往生極楽院に祀られている阿弥陀三尊像はお堂に比べるとかなり大きく、堂内に納める工夫として、天井を舟底型に折り上げていることが特徴。その天井には現在は肉眼ではわかり難いものの、極楽浄土に舞う天女や諸菩薩の姿が極彩色で描かれており、あたかも極楽浄土そのままを表している。 この目で確かめたが、何が描かれているのかよくわからない。                                  (写真は三千院HPより)

 

阿弥陀三尊像【国宝】       久安4年(1148)に造られた本尊は、高さ2.3mの阿弥陀三尊坐像は、船底天井の堂内一杯に鎮座する。阿弥陀如来は来迎印を結び、向かって右側の観世音菩薩は往生者を蓮台に乗せる姿で、左側の勢至菩薩は合掌し、両菩薩共に少し前かがみに跪く「大和坐り」で、慈悲に満ちた姿を見せる。                                (写真は三千院HPより)

 

往生極楽院は、平安時代末期から、大原の地にあったもので、三千院とは別の寺院だった。寛和2年(986) 恵心僧都 源信が、父母のために、姉 安養尼とともに往生極楽院を創建したといわれる。久安4年(1148)に阿弥陀堂は、高松中納言実衝の妻 真如房尼が29歳の若さで夫を亡くし、供養のために建てた常行三昧堂に、90日間休まず念仏を唱えながら、ひたすら仏の周りを回る不眠不臥の業を約30年間も続けたと伝えられる。 

 

 

 

 

 

 

内部は撮影禁止。ぎりぎりこのへんの距離で・・・・向拝を撮る。  

 

 

 

質素な向拝。  向拝桁に支えられその下に向拝紅梁をつけ、海老紅梁はなく繋ぎ梁とし組物も簡素化。

 

 

 

向拝の様子。 窓には蔀戸がかかる。

 

 

 

向拝から正面を見る。 正面の先には朱色の朱雀門。

 

 

 

 

 

欄干のある外縁が四方を巡る。

 

 

 

 

 

 

堂の右脇には弁天池が広がる。

 

 

 

往生極楽院の背面側。

 

 

 

朱雀門。

 

 

 

 

 

 

三千院の代名詞にもなっている苔に覆われた杉木立。

 

 

 

 

 

 

有清園の存在感のある石灯籠。

 

わらべ地蔵。   往生極楽院南側、弁天池の脇にたたずむ小さな地蔵たち。有清園の苔と一体となってきれいに苔むしており、もう何年も前からずっとたたずんでいるよう。わらべ地蔵は、石彫刻家の杉村孝氏の手によるもので数体置かれている。

 

 

朱雀門。      往生極楽院の南側にある朱塗りの小さな門で、その昔、極楽院を本堂としていた頃の正門にあたる。その様式は藤原期の様式とも言われているが、江戸時代に再建されたもの。現在扉は閉めたまま。

 

 

境内は大きく二つに分かれ、下の平地に建つ客殿や宸殿、往生極楽院などの創建時のゾーンと、そこから少し上がったところに近代に造られた金色不動堂や観音堂などの奥の院がある。

 

 

金色不動堂。  護摩祈祷を行う祈願道場として、平成元年(1989)に建立された。本尊は、智証大師作と伝えられる秘仏金色不動明王で、毎年4月に行われる不動大祭期間中は、秘仏のその扉はご開扉され、約1ヶ月間お姿を拝するこができる。

 

 

観音堂。   平成10年(1998)に建立された。堂内には金色の観音像が祀られており、御堂両側の小観音堂には三千院と縁を結ばれた方々の小観音像が安置されている。

 

 

茶室?ではなさそう・・・。

 

 

 

 

 

 

津川にかかる朱塗りの橋。

阿弥陀石物(売炭翁石物)。     金色不動堂の北、律川にかかる橋を渡ったところに、鎌倉時代の大きな阿弥陀石仏が安置されている。石仏は高さ2.25mの単弁の蓮華座上に結跏跌座(けっかふざ)する。定印阿弥陀如来で、おそらく「欣求浄土(ごんぐじょうど)」を願ったこの地の念仏行者たちによって作られたもので、往時の浄土信仰を物語る貴重な遺物となっている。またこの場所は、昔、炭を焼き始めた老翁が住んでいた「売炭翁(ばいたんおきな)旧跡」と伝えられることから、この阿弥陀さまをここ大原では親しみをこめて、売炭翁石仏と呼ぶようになったと伝わっている。

 

 

津川。 三千院の境内を挟むように境内の北側を流れる川を「律川」、南側を流れる川を「呂川」と呼ぶ。
これは声明音律(しょうみょうおんりつ)の「呂律(りょりつ)」にちなんで名づけられたといわれている。

 

 

 

あじさい苑の遊歩道。

 

 

 

あじさい苑からみた往生極楽院の全景。

 

 

 

西方門。  朱雀門の西側に建つ、拝観の出口になる。

 

 

 

円融蔵。平成18年(2006)開館した展示室を備えている重要文化財収蔵施設。三千院開創以来の仏教・国文・国史、門跡寺院特有の皇室の記録や史伝等、中古・中世・近世にわたって書写され蒐集された、典籍文書を多数所蔵。展示室には現存最古と言われる往生極楽院の「舟底天井」と原寸大の天井画が創建当時の顔料のままに極彩色に復元され展示されている。(下の写真左の建物)

円融坊。 境内を巡り出口の西方門を出たところに建つ。 

 

 

 

未明橋。 三千院の参道桜の馬場を東に向かうと津川にかかる朱塗りの橋。

 

 

 

 

 

 

三千院の門前の通・桜の馬場の突き当りに勝林寺。右手が後鳥羽天皇大原陵。

 

 

 

後鳥羽天皇、順徳天皇の大原陵。三千院の御殿門を出て右奥の朱塗りの未明橋を渡り直ぐの右手にある。

 

 

案内図

 

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーーつまり、半僧半俗の聖や、世捨て人や、ドロップアウトした人というのは、ある意味で世間からへだてられる人びとででもあった。女性もまた、当時の仏教のなかでは、往生できない存在としてあつかわれていた。<中略>少なくとも大原別所が念仏の里であり、隠里であり、女人の里でもあったということは間違いない。大原は都からはみ出した人びとのアジールであり、聖と俗、聖と賤とが混沌として存在する場所だったのだと思う。いずれにしても、大原はいつの時代にも、行き場のない人びとを暖かく迎える土地だった。その念仏の里、隠れ里、女人の里に、三千院という寺がある。現在の三千院は観光寺院のイメージが強い。だが、この大原の文化のなかで、じつは三千院こそが、おおきな“かなめ”として存在しているのだろう。そして、大原の地は、歴史の陰の部分のつややかさを帯びて感じられのではないか。

 

 

御朱印

 

 

 

三千院 終了

 
 
(参考文献)
  
五木寛之著「百寺巡礼」第九巻京都Ⅱ(講談社刊) 三千院HP  フリー百科事典Wikipedia ほか