『五木寛之の百寺巡礼』を往く

五木寛之著「百寺巡礼」に載っている寺100山と、全国に知られた古寺を訪ね写真に纏めたブログ。

37 元興寺

2023-10-01 | 奈良県

古寺を巡る 元興寺

日本最古の本格的仏教寺院の建物が移築された寺。

 

 

奈良市の中心部にある奈良町は、奈良時代の平城京の外京だったエリアで、平安末期の11~12世紀頃寺社の仕事に携わる人々によって形成された。中世以降は、「寺社のまち」、「商工業のまち」、「観光のまち」として発展してきた。豊かな歴史や文化が育み、町家などの歴史的建造物の家並が残り、風情のある街である。そのほぼ中心部に元興寺がある。

元興寺は、蘇我馬子が飛鳥に建立した日本最古の本格的仏教寺院である法興寺(飛鳥寺)が、平城京遷都に伴って平城京内に移転した寺院である。奈良時代には近隣の東大寺、興福寺と並ぶ大寺院であったが、中世以降次第に衰退して3つの寺院が分立した。

奈良時代の元興寺は、三論宗と法相宗の道場として栄え、東大寺や興福寺と並ぶ大伽藍を誇っていた。寺域は南北4町(約440m)、東西2町(約220m)と南北に細長く、興福寺の南にある猿沢の池の南方、奈良町と通称される地区の大部分が元は元興寺の境内であった。猿沢池南東側にある交番のあたりが旧境内の北東端、奈良市音声館(奈良市鳴川町)のあたりが旧境内の南西端にあたる。10から11世紀にかけて、東大寺、興福寺が勢力を増す一方で、元興寺は中央政権的な国家体制の律令制度が崩壊するに合わせ徐々に衰退していった。

極楽院と呼んでいた寺も明治以降は荒れ果て、本堂も昭和25年(1950)ころまでは床は落ち、屋根は破れるほどの荒れ方であった。極楽院の住職となった辻村泰圓は、戦後に社会福祉事業に尽力するかたわら、境内の整備や建物の修理を進めた。昭和37年(1962)に辻村氏により境内に財団法人元興寺仏教民俗資料研究所が設立され、昭和40年(1965)には寺宝を収蔵展示する収蔵庫が完成するなど、徐々に整備が進んだ。同研究所は、本堂解体修理中に屋根裏から発見された数万点の庶民信仰資料を研究することでスタート。昭和52年(1977)に「元興寺」と改称。平成22年(2010)禅室の一部に使用されている木材が世界最古の現役木製建築部材であることが確認された。

 

参拝日    平成30年(2018)10月2日(木) 天候晴れ

 

所在地    奈良県奈良市中院町11                           山 号    なし                                    宗 派    真言律宗                                  本 尊    智光曼荼羅                                 創建年    推古天皇元年(593)                             開 基    蘇我馬子                                  正式名    元興寺                                   別 称    元興寺極楽坊                                札所等    西国薬師四十九霊場第5番                           文化財    本堂、禅堂、五重塔小塔(国宝) ほか

 

 

奈良町と言われる古い町並みが並ぶ一角。

 

 

 

 

 

長名の由来が掲げられていた。

 

 

元興寺の塀の一画。

 

 

元興寺の入り口付近。

 

 

境内図。

 

 

元興寺への入り口。

 

 

東門【国重要文化財】。 鎌倉時代後期(1275~1332)に東大寺の塔頭であった西南院の門として建立された。室町時代前期の応永年間(1394~1427)に元興寺に移築したと言われている。鎌倉時代の寛元2年(1244)に本堂と禅室が大改造された際に、東向きの寺院に改めたことで東門が元興寺の正門になっている。

 

 

平成10年(1998)に古都奈良の文化財として世界遺産に登録された。

 

 

東門及び、拝観入り口。

 

 

東門を境内から見る。

 

 

東門から本堂を見る。

 

 

本堂の前の様子。

 

本堂【国宝】 極楽坊本堂または極楽堂とも呼ぶ。寄棟造、瓦葺で、東を正面として建つ(東を正面とするのは阿弥陀堂建築の特色)。この建物は寄棟造の妻側(屋根の形が台形でなく三角形に見える側)を正面とする点、正面柱間を偶数の6間とし、中央に柱が来ている点が珍しい(仏教の堂塔は正面柱間を3間、5間などの奇数とし、正面中央に柱が来ないようにするのが普通)。

 

 

 

 

向拝を見る。

 

 

柱の上の枓栱は単層で、ほかに彫刻や飾り物などの無い簡素な造り。

 

 

 

 

内部は板敷きの内陣の周囲を畳敷きの外陣がぐるりと囲んでおり、内陣の周囲を念仏を唱えながら歩き回る「行道」に適した構造になっている。鎌倉時代の寛元2年(1244)、旧僧房の東端部分を改造したもので、内陣周囲の太い角柱や天井板材には奈良時代の部材が再用されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本堂の南側を見る。

 

本堂の南側の境内に整然と並べられた石塔。禅室の北西部石舞台に積み上げられていたものを、昭和63年(1988)に、並べ直し浮図田と呼んでいる。(浮図とは仏陀のことで、仏像、仏塔が稲田のごとく並ぶ場所という意味)

 

 

本堂の西側に並ぶ禅堂。

 

禅室【国宝】   切妻造、瓦葺。本堂の西に軒を接して建つ。元は現・本堂と東西に長いひと続きの僧房であったものを鎌倉時代に改築した。正面の4箇所に板扉があり、区画に分かれていた。1区画には5-8人の僧が生活していた処。本堂と同様、部材や屋根瓦の一部には奈良時代のものが残っていて、西暦582年に伐採された樹木が使用されていて、本堂より古い材木が使用されている。

 

 

 

 

屋根瓦の一部にも飛鳥〜奈良時代の古瓦を使用。ここに使われている古瓦は上部が細くすぼまり、下部が幅広い独特の形をしており、この瓦を重ねる葺き方を行基葺(ぎょうきぶき)という。

 

 

家形石棺型手洗鉢。

 

 

かえる石。  境内北側にあるガマガエルのような石は、古くから有名な奇石で蛙石と呼ぶ。この石は、以前にかかわった有縁無縁一切の霊を供養して極楽にカエルと成就している。極楽堂に向って誓願の「無事かえる」「福かえる」など衆生の願を聞いてくれると言う。

 

 

獅子国型仏足石。 獅子国とはスリランカのことで、同国と元興寺の友好を機に設置された。

 

 

 

元興寺総合収蔵所。 昭和40年(1965)に建てられた鉄筋コンクリート造の宝物の展示館。

 

収蔵庫には、奈良時代の五重小塔(国宝)が見もの。境内に建てられた五重塔と同時に五重小塔も製作され現在まで保存されている。小さいが非常に精巧につくられいる。収蔵庫には他に、平安時代に描かれた板絵の智光曼荼羅(国重要文化財)、平安時代制作の阿弥陀如来坐像(国重要文化財)、鎌倉時代の聖徳太子立像(国重要文化財)、鎌倉時代の弘法大師坐像(国重要文化財)などがある。

 

 

五重小塔【国宝】  収蔵庫に安置。奈良時代の制作。高さ5.5m。小塔であるが、内部構造まで省略せずに忠実に造られているため「工芸品」ではなく「建造物」として国宝に指定。同じく建造物として国宝に指定されている海龍王寺の五重小塔は、奈良時代の作であるものの内部構造は省略されているため、現存唯一の奈良時代の五重塔の建築構造を伝える資料として貴重である。かつては「小塔院」の建物小塔堂内に安置されていたと伝えられる。一貫して屋内にあったため傷みが少ない。(写真は元興寺のHPより引用)

 

聖徳太子立像【国重要文化財】  本像は孝養像と呼ばれるもので、文永5年(1268)に仏師善春等によって作られ、僧俗約5千人による勧進結縁 で出来あがった。おそらく文永9年(1272)の太子生誕650年を記念して造立されたと推定される。太子16歳の時、父用明天皇の病気平癒を祈る姿だという。元興寺は「聖徳太子四十六ヶ伽藍之随一也」とする考えが成立し、南都の律僧達が太子信仰に拠って極楽坊をその拠点としたことが太子像造立の契機となった。(写真が元興寺HPより引用)

 

 

案内図

 

 

 

御朱印

 

 

元興寺 終了

 

(参考文献)   元興寺HP  フリー百科事典Wikipedia  奈良県観光局ならの観光力向上課HP

         五木寛之著「百寺巡礼」第一巻奈良(講談社)

 

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