『五木寛之の百寺巡礼』を往く

五木寛之著「百寺巡礼」に載っている寺100山と、全国に知られた古寺を訪ね写真に纏めたブログ。

38 浄瑠璃寺

2023-10-03 | 京都府

第28番 浄瑠璃寺

 

いのちの尊さを知る、浄瑠璃浄土

 

 

 

 

奈良駅前から1時間に1本のバスを利用し30分で浄瑠璃寺の前に到着。浄瑠璃寺の場所は、京都府木津川市の山中にあるが、奈良から直通のバスが出ているので、こちらが便利。地理的にも奈良の地域に入る。雨の降る中、山の中にある古寺に参拝する団体客はない。10月の初めの土曜日でこ個人の参拝客は、かなり少ない。浄土式の庭園は雨に濡れて、しっとりと落ち着いた風景はすごく雰囲気が良く、心から癒してくれる古寺だった。

本堂に9体の阿弥陀如来像を安置することから九体寺の通称がある。緑深い境内には、池を中心とした浄土式庭園と、平安末期に建立された本堂と三重塔が残り、平安朝寺院の雰囲気を今に伝える。本堂は当時京都を中心に多数建立された九体阿弥陀堂の唯一の遺構としてた貴重である。

浄瑠璃寺の所在する地区は「当尾の里」と呼ばれ、付近には当尾石仏群と呼ばれる、鎌倉時代からのぼる石仏、石塔などが点在している。

浄瑠璃寺の創立については、永承2年(1047)、義明上人により本堂が建立され、60年後の嘉承2年(1107)、本仏の薬師如来を「西堂」に移したとの記録がある。この嘉承2年に建立された新本堂が、現存する国宝の本堂であるとするのが通説である。それから50年後の保元2年(1157)には本堂を西岸に解体して移築した解釈できる記録が残っている。すなわち、現存する本堂の建つ位置にほかならない。その後、浄瑠璃寺は建造物が増えてゆく。久安2年(1146)食堂と釜屋を建設、同6年には摂政藤原忠道の子の覚継が寺を整備する際に池を築造した。

 

参拝日    平成30年(2018)10月4日(土) 天候小雨のち曇り

 

所在地    京都府木津川市加茂町西小札場40                         山 号    小田原山                                   院 号    法雲院                                    宗 派    真言律宗                                   本 尊    九体阿弥陀仏(国宝) 薬師如来(国重要文化財)                創建年    永承2年(1047)                               開 基    行基  多田満仲(源満仲)                          中 興    義明上人                                   正式名    小田原山法雲院淨瑠璃寺                            別 称    西小田原寺  九体寺                             札所等    仏塔古寺十八尊第10番 ほか                          文化財    本堂、三重塔、木造阿弥陀如来坐像9躯、木造四天王立像4躯(国宝)        文化財    木造吉祥天立像、木造薬師如来坐像、木造地蔵菩薩立像ほか(国重要文化財)             庭 園    国の特別名勝・史跡

 

 

浄瑠璃寺入り口。  バス停から直ぐのところ。

 

 

細い道の参道が続く。沿道の立木は馬酔木とのこと。

 

 

境内図                                   上部が北

 

 

 

山門。 武家の門のようだが小さな門。

 

 

 

 

 

門を入るとすぐに案内看板。さすが京都や奈良の大寺院の看板とは異なり、こんなところにも風情がある。

 

 

門を入るとすぐに宝池が見える。三方が小高い丘に囲まれた境内は、中央に宝池、右手に本堂、左手に三重塔。小雨が降る中、箱庭のような静かな境内に人影はなく、風情が一層我が身にしみる寺だ。

 

 

本堂の方向へ。

 

 

本堂への拝観手続きと入り口(建物右手)と出口(建物左手)となる寺の社務所のような建物。

 

本堂【国宝】 嘉承2年(1107)に再建された。寄棟造、本瓦葺き。桁行11間、梁間4間(柱間の数を表す)。平面は「九間四面」、すなわち、桁行9間、梁間2間の身舎の周囲に1間幅の庇をめぐらした形式になる。安置する9体の阿弥陀如来像のうち、中尊は他の8体より像高が大きく、中尊を安置する堂中央部分の柱間は他の柱間より2倍近く広くなっている。

 

 

堂正面の柱間には、左右両端間は上半を連子窓、下半を土壁とし、他の9間は板扉になっている。隅の柱上に舟肘木を用いるほか、外周の柱上には組物を用いない、簡素な建物である。

 

 

 

 

白河院、鳥羽院の院政期を中心とした11 - 12世紀には、多くの九体阿弥陀堂が建立された。記録に残るものだけで30数例を数えるが、現存するものは浄瑠璃寺本堂のみである。これらの九体阿弥陀堂の多くは天皇家や有力貴族の建立したもので、浄瑠璃寺本堂のように地方の豪族によって建立されたものは珍しい。

 

本堂正面。写真はないが、堂内は板敷きで、身舎の奥寄りに横長の須弥壇を設け、9体の阿弥陀如来坐像を横一列に安置する。天井は身舎、庇とも、天井板を張らず、垂木などの構造材を見せる「化粧屋根裏」とする。

阿弥陀堂には、平等院鳳凰堂や富貴寺大堂など堂内を極彩色の壁画で飾り立てているのが特徴であるが、浄瑠璃寺本堂にはそうした壁画の痕跡はない。柱上の組物も用いない(隅柱に舟肘木を置くのみ)など、全体に簡素な造りである。九体仏のうち中尊を安置する部分の柱間を特に広く造り、求心性の高い建物である点が特色である

 

 

 

 

木造阿弥陀如来坐像 9躯【国宝    平安時代の作品で現存するものは浄瑠璃寺像のみである。9体とも檜材の寄木造、漆箔仕上げで、像高は中尊像のみが他より大きく、224.0Cm、脇仏8体は139.0Cm~145.0Cm 。 9体とも永承2年(1047)の作とする説と、嘉承2年(1107)の作とする説があり、像の制作年は判明はしていない。(写真は浄瑠璃寺HPより)

 

吉祥天立像【国重要文化財】 本堂内に安置。像高90.0cm。檜材割矧ぎ造、彩色・截金。『浄瑠璃寺流記事』によれば、鎌倉時代の建暦2年(1212)に本堂に安置されている。九体阿弥陀の中尊の向かって左に置かれた厨子内に安置され、春、秋、正月の一定期間のみ扉が開かれる秘仏である。構造はヒノキ材。像は蓮華座上に直立し、右腕は下げて与願印(掌を前方に向けて開く)とし、左腕は肘を曲げ、掌を肩の辺に上げて宝珠を捧持する。体部を白肉色とし、衣部は繧繝彩色を含む極彩色である。『大吉祥天女念誦法』に「身色白にして十五歳の女の如く」とある姿を表現したものである。像は黒漆塗の春日厨子に安置される。この厨子の扉と後壁に描かれた仏画も鎌倉時代の絵画資料として貴重なものである。ただし、オリジナルの扉と後壁は明治時代に流出して東京芸術大学の所蔵となっている。  (写真は奈良県観光局HPから)

 

木造四天王立像【国宝】 持国天  像高167.0 - 169.7cm。寄木造。漆箔・彩色・截金。平安時代後期の作。当初の彩色と截金文様がよく残っている。4体のうち広目天は東京国立博物館、多聞天は京都国立博物館に寄託。持国天と増長天は本堂内に安置。(写真は浄瑠璃寺HPより)

 

 

 

宝池の此岸側から弁天社と九体阿弥陀堂を見る。

 

 

 

 

 

此岸側から本堂を見る。

 

池の反対側から本堂を見ると、中央の阿弥陀如来の顔は本堂の庇に隠れて見えないが、池に映った姿を見ると顔も見える。池に映して見ることで、極楽浄土の世界を見るように設計されていた。当日は扉が閉まり堂内は見えない。

 

 

浄土式庭園の代表格ともいえる庭園。奈良時代の仏教の伝来とともに創られた独特な庭園で、「死後に清らかな世界浄土への往生を願う浄土思想」を表現したと言われる。

 

 

本堂正面に中島の先端となる州浜が玉石で造られた。7つの石で浄土の世界を表している。洲浜は池泉を美しく魅せる技法である。

 

 

彼岸側から見た州浜の石組。

 

 

石橋や州浜が特徴の一つ。昭和の中頃まで池水は著しく汚濁していた。この状態を改善すべく昭和50年(1975)に、境内の発掘調査と大規模な庭園整備が行われた

 

 

 

 

 

三重塔から此岸を通し宝池全景を見る。。

 

 

宝池の中島に造られた弁天社を彼岸側から見る。弁天社は平成29年(2017)に修復された。

 

 

 

 

 

 

 

 

彼岸から見る三重塔。

 

 

 

 

 

 

 

 

三重塔【国宝】 『浄瑠璃寺流記事』によると治承2年(1178)、京都の一条大宮から移建したとするが、もともとどこの寺院にあったものか不明である。

 

 

 

 

構造上の特色は、初層内部には柱がないことで、心柱は初層の天井から立てられている。浄瑠璃寺に移築された後、初層内部に仏壇を置きその上に薬師如来像(重文、秘仏)が安置された。初層内部の壁面には十六羅漢像などの壁画が描かれている。

 

 

 

 

 

 

 

三重塔が見える宝池西岸を彼岸という。三途の川を挟み人間が住んでいる世界(現世)を此岸、そして向こう側の仏様の世界(来世)を彼岸という。つまりお彼岸とは、我々人間の迷いや苦しみの原因となる煩悩のない、悟りの境地に達した世界であり、極楽浄土のことを言う。春分・秋分には太陽が三重塔から昇り、九体阿弥陀堂に沈むように配置されていて、太陽が「来世」から「現世」へ移動するのである。

 

 

石灯籠【重要文化財】    貞治5年(1366)の造。花崗岩。六角型(般若寺型)。「貞治五年丙午正月十一日造立之為法界衆生願主阿闍梨祐実」の銘が刻まれている。

 

 

宝池は回遊式庭園であり、歩道が整備されている。

 

 

何かの石組の跡かな?

 

 

鐘楼。治承2年(1178)鐘楼の建立。

 

 

なにのための石かな?。

 

 

山門を出る。

 

 

山門を出た参道の右側に風情のある茅葺屋根の食事処が見えた。

 

 

 

 

 

参道に立つ案内板。

 

 

参道の土産物屋。ここから直ぐバス停。

 

 

案内図

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーーやっと雨がやんだ。私は庭園から裏側にまわって阿弥陀堂のなかに入った。一歩足を踏み入れて、あ、と息を呑んだ。居ならぶ九体の阿弥陀仏に圧倒されたのである。堂宇はどちらかというと素朴なのだが、そのなかに二メートル強、あるいは一メートル五十におよぶ阿弥陀仏が横一列にずらりと並んでいるのは、ものすごい迫力である。私がこれまでもっていた阿弥陀仏のイメージは、どこかやさしい母性的な感じだ。しかし、阿弥陀如来像も、歴史によってかなり変化するもののようだ。浄瑠璃寺の九体の阿弥陀如来像は藤原時代に流行した九体阿弥陀の唯一のいぶつだそうだが、体躯は堂々して、目から鼻、唇、肩、手にかけて、力強くしっかりしている。この九体は、同じデザインでつくられたそうだが、やはり彫る職人の個性がそれぞれにじみ出ているようだ。よく見ると一体一体が微妙に違う。機械的な仕事とはちがって人間の仕事はこうゆうところに面白みがある。堂々とした九体が、それぞれに縁なき衆生に顔を向け、それぞれの光を投げかけてくる。浄瑠璃寺という山間の寺の素朴な堂宇のなかに、おおらかでどっしりとした九体の阿弥陀如来が、天井低しとばかりに座っておられる姿は、あるショックを私にあたえた。

 

 

御朱印

 

 

浄瑠璃寺 終了

 

(参考文献) 浄瑠璃寺HP フリー百科事典Wikipedia  奈良県観光局観光プロモーション課HP(祈りの回廊) 五木寛之著「百寺巡礼」第三巻京都(講談社)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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