『五木寛之の百寺巡礼』を往く

五木寛之著「百寺巡礼」に載っている寺100山と、全国に知られた古寺を訪ね写真に纏めたブログ。

28 中尊寺

2023-09-02 | 岩手県

第26番 中尊寺

みちのくの黄金郷に鳴る青い鐘

 

 

一度は参拝したいお寺の一つが、この中尊寺である。黄金の堂ということで中尊寺より金色堂が名が知られているが、金色堂を除けば中尊寺全体は、煌びやかさは無く素朴なお寺にしか見えない。

中尊寺は嘉祥3年(850)、比叡山延暦寺の高僧慈覚大師円仁によって開かれた。その後、12世紀のはじめに奥州藤原氏初代清衡公によって大規模な堂塔の造営が行わる。清衡公の中尊寺建立の趣旨は、11世紀後半に東北地方で続いた戦乱(前九年・後三年合戦)で亡くなった生きとし生けるものの霊を敵味方の別なく慰め、「みちのく」といわれ辺境とされた東北地方に、仏国土(仏の教えによる平和な理想社会)を建設する、というもの。それは戦乱で父や妻子を失い、骨肉の争いを余儀なくされた清衡公の非戦の決意でもあった。

清衡公は長治2年(1105)より中尊寺の造立に着手。まず東北地方の中心にあたる関山に一基の塔を建て、境内の中央に釈迦・多宝如来の並座する多宝寺を建立し、続いて百余体の釈迦如来を安置した釈迦堂を建立。この伽藍建立は『法華経』の中に説かれる有名な一場面を具体的に表現したもの。

清衡公は釈迦如来により説かれた法華経に深く帰依し、その平等思想に基づく仏国土を平泉の地にあらわそうとした。清衡公は『中尊寺建立供養願文』の中で、この寺は「諸仏摩頂の場」であると述べている。この境内に入り詣でれば、ひとりも漏れなく仏さまに頭を撫でていただくことができる。諸仏の功徳を直に受けることができる、という意味。法華経の教えに浄土教や密教を加え大成された天台宗の教えに基づく伽藍が境内に建ち並び、その規模は鎌倉幕府の公的記録『吾妻鏡』によると、寺塔が四十、禅坊(僧の宿舎)が三百におよんだという。

 二代基衡公は、父の志を継いで薬師如来を本尊とする毛越寺の造立をすすめ、三代秀衡公は阿弥陀如来を本尊とする無量光院を建立した。三世仏(過去釈迦、現世薬師、未来世阿弥陀)を本尊とする三寺院の建立は、すべての生あるものを過去世から現世さらに未来世にいたるまで仏国土に導きたいという清衡公の切実な願いの具現でもあった。

平泉はおよそ100年近くにわたって繁栄し、みちのくは戦争のない「平泉の世紀」だった。しかし、平氏政権を倒した源義経が、兄頼朝と対立し平泉に落ちのびて間もなく、義経を保護した秀衡公が病死すると、四代泰衡公は頼朝の圧力に耐えかね義経を自害に追い込むことになった。その泰衡公も頼朝に攻められ、文治5年(1189)奥州藤原氏は滅亡した。

 鎌倉時代以降、大きな庇護者をうしなった中尊寺は次第に衰退し、建武4年(1337)の火災で惜しいことに多くの堂塔、宝物を焼失した。しかし国宝建造物第1号の金色堂をはじめ、建築、絵画、書跡、工芸、彫刻、考古、民俗の各分野にわたる文化遺産が現在まで良好に伝えられ、東日本随一の平安仏教美術の宝庫と称されている。平成23年(2011)に中尊寺を含む「平泉の文化遺産」が世界文化遺産に登載された。

 

参拝日    平成30年(2018)6月21日(木) 天候曇り

 

所在地    岩手県西磐井郡平泉町衣関202                        山 号    関山                                     宗 旨    天台宗                                    寺 格    東北大本山                                  本 尊    釈迦如来                                   創建年    嘉祥3年(850)                                開 山    円仁(慈覚大師)                               札所等    奥州三十三番観音番外札所                           文化財    金色堂、金色堂堂内諸像および天蓋(国宝)、金色堂旧覆堂(国重要文化財)   

 

 

中尊寺境内地図。

 

 

中尊寺参道入り口。あまりにも質素な感じ。

 

 

中尊寺の参道入り口を振り返る。

 

 

参道はけっこの距離がありだらだらの坂を上るが、険しい坂ではない。

 

 

表参道月見坂と呼ばれる参道。中尊寺は標高130メートルほどの東西に長い丘陵に位置しているため、この坂が古くから本堂・金色堂へと参拝する人々の表参道として利用されてきた。 

 

 

 

 

老杉と山の空気が作り出す荘厳な雰囲気に浸りながら足をすすめると、右手には奥州藤原氏に縁の深い束稲山・北上川・衣川を眺望することがでる。古の俳人芭蕉翁をはじめ多くの旅人がここで足を止め眼下に広がるその光景を眺め、在りし日の平泉の栄華に想いを馳せたに違いない。

杉木立のあいだから降り注ぐ、初夏の強い日射しに照りつけらながら月見坂をのぼっていく。この坂をのぼりきれば、中尊寺の伽藍が見えてくるはずだ。(五木寛之著「百寺巡礼」から)。

参道の両脇には、江戸時代に伊達藩によって植樹された樹齢300年を数える多くの老杉が木陰を作り参拝客を迎える。

 

 

地蔵堂  明治10年(1877)の再建のお堂で、本尊は地蔵菩薩。

 

 

中尊寺の境内は入り口から一番奥の金色堂まで、一本道の参道で両側に堂宇が建てられている。参道の中間に店やお休み所がありその右手に本堂が建つ。

 

 

本坊表門【岩手県指定文化財】 本堂の正面に建つ表門となる薬医門式。伊達兵部宗勝の屋敷門を移築したものと伝えられていまるが、移築のいきさつは定かではない。

 

 

 

表門は木の丸太をそのまま使った構造で粗々しいが素朴な感じのがする。

 

 

細部。

 

本堂 中尊寺というのはこの山全体の総称をいい、本寺である「中尊寺」と山内17ヶ院の支院(大寺の中にある小院)で構成される一山寺院となっている。本堂は一山の中心となる建物で、明治42年(1909)に再建された。古くから伝わる法要儀式の多くはこの本堂で勤められる。 

 

 

手水石。

 

 

本堂の前に形のいい松の木。

 

 

 

本堂の向拝の軒先と彫刻を施した向拝紅梁。

 

 

向拝の様子。

 

 

向拝から境内を見る。

 

本堂の外陣 中尊寺は天台宗の天本山であり、本尊の両脇にある灯籠には、宗祖伝教大師最澄以来灯り続ける「不滅の法灯」が護持されている。

 

 

本堂の広縁。

 

 

中尊寺の扁額。

 

 

本堂の外陣を見る。

 

本尊は丈六の釈迦如来。像高約2.7m、台座・光背を含めた総高は5mに及ぶ尊像。中尊寺の大壇主藤原清衡公が「丈六皆金色釈迦」像を鎮護国家大伽藍の本尊として安置したことにならい平成25年(2013)に造顕・開眼供養された。

 

 

内部の欄間は天女象の彫刻欄間。

 

 

鐘楼。

 

 

本堂の前。

 

 

不動堂への入り口。

 

不動堂 昭和52年(1977)建立の祈祷堂。御本尊の不動明王は天和4年(1684)に、仙台藩主伊達綱村公により天下泰平を祈願し新調された。不動明王は、邪を破り、我々の過ちを正してくれる仏様で、少々厳しいお顔をされている。

 

 

峯薬師堂 境内の別峯に建っていたが、度重なる野火にあい、元禄2年(1689)に現在地に移された。

 

 

境内の小道。

 

 

 享和2年(1802)の再建で、本尊は金剛界大日如来。

 

旧鐘楼  康永二年(1343)に、金色堂別当頼栄の発願により鋳造された盤渉調の梵鐘。銘文には建武四年(1337)、山内の堂塔が火災により焼失した旨を刻し、奥州藤原氏以後の歴史を伝える貴重な資料となっている。鐘の径は86㎝。

 

讃衡蔵 奥州藤原氏の残した文化財3000点あまりを収蔵する宝物館。平安期の諸仏、国宝中尊寺経、奥州藤原氏の御遺体の副葬品などが納められている。平安時代奥州藤原氏によって造営された、往時の大伽藍中尊寺の様子を見ることができる。

 

 

金色堂への参道。

 

 

 

 

 

 

 

 

中尊寺と言えばこのアングルで金色堂。

 

新覆堂 この建物が金色堂ではなく、金色堂を覆う建物で鉄筋コンクリート造で、昭和40年(1965)に竣工した。

 

 

 

 

 

金色堂を見るため、この入り口を潜る。内部は撮影禁止。 

 

 

 

新覆堂の平面図  新覆堂を設計した「大岡實建築研究所」のHPより引用。

 

 

 

金色堂【国宝】 中尊寺創建当初の姿を今に伝える唯一の建物で、天治元年(1124)に上棟した。堂の内外に金箔を押した「皆金色」の阿弥陀堂。また国宝建造物第1号に指定された。

 

堂内の装飾は、4本の巻柱や須弥壇(仏壇)、長押にいたるまで、白く光る夜光貝の螺鈿細工、透かし彫り金具・漆蒔絵と、平安時代後期の工芸技術を結集して荘厳されており、堂全体があたかも一つの美術工芸品の感がする。

 

須弥壇の上にご本尊阿弥陀如来、向かって右に観音菩薩、左に勢至菩薩、左右に3体ずつ地蔵菩薩が並び、最前列には持国天と増長天が破邪の形相でこの仏界を守護している。この仏像構成は金色堂独特のもので他に例を見ない貴重なもの。

 

孔雀がデザインされた中央の須弥壇の中には、奥州藤原氏の初代清衡、向かって左の壇に二代基衡、右の壇に三代秀衡の御遺体と四代泰衡の首級が安置されている。血筋の明らかな、親子四代の御遺体の存在は世界にもほかに例がないといわれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

金色堂側から参道を見る。

 

 

 

 

 

経蔵【国重要文化財】 当初は2階建てだったが、建武4年(1337)の火災で上層部を焼失し、おそらくは古材をもって再建されたもの路考えられる。

 

 

皇族から賜った御製。 みちのくの昔の力しのびつつまがゆきまでの金色堂に侘つ。

 

 

芭蕉の句碑。 五月雨の降り残してや光堂。

 

 

芭蕉像。

 

 

旧覆堂【国重要文化財】  金色堂を風雪から護るために、正応元年(1288)鎌倉幕府によって建てられたと伝えられる。5間4方の堂は、「鞘堂」とも言われた。金色堂解体修理(昭和の大修理)の際、現在地に移築されました。 

 

近年の調査では、金色堂建立50年後ほどで簡素な覆屋根がかけられ、何度かの増改築を経て、現在の建物は室町時代に建てられたと考えられている。

 

 

釈迦堂  享保4年(1719)の再建で本尊は釈迦三尊。

 

 

弁財天堂  本尊の弁財天十五童子は、仙台藩主伊達綱村公の正室仙姫永宝2年(1705)に寄進されたもので、堂は正徳6年(1716)に建立された。堂内には千手観音菩薩二十八部衆も安置されている。

 

 

扁額

 

 

白山神社の入り口。

 

 

白山神社 中尊寺の北方を鎮守するため、嘉祥3年(850)に中尊寺を開いた慈覚大師円仁がこの地に勧請したと伝えられている。

 

能楽殿【国重要文化財】 嘉永六年(1853)、伊達藩によって再建されたもの。正統かつ本格的な規模と形式の能舞台。現在も毎年5月4日・5日に古実式三番と神事能が中尊寺一山の僧侶によって勤められいる。

 

 

舞台の鏡板には老松が描かれている。

 

 

内側の桁には彫刻が施された。

 

 

舞台の袖には竹が描かれている。

 

 

境内のみやげ屋にて。

 

 

境内ではないがすぐ近くにお休み何処。

 

 

案内図

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」からーーーはじめて金色堂をみたときの印象は、意外に小さいお堂だな、というものだった。実際に金色堂は間口も奥行きも5メートル余りしかない。こわれやすい貴重品のようにガラスケースのなかに納められた金色堂は、さらに覆堂というコンクリートの建物にすっぽり覆われている。覆堂をくぐって金色堂の前に立った参拝客は、このガラスケースのなかに入ることはできない。そんなこともあって、写真で見て想像していたときよりも、ずっと小さい感じがしたのだった。二度目に参拝したときは、とくに小さいとも大きいとも感じなかった。三度目の今回は、どういうわけか金色堂がとても大きく感じられる。回を重ねてくるごとに、この小ぶりなお堂がどんどん広がって感じられてくる、というのはふしぎだった。もしかすると、五回、十回と見つづければ、この小さなお堂に、ものすごく広い宇宙空間が感じられるようになるのではないだろうか。

 

 

御朱印

 

 

(参考資料)中尊寺HP 五木寛之著「百寺巡礼」講談社 大岡實建築研究所HP  Wikipedia 

 

中尊寺 終了


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