『五木寛之の百寺巡礼』を往く

五木寛之著「百寺巡礼」に載っている寺100山と、全国に知られた古寺を訪ね写真に纏めたブログ。

50 東福寺 

2023-10-27 | 京都府

百寺巡礼第89番 東福寺

紅葉の橋を渡る人びとと大伽藍

 

京都の紅葉名所で、その時期には人が一番集まる寺だという。本当は桜や紅葉の最盛期に京都の寺を巡ってみたいが、混雑が嫌いなこと、また人が多いと思うように見たいところも見れない。という理由で京都や奈良はオフシーズンに伺うことにしている。今回も真冬の2月中旬、雪がちらつき屋根にうっすらと雪を載せた堂も見られた。

東福寺という名前は、摂政九條道家が奈良の東大寺と興福寺という二つの大きな寺にあやかって、その名前からそれぞれ「東」と「福」の二文字を取って、東福寺と名付けられたという。嘉禎2年 (1236)より建長7年(1255)まで実に19年を費やして完成した、京都最大の大伽藍である。

工事半ばの寛元元年(1243)には聖一国師を開山に仰ぎ、まず天台・真言・禅の各宗兼学の堂塔を完備したが、元応元年(1319)などに三度の相次ぐ火災のために大部分を焼失。その後、関白一条経道により20余年を経て、再建され再び偉観を誇ることになった。再建後の東福寺は、完全な禅宗寺院としての寺観を整えることとなった。

明治14年(1881)に、仏殿・法堂、方丈、庫裡を焼失。その後、大正6年(1917)より本堂の再建に着工、昭和9年(1934)に落成。明治23年(1890)に方丈、同43年(1910)に庫裡も再建され、鎌倉・室町時代からの重要な古建築に肩を並べて、現代木造建築物の精粋を遺憾なく発揮している。開山国師の頂相、画聖兆殿司(ちょうでんす、明兆)筆の禅画など、鎌倉・室町期の国宝・重要文化財は数多く残されている。

 

参拝日    令和5年(2023) 2月15日(水) 天候曇り時々小雪

 

所在地    京都府京都市東山区本町15丁目778                      山 号    慧日山(えにちさん)                            宗 派    臨済宗東福寺派                               寺 格    大本山  京都五山第四位                          本 尊    釈迦如来                                  創建年    嘉禎2年(1236)                              開 山    円爾                                    開 基    九条道家                                  正式名    慧日山 東福禅寺                               文化財    三門、宋版太平御覧、絹本著色無準師範像ほか(国宝)               

       常楽庵、禅堂、偃月橋、絹本著地蔵菩薩坐像ほか(国重要文化財)庭園(国の名称)

 

JR奈良線東福寺駅から市街地を歩いて10分程度で東福寺に着く。

 

 

市街地の通路から折れ曲がり最初の門の中門。

 

 

境内地図。    (東福寺HPより)

 

 

 

中門を潜ると両側の東福寺の塔頭の門前を進み日下門に辿り着く。ここから東福寺の境内。

 

 

日下門の右側の通り。

 

 

日下門を潜り境内に。 正面右手前方に本堂。

 

 

 

拝観手続きをし、その目の前に通天橋の入り口があり吸い込まれるように通天橋に向かう。

 

 

 

 

 

 

通天橋  境内には三ノ橋川という小川が流れ、洗玉澗(せんぎょくかん)と名が付く渓谷になっている。その渓谷を渡るため、本堂から開山堂を結ぶ橋廊が設けられた。

 

 

洗玉澗の真上に「通天台」として見晴らし台が設けられている。東福寺の景観を見るベストポジションで、むかしから「通天のもみじ」としておなじみの舞台である。

 

 

 

 

 

約2千本の楓の林が眼下に広がり、秋の紅葉シーズンには京都屈指の眺望を誇る。

 

 

 

 

 

 

開山堂側に辿り着く。

 

 

開山堂の入り口から本堂や三門側を見る。

 

 

入り口となる楼門。

 

 

楼門から上ってきた橋廊を振り返る。

 

楼門から見る常楽庵。一般的に開山堂というようだが、この楼門に囲まれた一角は常楽庵といい、開山堂と昭堂(建物が一緒)と書院といわれる塔司寮、鐘楼、庫裡、そして客殿となる普門院からなり、それぞれの建物はつながっている。また裏門と楼門の二つの入り口がある。

 

正面に開山堂と昭堂と左側に普門院が見られる。前庭は、東側に築山風の池泉鑑賞式庭園で、池の中には亀島や枯滝が配置されている。西側は枯山水庭園で、波紋で市松模様がつけられた砂地に鶴島と亀島代わりの石組みが配されている。枯山水庭園と池泉鑑賞式庭園が対峙しながらも見事に調和する、ふたつでひとつの庭園。

 

 

 

 

 

開山堂【国重要文化財】   通天橋を渡った境内の北、最も高い場所に建ち、文政2年(1819)に焼失した後、文政6年(1823)に一条家第20代当主で公卿の一条忠良によって再建された。2階建の楼閣で、開山である円爾弁円(聖一国師)の尊像が安置されている。

 

 

開山堂の楼閣は伝衣閣(でんねかく)と呼ばれ、金閣寺、銀閣、西本願寺の飛雲閣、そして大徳寺の呑湖閣とあわせて「京の五閣」と称されている。

 

 

扁額は「常楽庵」。

 

 

 

開山堂の内部。

 

 

客殿(普門院)。    東面し、桁行20m、梁間17.4mで入母屋造、桟瓦葺き。西面に典座がとりつき、北面2か所と南面1か所からは廊下が延びて塔司寮と楼門に接続する。参拝時に、その廊下の床の平瓦の改修工事中。庭園は白砂の波形で枯山水。

 

 

 

 

 

常楽庵を後に、洗玉澗(せんぎょくかん)と名が付く渓谷のほうに降ることとした。楓の林は地表が苔で覆われ冬でも美しい。

 

愛染堂【国重要文化財】 渓谷に降る途中に丹塗りの杮葺き八角円堂。南北朝時代の建築。昭和12年(1937)万寿寺より移された。愛染明王をまつる。

 

 

月下門のところ。

 

 


臥雲橋を境内側の渓谷を流れる三ノ橋川から見る。この橋は境内の外の一般道に掛かる橋。

 

 

こちらが洗玉澗(せんぎょくかん)。

 

渓谷から見上げた通天橋と通天台。 下から見上げると、天にも通じるように高くそびえて見えることからいる通天橋と名が付けられたという。昭和34年(1959)の台風により崩壊したが2年後に再建、その際橋脚部分は鉄筋コンクリート造となった。

 

 

横から通天台を見る。

 

 

境内は広く、苔に覆われた楓の林が続く。

 

 

2月中旬の平日。天気は曇り小雪ちらつくなかの前撮り風景。 「おめでとうございます」

 

 

恩賜門    明治14年(1881)に方丈、庫裏、法堂、仏殿を焼失。翌年、英照皇太后、昭憲皇后から、再興のための賜金があり、そこから恩賜門と呼ぶようになった。大方丈への入り口だが、通常は締め切り。

 

 

アーチ型の唐破風の下は兎毛通懸魚(うのけどおしげぎょ)に大瓶束、蟇股と、力強いのに優美な装飾が施されている。

 

 

扉の中心に菊の御紋。ほかに唐草や藤の花に花菱の意匠。

 

 

 

 

庫裡。 切妻造の桟瓦葺。 寺務の建物で、方丈庭園への入口はこちらになる。

 

本坊庭園。   方丈とは、禅宗寺院における僧侶の住居のことをいう。後には応接間の役割が強くなった。広大な方丈には東西南北に四庭が配されている。当初は“東福寺方丈「八相の庭」”という名称が、平成26年(2014)に“国指定名勝”に登録され、改めて「国指定名勝 東福寺本坊庭園」となった。禅宗の方丈には、古くから多くの名園が残されてきたが、方丈の四周に庭園を巡らせたものは、こちらの寺のみである。作庭家・重森三玲(1896-1975)によって昭和14年(1939)に完成。当時の創建年代にふさわしい鎌倉時代庭園の質実剛健な風格を基調に、現代芸術の抽象的構成を取り入れた近代禅宗庭園の名作として知られる。

大方丈の堂宇を縁が回る、東西南北それぞれに庭園が配されている。

 

 

東庭。   徹底的に省略した「静」の世界を表すかのような構成で、星座の「北斗七星」を、円柱、白川砂、苔、背後の二重生垣のみによって表現している。北斗七星を表す円柱は、山内にある「東司」で使用されていた礎石で、東司の解体修理をした際に、余材として出てきたものである。

 

 

 

 

 

 

 

東庭を過ぎて北庭へ。

 

 

北庭。     勅使門から方丈に向けて敷きつめられていた切石を再利用し、小市松模様の庭園となっている。まさに西庭の大市松を受けてさらに小さな姿となり、そして東北方向の谷に消えていくという表現方法だという。

 

最初の部分は、西庭の市松を受け継いでいるために、ほぼ正確な市松で配置されているが、程なくしてそれが崩れていき、そして最後はポツン、ポツンと一石ずつ配しながら消えていくという配置構成になっている。この最後に一つずつになるような所は現在のような苔ではなく、白川砂内におかれていたことが、やはり作庭直後の写真を見ると判る。しかもこの白川砂と苔との仕切の線が、三玲が得意とした州浜状の曲線が用いられており、この辺りのコントラストも考えたうえでの設計であったことがわかる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

廊下伝いに北の庭を出ると、ここにも展望台となる舞台が設けられている。本坊から直接、楓林の眺望をしたいとの考えだろう。

 

 

舞台からは通店橋が見渡せる。

 

西庭。庭の大市松模様「井田の庭」は、日本古来から伝えられてきた伝統的な市松模様を、サツキの刈込と葛石の使用によって表現した。この意匠も、この本坊内に使われていた材料で、敷石の縁石(カズラ石)を再使用してできあがった意匠である。

 

 

市松は日本の伝統的な紋様であり、桂離宮内の松琴亭の襖や床に使用され、また修学院離宮などの茶席の腰張りに使用されたりなど、雅な文化の中において使用されていたことがわかる。

 

 

 

地割も斜線上に市松を組み、北側の小市松模様に連続して繋がっていくことを意図して設計されていることがわかる。それをサツキの刈込と白川砂との、はっきりとした色のコントラストを持って表現している。

 

 

西庭と南庭の絵廻り縁の角に門があるが、詳しく分からない。

 

 

方丈。 明治23年(1890)に再建された。

 

 

正面に扁額「方丈」。

 

 

大方丈の内部。 

 

 

南庭  方丈の南側に位置し、日本庭園における定型的な表現方法である、蓬莱神仙思想を中心とした意匠形態となっている。蓬莱、瀛洲、壺梁、方丈の四神仙島を石だけの構成による四つの意匠で表現した。

 

 

 

 

その中の三神仙島(蓬莱、瀛洲、壺梁)には、6mほどの長い石を、立石とのバランスをとりながら横に寝かせて表現。このような石の扱い方は、古庭園における意匠では、ほとんど例がない。この長石を使用することによって、極度なまでの立石を、この大きな横石によってバランスを保つようにしたところが、従来までの石組手法とは異なる新たな提案であった。

 

 

 

 

 

御賜門。   門からの通路はなく白砂の波紋の石庭のため開かずの門なのだろう。

 

築山は、従来は自然の山の表現であった苔山を、京都五山として表現した。しかもここでは一切石を使用せず、山の大きさや高さによって、造形的な美を追求した。また一番奥の築山と、その左側は、できるだけ土塀寄りまでたかさを保ちたかったので、最土塀寄りの部分は、建物からの観賞からは見えないように土留めの石積が成されている。

 

 

境内の中央付近。本堂は一部改修工事中で足場が掛かる。

 

 

本堂(仏殿兼法堂)      明治14年(1881)に仏殿と法堂が焼けた後、大正6年(1917)から再建工事にかかり、昭和9年(1934)に完成した。

 

 

入母屋造、裳階付き。高さ25.5m、間口41.4mの大規模な堂。昭和期の木造建築としては最大級のもの。

 

 

 

 

 

 

 

蒼龍図。 京都在住の日本画家、堂本印象により本堂の天井に描かれた。東西約22m、南北約11mの鏡天井に描かれている。鋭くとがった角と細かく描かれたウロコが特徴。(通常は未公開であるが、特別公開があり/写真はネットから引用) 

 

 

本堂内。本尊釈迦三尊像は鎌倉時代の作で、明治14年の火災後に塔頭の万寿寺から移されたもの。

 

三門【国宝】       現存する禅寺の三門としては日本最古。三門は至徳元年(1384)から再建が始まったが、完成したのは応永32年(1435)のことである。五間三戸二階二重門、入母屋造、本瓦葺。「五間三戸」とは正面の柱間が5つ、うち中央3間が通路になっているという意味。

 

 

 

こちらが表面。「二重門」は2階建ての門だが、「楼門」と違い、1階と2階の境目にも軒の出を作るものをいう。上層に釈迦如来と十六羅漢を安置する。

 

 

 

 

 

扁額は「妙雲閣」。

 

 

境内に華やかに咲き誇る白梅と紅梅。

 

 

 

 

禅堂【国重要文化財】  僧堂、選仏場とも呼ばれる坐禅道場で、貞和3年(1347)の再建。 桁行七間、梁間四間、単層、裳階付切妻造の建物。中世期より現存する最大最古の禅堂。扁額の「選佛場」は宋国径山万寿寺の無準師範の筆。明治14年(1881)に本堂が焼失した後は、この堂を本堂にしていた。

 

 

経堂   寛政6年(1794)に再建された。

 

 

日下門を出て右折し臥雲橋に進む。

 

 

臥雲橋。 東福寺に掛かる三橋の一つ。こちらは境内の外で一般の道路に掛かる橋である。

 

 

 

 

 

ここから眺める楓紅葉は素晴らしい風景で、京都紅葉の代表の一つ。

 

 

残念ながら枯木も山だが、新緑のころ、紅葉のころ・・・素晴らしいのだろう。

 

 

案内図

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーーーやはり、寺というものは、人がたくさん集まる場所であってほしい。たとえ、その人たちが縁なき衆生であってもかまわない。という気がするのである。第五巻で訪ねた東京の浅草寺は、まさに繁華街にあって、大勢のひとがやってくる寺だった。お寺のかたに、参拝者の人数はどれくらいかとお聞きしたとき、「通り抜ける通行人の数もいれると二千万人になります」と笑いながらおっしゃったのを思い出す。文字どおり通り抜けるだけであれ、どんなかたちであっても、寺との縁が生まれてくるというのはいいことだと思う。人の目を楽しませるつかの間の紅葉を目当てにして、来る人もいるだろう。また、長い歴史をもつ禅寺の静かな境地にあこがれて、訪ねてくる人もいるだろう。本尊の阿弥陀如来に篤い信頼を抱いて、参拝しに来る人もいるだろう。世の中にいろいろな人がいるように、寺を訪れる人もいろいろあっていいのだ。

 

 

御朱印

 

東福寺 終了

 

(参考文献)  
五木寛之著「百寺巡礼」第九巻京都Ⅱ(講談社刊) 東福寺HP  フリー百科事典Wikipedia  
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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