古寺を巡る 高山寺
自然豊かな世界遺産の寺。鳥獣戯画で知られる文化財の宝庫。
高山寺のある栂尾は、紅葉の名所として知られる高雄山神護寺からさらに奥に入った山中にある。京都駅前からバスに乗り約1時間である。高山寺は8時30分開門なので7時40分のバスが丁度良いの高山寺に丁度良い。バスの中は市街地を抜けると、吾輩ともう1人しか乗客はいない。 もう一人の乗客は手前の神護寺のバス停で降りたので、終点まで乗っていたのが吾輩只一人。バスを降りるとすぐに参道の入り口。さすが冬の終わりのこの時間、誰も参拝者はいない。
古代より山岳修行の適地として小寺院が営まれていたようだ。今の高山寺の地には、奈良時代から「度賀尾寺」「都賀尾坊」などと称される寺院があり、宝亀5年(774)に光仁天皇勅願で建立されたとの伝えもあるが、当時の実態は明らかでない。平安時代には近隣の神護寺の別院とされ、神護寺十無尽院と称されていた。これは、神護寺本寺から離れた隠棲修行の場所であったらしい。
高山寺の中興の祖であり、実質的な開基とされるのは、鎌倉時代の華厳宗の相、明恵である。幼時に両親を亡くした明恵は9歳で生家を離れ、母方の叔父に当たる神護寺の僧・上覚もとで仏門に入った。
明恵は建永元年(1206)、34歳の時に後鳥羽上皇から栂尾の地を与えられ、また寺名のもとになった「日出先照高山之寺」の勅額を下賜された。この時が現・高山寺の創立と見なされている。「日出先照高山」(日、出でて、まず高き山を照らす)とは、「華厳経」の中の句で、「朝日が昇って、真っ先に照らされるのは高い山の頂上だ」という意味であり、そのように光り輝く寺院であれとの意が込められている。
また明恵は、鎌倉時代初期に臨済宗の開祖栄西から茶の種を貰い、当寺の境内に植えたという伝承がある。この地で栽培された茶は、栄西が南宗に留学した際にそこで種子を得て、帰国後に明恵の求めに応じて贈ったものと伝える。明恵はこれを初めは栂尾山の深瀬に植え、明恵が没した後も栂尾において栽培が続けられた。また宇治の民の願いによって明恵が宇治に種を撒き、宇治その他の土地に広まったとも伝える。
なお、この栂尾産の茶は鎌倉時代後期にはその味わいの良さが評判となり、東国の武士たちまで争って求めるほどの高評価を得た。「我が朝の茶の窟宅は、栂尾をもて本となすなり」として栂尾産の茶を「本茶」と呼び、その他の地で産出したものを「非茶」と呼んだ。高山寺は中世以降、たびたびの戦乱や火災で焼失し、鎌倉時代の建物は石水院を残すのみとなっている。
参拝日 令和6年(2024) 3月2日(土) 天候曇り
所在地 京都府京都市右京区梅ケ畑栂尾町8 山 号 栂尾山 宗 派 真言宗系単位 本 尊 釈迦如来 創建年 伝・宝亀5年(774) 開 基 伝・光仁天皇(勅願) 中興年 建永元年(1206) 中 興 明恵 文化財 石水院(国宝) ほか
高山寺境内図
栂尾バス停のすぐそば高山寺の入り口。
バス停から近いので裏参道から。
苔に覆われた石垣と木々の中に石の階段の小道をつづら折に登っていく。
階段を上り切ると石水院を覆う低い白壁が続く。
山門。
石水院の山門。 現在は締め切りで一般の参拝者は客殿より入る。
客殿入口。 一般の参拝者の入る入り口。
客殿の玄関。
客殿から国宝・石水院にすすむ渡り廊下。
石水院【国宝】 五所堂とも呼ばれる。鎌倉時代の建築。入母屋造、杮葺き。後鳥羽上皇の学問所を下賜されたものと伝え、明恵の住房跡とも伝える。外観は住宅風だが本来は経蔵として造られたものである。もとは東経蔵として金堂の東にあった。安貞2年(1228)に洪水で石水院が無くなってしまったため、その後に東経蔵が新たな石水院として整備され、春日明神・住吉明神を祀ることとなった。明治22年(1889)に現在地に移築された。
廂の間(ひさしのま)。石水院の西正面に1間の通り庇と呼ぶ屋根付きの広縁のような板敷の部屋で正面に幅1間の向拝。
中心に小さな善財童子像が安置され幻想的な空間が見られる。 床板は屋久杉が使われている。
正面の欄間にある扁額「石水院」は、富岡鉄斎の筆。
善財童子像。 明恵上人は、華厳経にその求法の旅が語られる善財童子を敬愛し、住房には善財五十五善知識の絵を掛け、善財童子の木像を置いていたと言われている。 現在の像は、近代の作で大正4年(1915)生まれで昭和に活躍した西村虚空の作。
蔀と菱格子を組み合わせた外壁部は透けており、林の木々が身近に感じられ自然との融和が図られている。深い庇によって陽の光を遮る、さらに神秘感を感じる。
全体的には簡素な造りを、菱格子や蟇股などを使用し品格のある造りになっている。 蟇股は鎌倉時代の作であるが、明治時代に造り替えたようだ。
庇の間から見る庭園。
向拝の前の庭園。
庇の天井は折上小組格子で貴賓性を高めている。柱は朽ちているが大きな面取りとなっていて組部の舟肘木を使用し、できる限り建てられた当時の材を残しながら、改築をしていることがわかる
高い崖の縁に建てられていることがわかる。深い庇を出し広い外縁が特徴で、眼前からは谷越しに遠く山並を望むことができる。
南面の欄間にある勅額「日出先照高山之寺(ひいでてまずてらすこうざんのてら)」は伝後鳥羽上皇の筆。
広縁から仏間、8畳の間を見る。隅木や垂木、柱には大きな面。小舞のピッチも大きく、全体的にのびやかに感じる。隅木を受ける束が柱からずれているのは移築によって生じたものと思われる。
仏間。 石水院の西側の部屋は、5畳より少し広い部屋。
天井は格子をはめ込んだ格天井で、そんなに古さは感じない。度々の改修で新たに造られた天井と思う。
8畳間。 床の間を設け、明恵上人樹上座像図が掲げられている。
明恵上人樹上座像【国宝】 床の間の掛け軸は鎌倉時代の作。紙本著色 縦145㎝×横59㎝。明明恵は貞応元年(1222)に栂尾へ還住し、最晩年を過ごす。高山寺の後山、楞伽山において上人は坐禅を行い、二股に分かれた一株の松を縄床樹と名付け、常々そこで坐禅入観したという。この絵は縄床樹に座る明恵を描いたものである。床の間に飾られている軸はレプリカ。 (写真は高山寺HPより)
天井は船底で、天井板はもと屋根に葺かれていた厚い板で、桧皮の下に葺き込まれて残っていたものを裏返して天井板に用いたものである。その面が甚だしく風化して減っており、長く使われて来たことを物語り、各板の中央が雨水の流れで深く減っていることや、両端部にはもと板の合わせ目に長い目板を打った釘穴が残っていることなどもみらる。天井に用いるために美しく磨かれたことも想像できる。
8畳側から仏間、廂の間を方向を見る。
5畳の間。 8畳の間の穂が市側に位置し、現在は鳥獣人物戯画(国宝)が展示されている。
鳥獣人物戯画【国宝】。 こちらのガラスケースの中はレプリカであり、原本4巻は、1、3巻が東京国立博物館、2、4巻が京都国立博物館で保管し、それぞれ特別展の際に公開している。
石水院の南面は清滝川を越えて向山をのぞみ、視界が一気に開ける。冬になると純白の雪と赤いじゅうたんが調和し、色鮮やかな景色になるという。
濡れ縁。 よく見ると縁板は節だらけだ。
廊下側の天井の様子。
柱は、虫に食われかなり朽ちていると思う。
石水院の前方の景色。前の樹木は紅葉で、秋の季節になれば彩艶やかになるのだろう。 冬の終わり、彩は無い。
門を出て近藤に向かう。
茶道の石柱。 高山寺は日本ではじめて茶が作られた場所として知られる。栄西禅師が宋から持ち帰った茶の実を明恵につたえ、山内で植え育てたところ、修行の妨げとなる眠りを覚ます効果があるので衆僧にすすめたという。最古の茶園は清滝川の対岸、深瀬三本木にあった。中世以来、栂尾の茶を本茶、それ以外を非茶と呼ぶ。「日本最古之茶園」碑が立つ現在の茶園は、もと高山寺の中心的僧房十無尽院があった場所と考えられている。
金堂と、もとの石水院が建てられていた場所へ至る石段は、今も残されている。
開山堂。 江戸時代中期の享保8年(1723)に禅堂院跡に再建された。開山堂は鎌倉時代に高山寺中興の祖・明恵が晩年を過ごし、終焉の地とも言われる禅堂院が建立されていた場所。明恵上人坐像(重要文化財)を安置。
杉林の中に石の階段がある。昇り切れば金堂だ。
金堂。 仁和寺の堂宇の一部を移築したと伝えられている。 彩色などは全く施されていない入母屋造の建物。金物や塗色で飾った仁和寺とは異なり、凝った木彫や装飾はほとんどないが、舟肘木や蔀戸に仁和寺的な門跡寺院らしい気品がある。内部には、木造の「釈迦如来坐像」が鎮座している。
裏参道と表参道の間は渓谷だった。
案内図。
御朱印
高山寺 終了
(参考文献) 高山寺HP フリー百科事典Wikipedia ほか
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