第八十八番 高台寺
戦国女性の思い出を包む堂宇
清水寺の参拝を終えて、清水坂のみやげ屋から産寧坂、二寧坂の路は観光客でごった返し、縫うように高台寺に向かう。高台寺は、参拝客も観光客も少なく清水寺やその通路などの賑わいとは異なり別世界のよう。大きな山門はなく、なんとなく佇まいがひっそりしていて、女性的な繊細さを感じ寺である。
参拝日 平成30年(2018)2月28日(水) 天候曇り
所在地 京都府京都市東山区下河原通八坂鳥居前下る下河原町526 山 号 鷲峰山 宗 派 臨済宗建仁寺派 本 尊 釈迦如来 創建年 慶長11年(1606) 開 山 弓箴善彊 開 基 高台院 正式名 鷲峰山 高台寿聖禅寺 別称 蒔絵の寺 札所等 洛陽天満宮二十五社順拝第18番 文化財 霊屋、傘亭、時雨亭(国指定重要文化財) 庭園(国指定名勝)
高台寺の概略史 豊臣秀吉の没後、正室の北政所は慶長8年(1603)に後陽成天皇から「高台院」の号を勅賜されると、秀吉の菩提を弔おうと寺院の建立を発願し徳川家康もその建立を支援した。家康と高台院は、現在の高台寺にあった塔頭を南禅寺の塔頭として移転させ、慶長10年(1605)に高台院は実母である朝日局が眠る康徳寺(現・上京区上御霊馬場町にあった)をこの地に移転させて新たな寺院・高台寺を建立し、その境内を整えた。また、高台院は高台寺の西側に自らの屋敷と甥の屋敷を造営することとし、同年に伏見城にあった北政所化粧御殿とその前庭を移築して自らの邸宅・高台院屋敷とした。秀吉没後に権力者となった徳川家康は高台院を手厚く扱い、普請奉行に京都所司代の板倉勝重を任命し、高台寺の普請にあたらせている。
近世末期から近代に至る数度の火災で仏殿や方丈などを焼失し、創建時の建造物で現存しているのは、三江紹益を祀る開山堂、秀吉と高台院を祀る霊屋、茶室の傘亭と時雨亭だけである。
産寧坂の賑わい
二寧坂を通り
高台寺に向かう途中に八坂の塔。
高台寺境内図
高台寺山門【国指定重要文化財】 八坂の塔の北側に位置し、境内からは少し離れている。桃山時代に建立された三間の薬医門。慶長年間(1596年 - 1615年)に加藤清正により伏見城に建てられ、後に現在地に移築された。
正面は庫裡
庫裡の前の天満堂。
庫裡の横に拝観受付から院内に進む。
拝観入り口。
右の白い建物は辻蔵。
祇園閣 境内をすすむと西北側に見える塔は、昭和3年(1928)に建築された3階建ての建物。大倉財閥の設立者である大倉喜八郎が別邸とし建てた「真葛荘」の一部。祇園閣のデザインは祇園祭の鉾を模したもので、建築家・伊東忠太の設計による昭和初期の名建築。屋根は銅板葺きであるが、これは大倉喜八郎が金閣、銀閣に次ぐ銅閣として作ったためなのだとか。
辻蔵の左隣りは茶室の胡月庵
胡月庵の路地 胡月庵には鬼瓦席という名の知れた 四畳半の茶室がある。豪商灰屋紹益の旧邸跡から明治41年(1908)に移築したもので、紹益と紹益夫人になった吉野太夫を偲んで後世の人が建てたものと推定される。
遺芳庵 方丈の背後にある田舎屋風の茶室で、豪商で趣味人のであった灰屋紹益が夫人の吉野太夫を偲んで建てたものという。一畳台目の小規模な茶席で、吉野窓と称する壁一杯に開けられた丸窓が特徴。京都市上京区にあった紹益の旧邸跡から明治41年(1908)に移築したもの。
観月台【国指定重要文化財】 茶室を過ぎて名勝の庭園に入り、左手に偃月池(えんげつち)に浮かぶ楼舟廊と呼ばれる渡り廊下で結ぶ観月台と開山堂が見える。
楼舟廊は観月台とともに、慶長年間(1596~1615)に高台院の命により伏見城から移されたもの。
書院の中に入る。書院では襖絵を漫画家のバロン吉元氏が描いていた。
建物の内部は書院から方丈にかけて拝見ができる。方丈から前庭を見る。正面は勅使門。
勅使門
方丈廻り廊から前庭を見る。白砂を敷き詰めた庭の借景に東山連峰。
方丈の扁額
方丈廻り廊から内陣を見る。
方丈内部の襖。
方丈前庭は一面が白砂の枯山水。
廻り廊下から開山堂を見る。
開山堂および霊屋と傘亭、時雨亭への潜り門。
開山堂と霊屋
臥龍廊 開山堂から霊屋へつなぐ渡り廊下で臥龍池にかかり、龍の背に似ていることから名が付いた。
開山堂の前に建つ中門。
開山堂【国指定重要文化財】 慶長10年(1605)に高台院により建立。寛永2年(1625)に増築。庭園内に建つ入母屋造本瓦葺きの禅宗様の仏堂。このお堂の材には秀吉の御座舟だったものを使用しているという。
元来、高台院の持仏堂だったもの。堂内は中央奥に三江紹益像、向かって右に高台院の兄・木下家定その妻・雲照院の像、左に高台寺の普請に尽力した堀直政の像を安置している。天井には狩野山楽による「龍図」がある。
臥龍廊の内部
霊屋【国指定重要文化財】 慶長10年(1605)に高開山堂の東方、一段高くなった敷地に建つ宝形造檜皮葺きの堂。台院により建立。秀吉と高台院を祀っている。秀吉の墓がある阿弥陀ヶ峰の豊国廟に向けて建てられている。寺に所蔵される高台院所用と伝える調度品類にも同じ様式の蒔絵が施され、これらを高台寺蒔絵と称している。
内部(写真はネットから)
内部は中央の厨子に大随求菩薩像を安置し、向かって右の厨子には豊臣秀吉の坐像、左の厨子には正室・高台院の片膝立の木像がそれぞれ安置されている。狩野永徳よる絵のほか、厨子の扉には秋草、松竹など、須弥壇には楽器などの蒔絵が施されている。(写真はネットから)
霊屋の外観は、朱と黒漆に塗装され色鮮やかな装飾が施されている。
時雨亭【国指定重要文化財】 茶室である、慶長年間(1596 - 1615)に高台院により伏見城から移築されたものとされ、千利休好みと伝えられる。伏見城の「御学問所」に擬する説もある。珍しい2階建ての茶室で、2階南側の上段の間は柱間に壁や建具を設けない吹き放しとする。高台院は慶長20年(1615)の大坂夏の陣の際、2階から燃え落ちる大阪城の天守を見つめていたという。
傘亭の南隣にあり、傘亭とは土間廊下で繋がれている。
土間廊下【国指定重要文化財】 茶室「傘亭」と茶室「時雨亭」を繋ぐ屋根付きの廊下。時雨と傘で対になっている。土間廊下は慶長年間(1596年 - 1615年)に高台院により両茶室が現在地に移築された時付加されたもので、両茶室はもともと別々に建てられていたと考えられる。
傘亭【国指定重要文化財】 茶室であり時雨亭とつながっている。 正式には安閑窟という。慶長年間(1596年 - 1615年)に高台院により伏見城から移築されたものとされる。
千利休好みの茶室と伝えられる。境内東奥の小高い場所に位置し、宝形造茅葺きの素朴な建物である。
内部の天井が竹で組まれ、その形が唐傘に似ているところから傘亭の名がある。
高台寺塔頭圓徳院の唐門。
勅使門 大正元年( 1912)に方丈とともに再建された。方丈の南正面に位置する。
台所坂 ねねの道から高台寺の境内へと続く道で、高台院は秀吉の菩提を弔うために高台院屋敷(現・圓徳院)から高台寺へとこの道を往き来した。
ねねの道 - 知恵の道、神幸道と合わせて東山参道(三つの道)といい、円山公園付近で接続して、それぞれ知恩院、八坂神社へと続く。
案内図
五木寛之著「百寺巡礼」からーーーー京都の寺は、歴史の古い寺が多いため、なかには権威主義だったり、人を威圧するような感じがする寺もないわけではない。それに比べると、高台寺は広大な寺領をもっているわりには、なんとなく楚々とした寺だ、という印象を受ける。それはねねが、この寺を太閤秀吉の正室としての権威を表現するためではなく、晩年になって、思い出をかみしめるために建てたからだろう。高台寺は権威や威光を顕示するのではなく、やや肩をすぼめるようにして、京都の一角にひっそりとたたずんでいるようだ。ねねは愛する人の思い出とともに、人生の後半の二十数年間をここで過ごし、その生涯を終えた。天下人だった夫秀吉とその妻だった自分ーーそのことを思いつつ、ねねは豊臣家の残光をなつかしむようにして、静かな最期を遂げたのだろう。そんなねねの可憐な思いが、この高台寺の一本一草にもしみこんでいるように思えてしかたがなかった。
御朱印
高台寺 終了
(付録)高台寺付近の観光案内図
石塀小路
八坂の塔 正式には霊応山法観寺で臨済宗建仁寺派の寺。
八坂庚申堂 正式には大黒山金剛寺庚申堂。
おしまい
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