『五木寛之の百寺巡礼』を往く

五木寛之著「百寺巡礼」に載っている寺100山と、全国に知られた古寺を訪ね写真に纏めたブログ。

64 石塔寺

2023-12-07 | 滋賀県

百寺巡礼第36番 石塔寺

”石の海”でぬくもりを感じる寺

 

 

 

琵琶湖の東側、鈴鹿山脈の西側の山裾の地域には、古刹がいくつか点在している。公共交通では、廻り難いこともあり、今回はレンタカーで回ることにした。朝8時30分に近江八幡駅近くのレンタカー店からスタートし、4つの寺とお邸を2邸ほど訪問し、夕方5時まで戻ることにした。

まず最初は、石塔寺である。近江鉄道桜川駅の北東約2.2kmの地区にあり、前方に布引山が横たわっている。石塔寺は、聖徳太子が創建したと伝えられる寺院である。伝承によれば、聖徳太子は近江に48か寺を建立し、石塔寺は48番目の満願の寺院で、本願成就寺と称したという。聖徳太子創建との伝承をそのまま史実と受け取ることはできない。しかし、石塔寺がある滋賀県湖東地区には他に長命寺や、このあと参拝する百済寺も、聖徳太子創建伝承をもつ寺院である。

境内にある数万基の石塔群の中で、ひときわ高くそびえる三重石塔については、次のような伝承がある。平安時代の長保3年(1003)に唐に留学した比叡山の僧・寂照法師は、五台山に滞在中、ある僧から、「昔インドの阿育王が仏教隆盛を願って三千世界に撒布した8万4千基の仏舎利塔のうち、2基が日本に飛来しており、1基は琵琶湖の湖中に沈み、1基は近江国渡来山の土中にある」と聞いた。寂照は日本に手紙を送ってこのことを知らせた。3年後の寛弘3年(1006)に、今の明石市の僧・義観僧都がこの手紙を入手し、一条天皇に上奏した。そして、一条天皇の勅命により、塔の探索を行ったところ、武士の野谷光盛なる者が、石塔寺の裏山に大きな塚を発見した。野谷光盛と天皇の勅氏平恒昌が掘ってみたところ、阿育王塔が出土した。一条天皇は大変喜び、七堂伽藍を新たに建立し、寺号を阿育王山石塔寺と改号した。寺は一条天皇の勅願寺となり、隆盛を極め、八十余坊の大伽藍を築いたという。

以上の伝承は、後世の仮託であり、実際には奈良時代前期(7世紀)頃に、朝鮮半島系の渡来人によって建立されたとみる。この石塔は、日本各地にある中世以前の石塔とは全く異なった様式をもつものであり、朝鮮半島の古代の石造物に類似している。湖東地区は渡来人700名余を、今の滋賀県蒲生郡あたりへ移住させた旨の記述書があることから、石塔寺の三重石塔も百済系の渡来人によって建立されたものであるとの見方が一般的である。

鎌倉時代のには、三重石塔の周りの境内に、五輪塔や石仏が多数奉納され、安土桃山時代には織田信長の焼き討ちに遭い、七堂伽藍、木造建築物、寺宝が全て焼失し、寺は荒廃した。その後江戸時代初期、天海大僧正が弟子の行賢に指示し、一部復興されている。

 

参拝日    令和5年(2023)6月22日(木) 天候雨のち曇り

 

所在地    滋賀県東近江市石塔町860                          山 号    阿育王山(あしょかおうざん)                        宗 派    天台宗                                   本 尊    聖観音(秘仏)                               創建年    伝・推古天皇在位年間(592~628)                     開 基    伝・聖徳太子                                札所等    近江西国三十三か所第22番ほか                        文化財    石造三重塔(伝・阿育王塔)、石造宝塔、石造五輪塔2基(国重要文化財)

 

 

境内図。

 

 

石塔寺入口の駐車場から入り口を見る。

 

 

 

 

 

入口から石塔が迎えてくれる。

 

 

境内は上下に分かれており、石塔のある地区は158の石段を上りこの山の上にある。

 

 

 

 

 

階段の途中のも無数の石塔が並ぶ。

 

 

 

 

 

階段を上り切れば平坦地で、大きな三重石塔を中心に多数の石塔が取り囲む。 当日は雨で、少々足場の悪い場であり、観察力も鈍る日であった。

 

 

 

 

 

見渡す限り、石仏・石塔だらけ、その数は三万体といわれている。

 

 

石造三重塔(阿育王塔:あしょかおうとう)【国重要文化財】    奈良時代前期建立。石造層塔としては日本最古であり、石造三重塔としては日本最大。高さ7.6m。材は花崗岩。言い伝えについては、当編プロローグで記した通り。 「あしょかおう塔」は、インドのアショカ王にまつわる伝承がある。

 

 

 

 

 

三重塔(阿育王塔)の周りの五輪石塔は、鎌倉時代に奉納されたものだそうだ。

 

 

 

 

石造五輪塔【国重要文化財】(右側2基)それぞれ嘉元2年(1304)および貞和5年(1349)の建立。                                          石造宝塔 【国重要文化財】 (左側)正安4年(1302)の建立。「宝塔」は、円筒形の塔身に宝形造(四角錐形)の屋根を付した形式の塔を指す。

 

五輪石塔。   五輪塔は平安時代に誕生したといわれる墓石で、上段から「空輪」「風輪」「火輪」「水輪」「地輪」と呼ばれる墓石があり、それぞれ自然の五大元素を表している。五輪塔を建てると亡くなった人はみな、最高の位と最高の世界へゆけるとされ、今日もなお宗派を問わず「ありがたい最高のお墓」といわれている。

 

 

 

 

 

階段を昇り切った片隅に建つ鐘楼。

 

 

そして階段を下る。かなり急である。

 

 

山門。   本堂への入り口の門。 大森陣屋から移築された門。 大森陣屋とは、出羽の最上義光の孫の最上義俊は、徳川幕府より近江蒲生郡内他で1万石を与えられ、最上家の家名存続を許され、その新領地に陣屋を構えた。それが大森陣屋である。

 

 

山門には山号である「阿育王山」の扁額が掲げられている。

 

 

三門から本堂側を見る。

 

 

 

 

本堂。    かつての石塔寺は、七堂伽藍と八十余坊の末寺を有する隆盛した寺院だったといわれる。応仁の乱とその後の織田信長の焼き討ちにより伽藍を焼失。その後、江戸初期に復興されたが、現在の本堂は、明治17年(1884)に建立されたもの。

 

 

内部を見る。

 

 

 

 

 

内陣。

 

 

本堂には、御本尊である「聖観音菩薩」が秘仏として安置されており、お前立ちとして「十一面観音立像」が安置されている。                    (写真はネットから借用)

 

 

 

本堂から山門方向を見る。

 

 

駐車場から周りの景色を見る。

 

 

案内図

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」からーーーー石塔寺は「知る人ぞ知る」寺なのだろう。ここにはずいぶん文学者や作家たちが足を運んでいる。この石塔について書かれた文章を読むと、やはり、いずれの著者にとっても最初の印象は衝撃だったようだ。以下、思い出すままあげてみよう。司馬遼太郎氏はこう断言していた「最後の石段をのぼりきったとき、眼前にひろがった風景のあやしさについては、私は生涯わすれることはできないだろう」(歴史を紀行する) また、白洲正子さんの場合は、こんなふうに告白している「あの端正な白鳳の塔を見て、私ははじめて石の美しさを知った」(「かくれ里」)そして、瀬戸内寂聴さんはさらに情熱的だ。「思わず声をあげた自分に気がつき、雨が降りかかるのも忘れて、塔の方へ駆けよらずにはいられなかった」(「寂聴古寺巡礼」) 二人三様に、カルチャーショックというか、鮮烈な感動を受けたことが伝わってくる。また瀬戸内寂聴さんによれば、石塔寺のすばらしさを教えてくれたのは、あの評論家として高名な小林秀雄氏だったそうだ。小林氏は「寺なら石塔寺、これが最高だ。ぜひ行っておきなさい」と熱心に勧めたという。石塔寺は決して大きな寺ではない。華麗な堂塔伽藍が見られるわけでもない。いわゆる”観光寺院”でもない。あるのは、ただの石の巨塔と無数の石塔石仏にすぎない。だが、石塔寺は訪れた人びとに、一度見たら忘れられないほどの強い感動を与えてきた。右(先)にあげた先達たちの文章からも、そのことが伝わってくる。

 

 

 

 

御朱印

 

 

 

 

石塔寺 終了

 

(参考文献)
  
五木寛之著「百寺巡礼」第四巻滋賀・東海(講談社刊) 石塔寺HP フリー百科事典Wikipedia 

 

 


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