百寺巡礼第34番 西明寺
焼き討ちから伽藍を守った信仰の力
湖東三山二寺目の西明寺である。百済寺から東に約10kmほどの場所に寺はある。紅葉の名所だというので、その時期には大勢の人が押し寄せるのだろう。初夏の平日の境内にほとんど参拝者はなく、ほかに1組だけがだった。総門は西に面し、そこから名神高速道路を越えて多くの僧坊があった跡地を左右に見ながら、長い参道を歩いた先に二天門が建つ。二天門を入ると、正面に本堂、右手に三重塔が建つ。そのような堂宇の配置であるが、今回は車利用のため駐車した関係から、参道の途中の左側の本坊から参拝することとした。
寺の歴史は、寺伝によれば平安時代初期に三修上人が創建したいう。三修上人は、修験道の霊山として知られ、伊吹山の開山上人と伝えられている伝説化した行者である。伝承によれば、承和元年(834)に琵琶湖の西岸にいた三修は、湖の対岸の山に紫の雲のたなびくのを見て不思議に思った。そこで神通力を用いて一気に水面を飛び越え、対岸に渡ると、今の西明寺のある山の中の池から紫の光がさしていた。三修がその池に祈念すると、薬師如来、日光菩薩、月光菩薩、十二神将が出現したという。三修に帰依していた仁明天皇はこの話を聞くと、その地に勅願寺として寺を建立するように命じた。そして三修はそれらの像の姿を刻んで祀ったのが、当寺のはじまりであるという。当寺のある場所の地名と当寺の別称を「池寺」というのは、この伝説に基づいている。承和3年(836)には仁明天皇により寺領が寄進され、諸堂が建築されたという。「西明寺」の寺号は前述の紫の光が西の方へさしていたことによる。
上述の承和3年(836年)建立を立証する史料はない。しかし、現存する本堂、三重塔は鎌倉時代のの本格的な建築であり、この頃には天台宗の寺院となり、かなりの規模であった思われる。やがて寺領は2千石、17の諸堂に僧坊3百を有する大寺院になっていた西明寺だが、元亀2年(1571)、延暦寺の焼き討ちを行った織田信長は、西明寺にたいしても信長の家臣である丹羽長秀や河尻秀隆によって焼き討ちの運命にあった。しかし、寺僧の機知により、山門近くの房舎を激しく燃やして、全山焼失のように見せかけたため、山奥に位置する本堂や三重塔は焼失をまぬがれたという。
この兵火の後は荒廃していたが江戸時代に入り、天海大僧正によって12石が供物代として与えられ、公海や望月友閑により再興された。さらに三代将軍徳川家光によって30石が朱印地として認められるなどの庇護を受けて徐々に復興し、近代に至っている。
参拝日 令和5年(2023) 6月22日(木) 天候雨のち曇り
所在地 滋賀県犬上郡甲良町大字池寺26 山 名 龍応山 宗 派 天台宗 本 尊 薬師如来(秘仏)(国重要文化財) 創建年 伝・承和元年(834) 開 山 伝・三修上人 開 基 伝・仁明天皇(勅願) 正式名 龍応山西明寺 別 称 池寺 霊場等 西国薬師四十九霊場第32番ほか 文化財 本堂、三重塔(国宝)、二天門、木造釈迦如来立像、木造不動明王ほか(国重要文化財)
境内案内図。
駐車場から直ぐの本坊の入り口。
本坊の前から本堂への参道を見る。 参拝の順路に従い、本坊を拝観し本堂に向かうことにする。
本坊入り口門。 門には大きな紅葉の木が青々と茂っている。秋に色付けば見事な景色を見せてくれるのだろう。
春には桜が花をつけるようだ。
門を潜るとよく手入れされた本坊庭園が出迎えてくれる。
6月下旬、紫陽花の季節でもある。
不断桜【天然記念物】 秋冬春に開花する珍しい桜。高山性の彼岸桜の一種の冬桜。
名勝庭園「蓬莱庭」へ。
蓬莱庭。 江戸時代、延宝元年(1673)、望月越中守友閑(甲賀望月家の武家から出家した人物?)が、当山復興の記念として築造した池泉回遊式庭園である。池は心字池となっている。
築山の立石群は、本堂の本尊薬師如来と日光・月光菩薩及び十二神将等 を表している。植木の刈り込みは雲を表し、薬師の浄瑠璃浄土の世界を形にしたもの。
池の中央は折り鶴を形どった鶴島と亀島と名が付く二つの石島がある。
この庭園は小堀遠州の作庭を参考にした造りで、鎌倉時代に作られた八角石灯籠は、平家の侍であった石屋弥陀六の作。連珠模様の室町時代を偲ぶ石灯籠がある。
庭園から苔に覆われた境内の中を本堂に進む。
表参道から二天門を見る。
二天門【国重要文化財】 桁行3間、梁間2間。 入母屋造、杮葺きの八脚門。応永14年(1407)の建立とみられる。
門には扉が無い。昔、門が建った頃、入口を守る二王が『おれがいるのに戸がいるか!』と怒鳴って扉を足で蹴飛ばし、その扉は遠く湖西地方まで飛んだ。そのような伝説がある。
門から表参道を振り返る。
増長天。 二天門には、二体の木像が寺を守っている。西明寺が、元亀2年(1571)に織田信長の兵火にかかって焼失したが、幸いにも本堂と三重塔、二天門、二天王立像は難を逃れた。
持国天。 仏像はいくつもの木材をつなぎ合わせた寄木造で造られた。二体ともに像の高さは1.95mで、仁王像と同じように、持国天は口を開き、増長天は口を閉じている。二体は 正長2年(1429)、印尋(いんじん)によって造られた。
境内側から門を見る。
二天門、本堂、三重塔の境内を見る。
手水舎。
本堂【国宝】 母屋造、檜皮葺き。鎌倉時代前期の和様建築。中世天台仏堂の代表作として国宝に指定されている。
現状は桁行、梁間ともに7間とする「七間堂」であるが、解体修理時の調査の結果、建立当初は桁行、梁間ともに5間の「五間堂」であり、南北朝時代に規模を拡張したとみられる。
内部は奥行7間のうち手前の3間分を外陣、その奥の2間分を内陣、もっとも奥の2間分を後陣および脇室とする。
内陣中央の厨子には本尊薬師如来立像(秘仏)(国重要文化財)を安置し、左右に日光・月光菩薩像、十二神将像、二天王像(国重要文化財)などを安置する。
妻側。
正面は7間の柱間すべてを蔀戸(しとみど)となっている。
向拝を見る。
組物間の蟇股には建立当初のものと南北朝時代の拡張期のものとがあり、後者の方がデザインが複雑になっている。建立当初の柱はその多くが位置を移動して再用されている。
組物は出三斗。正面には3間の向拝としている。
頭貫以外の貫を用いず、軸部は内法長押と切目長押で固めるなど、典型的な和様建築の手法。
本堂の前から三重塔をみる。
三重塔【国宝】 本堂の右(南)の一段高い位置に建つ、檜皮葺きの和様の三重塔。様式的に鎌倉時代後期の建築とされる。総高は20.1m。二重目、三重目の逓減率が小さいことと、二重目・三重目の塔身の立ちが低いことが本塔の特色である。
初重(一階)の戸口や窓の周りや、各層の屋根の下に見える手の込んだ組物「斗拱」にも鎌倉時代の特徴がよく表れている。
二層、三層に高欄を巡らす。中央間板唐戸、脇間連子窓、中備えは三間とも間斗束。組物は三手先組物、軒は二軒繁垂木。
相輪は日本の他の木造塔では銅製とすることが多いが、本塔の相輪は鉄製である。
初層、組物は三手先。初層の軒(二軒繁垂木)が流れるように美ししく、またの軒反りが美しい。
初層内部には、大日如来像を安置。初層内部は須弥壇と床面を除く全面に極彩色の絵画が描かれているが、現状ではかなり剥落している。絵画の主題は、内部の4本の柱に両界曼荼羅のうち金剛界曼荼羅成身会(じょうじんね)の三十二菩薩(四波羅蜜菩薩、十六大菩薩、八供養菩薩、四摂菩薩)を表し、四方の扉脇の壁面には計8面に法華経曼荼羅図を表している。このほか、扉には八方天、須弥壇周りの長押には宝相華、牡丹、鳳凰などが描かれている。このうち柱4本と壁8枚は国宝建造物の一部であるとともに、「絵画」としても別途重要文化財に指定されている。(写真は西明寺HPより)
鐘楼。
十一面観音像。 光背の後ろの三千体の十一面小観音像には、奉納者の氏名が並ぶ。
地面は大部分が苔で覆われている。
青紅葉が美しい。緑の苔に紅葉が色づく季節に拝観できれば最高。
案内図。
五木寛之著「百寺巡礼」よりーーー寺の堂伽藍ののなかでも、空高くそびえる塔のすがたを見るのは、ことに楽しい。私はこれまでに、ずいぶんたくさんの塔を見てきた。そのなかでも、この三重塔はベストスリーにはいるどころか、一、二を争うほどすばらしいと思う。何がいいかというと、まず安定感があることだ。塔というのは、細くて突っ立っている。そのため、見上げると不安定な感じがすることがある。しかし、この塔はどっしりとした安定感があり、均整がとれていてじつにこころが落ちつくのだ。初層の屋根は大きく、二層はやや小さめで、三層目はさらに小さくなっている。また、屋根のそりを見ていると、いちばん下は大きくそり返り、真ん中は中くらいで、いちばん上はわりとフラットである。それによって建物のデザイン的な感覚が強調されていて、見ていて気持ちがいい。屋根のそりを描く曲線には、鎌倉武士の刀の切っ先を連想させるような鋭さがある。檜皮葺きの屋根、柱や組物、垂木なども、この塔の建築にあたった匠たちの技術の高さをうかがわせる。この塔と本堂は、鎌倉時代を代表する建造物として国宝に指定されている。日本建築の粋といってもいいこうした名建築は、いくら見ていてみ見飽きない。この塔や本堂を兵火から守ってくれた農民たちに、改めて感謝したいような気持になった。
御朱印。
西明寺 終了
滋賀県の塔(ブログ)
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