『五木寛之の百寺巡礼』を往く

五木寛之著「百寺巡礼」に載っている寺100山と、全国に知られた古寺を訪ね写真に纏めたブログ。

74 相国寺

2024-03-03 | 京都府

百寺巡礼 第84番 相国寺

 

著名な人々を惹き付けた禅宗の魅力

 

  足利将軍家や伏見宮家および桂宮家とゆかりの深い禅寺。京都五山の第二位に列せられている。相国寺は五山文学の中心地であり、画僧の周文や雪舟は同寺の出身者である。また京都観光の名所として有名な金閣寺(鹿苑寺:当グログNO25)と銀閣寺(慈照寺:当ブログNO52)は、当寺の山外塔頭である。しかしながら京都に多い観光客が多く訪れる観光寺ではない。あくまでも禅宗の大本山として、雲水たちの修行の寺である。

 境内は、京都御所の真北に位置し、同志社大学に隣接している。最盛期にには、東は寺町通り、西は大宮通り、南は一条通り、北は上御霊神社との境までが相国寺の寺域であった。応仁の乱による消失後、三門と仏殿は再建されることなく、近世以降は法堂が仏殿を兼ねて本尊を安置している。

 永徳2年(1382)、室町幕府第3代将軍・足利義満は、花の御所の隣接地に一大禅宗伽藍を建立することを発願した。その地はかつて行基により創建された出雲寺(現・毘沙門堂。出雲寺は現・上京区毘沙門町にあった)や、法然が住していた賀茂の釈迦堂(現・百万遍知恩寺)が建っていた場所であるが、当時は安聖寺や公家の屋敷が建てられていたのでそれらを移転させて、新たな寺院が建立される。その名称は、「相国」と呼ばれる職である左大臣に任じられていたことから相国寺を推し、また、五山制度の始まりの寺院である大相国寺があり、それにあやかって相国寺を推したことから「相国寺」と名付けられた。その間、至徳3年(1386)には義満によって京都五山、鎌倉五山が改めて制定され、相国寺は京都五山の第二位に叙されている。寺が竣工したのは創建から10年後の明徳3年(1392)であった。

 

参拝日    令和6年2月28日(水) 天候晴れ

 

所在地    京都府京都市上京区今井出川通烏丸東入相国寺門前町701              山 号    萬年山                                     宗 派    臨済宗相国寺派                                 寺 格    大本山 京都五山第二位                             本 尊    釈迦如来                                    創建年    永徳2年(1382)                                 開 山    夢窓疎石                                    開 祖    足利義満                                    中 興    西笑承兌                                    正式名    萬年山相国承天禅寺                               札所等    神仏霊場巡拝の道第99番(京都第19番)                      文化財    無学祖先墨蹟4幅(国宝)  法堂(国重要文化財)ほか。

 

 

参道の両側に同志社大のキャンパスが広がる。 京都御所の北側に広がる同志社大学。その北に隣接する相国寺。京都御所は京都の中心部にあり、その中心部に神道の施設の京都御所、同社大学はキリスト教。そいて仏教の相国寺と、「まるで宗教のスクランブル交差点に立っているようだ」と百寺巡礼の著者・五木寛之は語ってる。

 

 

総門(京都府指定文化財)。 総門と勅使門の二つが並んである。総門はなんども火災に遭い、現在の門は寛政9年(1797)に再建されたもの。

 

 

勅使門。  総門より少し離れて西側に御幸門とも言われ、通常閉門。

 

 

境内全景。

 

 

総門を潜り参道を見る。

 

 

参道の左手に広がる放生池。 池には天界橋と名の付いた石橋がある。

 

 

境内は広くゆったりとし、いくつもの堂宇を赤松の林が囲む。

 

洪音楼。  鐘楼である。参道の右手に建ち天明の火災で焼けて、天保14年(1943)に現在の姿の鐘楼が完成。袴腰付の鐘楼では大きい方。

 

 

 

 

 

袴腰の基礎部分を見る。

 

 

境内配置図。                           (相国寺HPより)

 

 

法堂・方丈入口。 こちら側から拝観は有料となる。

 

 

庫裡(京都府指定文化財)。 香積院と呼ぶ。禅寺でよく見かける建物の形態。

 

大きい破風や壁面が特徴。文化4年(1807)の建立。 左側の唐破風屋根の入り口は明治16年(1883)に設けられたもの。

 

 

龍を彫り込んだ蟇股。

 

 

腰屋根は、明り取りや煙り抜きの機能を併せ持つ。

 

 

隅鬼は逆立ちした獅子像

 

 

一度外に廻り法堂を見る。

 

 

法堂【国重要文化財】。   慶長10年(1605)に豊臣秀頼の寄進により5回目の再建。我が国の法堂建築で最古のもの。構造は桁行7間、梁間6間、単層、1重もこし付,入母屋造り,本瓦葺きの禅宗様建築。  禅宗建築の特徴。 屋根の軒の両端が鋭く跳ね上がっている。

 

 

禅宗建築の特徴に軒の垂木が放射状に配した扇垂木を使用。

 

 

 

 

 

正面から振り返る。

 

 

西側から見た法堂の全景。桁行4間、梁間1間、1重、切妻造、本瓦葺の玄関廊がついている。

 

 

 

 

 

 

法堂は鳴き龍で知られている。法堂の中に入ると驚くほど高い天井に龍の絵が描かれている。禅宗建築では、天井板を平らに張り鏡天井にし、そこに龍を描くのが特徴だと言われる。龍が描かれているのは直径9mの円の中で、絵師の狩野光信の筆による。その円の下の両手をパシッと勢いよく叩くと異、びよょ~んという音が響く。鳴き龍の声だそうだ。よく聞こえる場所が示されているので、その場所でしか龍の鳴き声は聞こえない。                               (写真は相国寺HP)

 

 

法堂の内部。  中央には、三方を階段が付いた須弥壇が設けられ本尊・釈迦如来が安置されている。                    (写真は相国寺HPより)

 

 

法堂への入り口。

 

 

 

 

 

法堂を北西面から見る。

 

 

法堂の切妻側。鬼瓦と懸魚。

 

 

 

方丈への入り口。法堂への入り口でもあり、こちらで拝観料を納める。

 

 

花頭窓から中庭を見る。

 

 

方丈から法堂への渡り廊下。 

 

 

方丈前庭。  南側の庭は、白砂を敷き詰めただけの単調な造り。

 

 

白砂により太陽の光を反射して室内を明るくする。

 

 

方丈を見る。

 

 

方丈(京都府指定有形文化財)。  南側の部屋は3室あり。また背合わせに北側にも部屋が3室。  

 

 

方丈南側。

 

 

方丈の扁額。 中国の書家・張即子の筆による。

 

 

拝観の入り口で、法堂への渡り廊下側を見る。

 

 

方丈の正面に方丈勅使門。1間1戸の四脚門。 その南側には法堂がそびえ立つ。禅宗は山門、法堂、方丈と縦に並ぶ伽藍形態が特色。

 

 

方丈勅使門は切妻側に唐破風を用いた。

 

 

方丈勅使門を表側から見る。

 

 

 

方丈の南側廊下の杉戸に描かれた、江戸後期の絵師・原在中の白象図

 

 

方丈の西側。 方丈の北側の庭園の裏方丈庭園の流れに沿って作庭された。

 

 

 

 

裏方丈庭園。  細長い敷地の中に、大きな掘り込み状の枯流れが左手から右手に流れる形を作っている。その後ろにモミジやマツなどが植えられている。枯流れの斜面にはスギゴケが張られ、流れの底には小石が敷かれ、さらに小石の下には砂が敷かれているので、雨水はすぐに地下にしみ込んでいく。建物の雨排水も枯流れを流れる機能的な作庭になっているようだ。

 

 

方丈の北側にも3つの部屋がある。廊下には鮮やかに杉戸絵が描かれている。

 

 

裏方丈庭園。正面の建物は庫裡の一部。

 

 

 

 

 

枯流れは低く掘られていて、滝石組なども組み込まれ立体感があり、狭い空間の割には存在を感じる。

 

 

裏方丈庭園側の廊下を見る。

 

 

冬の終わり2月末の彩は椿の花。

 

 

経蔵(京都府指定有形文化財)。 元々の経蔵は天明の大火で焼失し、万延元年(1860)に再建されたもの。

 

 

天響楼。  鐘楼と梵鐘で平成22年(2011)の建立された新しいもの。

 

 

梵鐘は、中国開封大相国寺により二つ鋳造され、その一つが日中佛法興隆・両寺友好の記念として寄進されたもので、「友好紀念鐘」の銘や「般若心経」の経文が刻されている。

 

 

内塀の外から法堂の屋根を見る。

 

 

相国寺と相国寺塔頭の間にある通路。

 

 

 

 

 

案内図    

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」より・・・義満は自分が建てた相国寺を、京都五山のひとつに列したいと願った。京都五山とは、京都にある臨済宗の五大寺のことである。だが、当時すでに五山は、上から南禅寺、天龍寺、建仁寺、東福寺、万寿寺と順位が定まっていた。そこで、義満から相談を受けた義堂周信は、中国の例を引き合いに出して、南禅寺を五山の上に置き、相国寺を五山の第二位に割り込ませるように進言した。早速、義満は南禅寺を別扱いにして、相国寺を天龍寺につぐ五山第二の寺としたのだった。こうして寺格の高さと将軍の菩提寺ということで、相国寺は大いに栄えることになる。また、ここからは数多くの学僧がでて、のちに「五山文学」と呼ばれた学問や芸術の発達に貢献した。

 

御朱印

 

 

 

相国寺 終了

 

(参考文献)
  
五木寛之著「百寺巡礼」第九巻京都Ⅱ(講談社刊) 相国寺HP  フリー百科事典Wikipedia

 

 


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