百寺巡礼第87番 本法寺
なべかむり日親の伝説を支える力
本法寺は、妙顕寺や妙覚寺など多くの寺が建ち並ぶ寺之内の一画にある日蓮宗寺院で、十六箇本山の一つに数えられる。門前は小川通が東西に通り、向かいに裏千家と表千家が南北に居を構えており、京都の中でも特に落ち着いた独特の雰囲気を持った地域である。室町時代に活躍した日蓮宗僧侶の久遠成院日親上人によって日蓮宗の本山である。
当時の建立は、日親が永享年間(1429~40)に日親が四条高倉に設けた弘道所に遡る。その後天文法華の乱などで寺地を遷し、天正18年(1580)に現在の地に移る。天明の大火で宝蔵と経堂を残しほとんどが焼き尽くされた。寛政2年(1790)から翌年に開山堂仮堂と客殿が建てられ、寛政末から文化年間(1904~17)にかけて、本堂、開山堂、多宝塔、仁王門、庫裡など主要な堂宇が復興された。小川通に面して仁王門を構え、そこより西北に延びる参道に主要な建造物群を配置する。中央の広場を囲むように西側に本堂、北側に開山堂、東側に多宝塔、南側に鐘楼と経蔵を建て、本堂に北側に客殿や庫裡、書院、方丈を配する。近世日蓮宗系諸宗本山のもっとも整った伽藍景観を伝える。
現在地に移転したときの管首である日通上人は、権力者であり財力もある本阿弥光二と光悦の親子の支援を受けて堂塔伽藍を整備することができた。それからの本法寺は京都の町に、一大栄華を誇るまでとなった。しかし天明8年(1788)に襲った大火は本法寺の伽藍を呑み込み、経堂と宝蔵を残すだけの壊滅状態となってしまったのである。それでも、檀信徒たちの堂塔再建に対する願いは着々と実を結び、本堂をはじめ開山堂、多宝塔、書院、仁王門などが整備されて、現在の本法寺となった。
さらに当寺では、庫裡や書院など僧侶が生活を営んど近世の建物を残しており、近年建て替えられた客殿を除き、江戸時代の伽藍形態がそのまま伝えられている。このような例は本山格寺院では稀有であり全国的に見ても貴重な伽藍群と言える。
参拝日 令和6年(2024)2月29日(木) 天候曇り
所在地 京都府京都市上京区小川通寺之内上る本法寺前町617 山 号 叡昌山 宗 派 日蓮宗 寺 格 本山 本 尊 三宝尊 創建年 永享8年(1436) 開 山 日親 開 基 本阿弥本光 正式名 叡昌山本法寺 札所等 洛中法華21ヶ寺 文化財 長谷川等伯関係資料(国重要文化財)
京都市営地下鉄烏丸線「今出川」駅を降りて、東西に走る今出川通から西の方向に約5~6分程歩くと小川通という南北の通り。その辺りは表千家と裏千家、武者小路千家の茶道の本部があり、世界に誇る茶道文化の中心地。その物々しいというか凛とした空間の左先に本法寺の入り口がある。存在感のある茶道の施設が並んでいるのが本法寺の門前である。
裏千家本部の正面の門の正面に仁王門。
仁王門(京都府指定有形文化財)。 三間一戸の楼門。 寄棟桟瓦葺きの屋根。 寛政9年(1797)に建立された。 写真では少々見ずらいが、扁額は「叡昌山」。
木部は朱塗りであるが経年変化が著しい。壁は白漆喰。
欄干廻り。 持ち送り風の組物や紅梁型の正面飛貫など、時代の雰囲気をよく示している。
門の左右に仁王像。
多宝塔。 仁王門を潜り直ぐに右手に建つ。 寛政年間(1789~1804)の建立された。高さは15mで洛中における多宝塔はここに建つだけ。塔内には、釈迦如来、多宝如来を祀る。
多宝塔は初層が方形、上層が円形で屋根が四角錐形の宝形造。
摩利支天堂。 大摩利支尊天を祀った堂宇。
開山堂。 寛政8年(1796)に建立された。
鐘楼。
本堂の前。大きな桜の木を中心に奥の朱塗りの宝物館と右手に開山堂。
本堂。 規模の大きな7間堂で寛政9年(1797)に再建された。
正面に3間の向拝殿を設ける。
扁額「本法寺」は本阿弥光悦の筆による。
入母屋造りの屋根の千鳥破風は反りがあり、軒先は跳ね上がる寺建築に見られる造り。 軒下廻りの組物は、このクラスの大きさの堂宇としては簡略されている。
周囲の縁先には庇柱を建て、深い庇を支える。柱は四天柱以外は角柱である。大型の堂宇での角柱は珍しい。
春を待つように梅の花が咲き誇る。
元阿弥光悦が植えたとされる松の木と安土桃山時代を代表する絵師・長谷川等伯の銅像は本堂の前。
説法石。 上洛した日親は一条戻り橋のたもとでこの石に腰を掛けて辻説法を行ったと言われる。石は陰陽士・安倍晴明の邸にあった晴明石とみいわれ江戸時代の元禄15年(1702)にこの地に移された。
唐門。開山堂の左手にあり、その向うの朱塗り建物は宝物館となり長谷川等伯作の「釈迦大涅槃図」(重文)が1,2階吹き抜けの講堂内に掲げられている。
唐門。
本堂(右手)と庫裡(左手)を渡り廊下で繋ぐ。
庫裡。 本堂の奥に建てられた切妻妻入の建物。僧侶の生活の場になる堂宇で、現在は参拝者の入り口。
庫裡の東側に建てられた客殿の玄関は唐破風仕様の屋根の造り。
参拝、拝観入り口。
庫裡の玄関土間の構造。
庫裡にある入口から入り、受け付けを済ませ右手客殿を通り宝物館にすすむ。
宝物館。 宝物館の南側にこじんまりとした枯山水の庭・十(つなし)の庭が広がり、唐門が設けられている。
十(つなし)の庭。 ひとつ、ふたつ・・・九つ、そして十。十は「とう」と読むか「じゅう」とよむか、いずれも「つ」が付かないので「つなし」だという。この庭には10個の石が置かれている。が・・・九個しか見当たらない。もう一つは、心の中に石があるのだそうだ。昭和時代に作られたので新しい庭。
内側から見る唐門。
宝物館から開山堂を見る。
宝物館には、長谷川等伯による仏釈迦大涅槃図が掲げられている。
講堂に掲げられた扁額。
佛涅槃図【国重要文化財】 京都三大涅槃図のひとつ。縦約10m横約6mの大きさで、2階吹き抜け部屋に掲げられている。作者は安土桃山時代から江戸初期を代表する絵師・長谷川等伯(1539~1610)で、自身の家族や心を寄せた日蓮宗僧侶らの供養を目的に、61歳のときにこの絵を描き本法寺に奉献した。能登国七尾に生まれた等伯は、染物を生業とする長谷川家の養子となり、故郷で絵師として活動した。その後、養父母の死をきっかけに京都へ移り住み、菩提寺の本山であった本法寺を拠点に活躍し、数多くのすばらしい作品を遺した。 (写真はネットから)
宝物館の北側は庭園。
宝物館から書院の庭園へ。 本阿弥光悦が生み出したという光悦垣。
庫裡の北側に方丈、書院があり渡り廊下でつながる。
三巴の庭。渡り廊下から見る中庭の庭園。 蹲は光悦の作とされる「光悦の蹲」。
渡り廊下の先にある書院。18畳の部屋が3室並ぶ。
中の部屋。
上段の間。 奥の部屋で、2間の床の間に違い棚のある床脇と付け書院が付いた。
書院には庭に面し広縁が付く。
三巴の庭。 本阿弥光悦によってつくられたとされる庭で、書院の南側から東側にかけて鈎型に広がる。室町期の書院風枯山水の影響を名庭で、広さはおよそ200坪。三か所の築山で巴の紋を表すことから三巴の庭と呼ぶ。木が育つなどの経年により巴のかたちは分かりづらい。・・・わからない。
縁側の前には、半円の石を二つ組み合わせた円形石(左)と、切り石による十角形の蓮池(右)で、「日」「蓮」を表現している。
南東の隅には枯滝が配され、手前に置かれた縦縞模様の青石によって流れ落ちる水を表現している。
庭の中央に位置する日輪を通して東南方向に宝物間の朱塗りの建物を見る。
三巴の庭の現在の様子。 (本法寺案内書より)
江戸時代の様子。江戸時代末に刊行された「都林泉名勝図会」の京都名園案内書より。(本法寺案内書より)
仁王門と反対側で西側の入り口。 右の建物は茶道総合資料館。
案内図
御朱印
御朱印についてきた小さな気遣い。
五木寛之著「百寺巡礼」よりーーーーー本阿弥光悦や長谷川等伯本法寺の関係を知ると、この寺が京都のなかに存在していることの意味が、あらためて浮かびあがってくるようだ。山里ではなく、田園地帯でもなく、町の人びととの生活と密着した中にある寺ー本法寺はまさに、町衆に支えられてきた寺である。<中略>封建社会の身分制度のなかで、ものをつらない商人は、農民より一段下に見られていたが、実際には経済を支配して、社会を動かす力を持ちはじめていた。さまざまなかたちで抑圧された新興階級の町衆たちは、次第に権利意識にめざめてくる。同時に自由への欲求もめば矢えてくる。彼らのそういう意識と一緒になって日蓮宗はひろまった、といえるかもしれない。日蓮宗は商人たち、町衆といわれる人々とのあいだに、広く深く支持者を集めていった。町衆は、人間は平等でなければいけない、という根本精神をもっていたのだろう。
本法寺 終了
付録)本法寺の門前には茶道のご本本家家元の名庵が並ぶ。
小川通に面して本法寺の仁王門の前に佇む。裏千家の家元「今日庵」の入り口。
今日庵の南となりに位置する裏千家家元「不審庵」の入り口。
今日庵の対面にある茶道具店の清昌堂やました。弘化4年(1847)創業だという。
表千家・不審庵の土塀と小川通。この奥の左手に本法寺山門がある。
古川通りを出た寺之内通りとのT字路にある俵屋吉富小川店は、茶菓子に特化した和菓子の店という。
俵屋吉富のとなりに茶道具の「小西康」。
以上。
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