第26番 東本願寺
親鸞の思いが生き続ける大寺
西本願寺の次に東本願寺を参拝した。西本願寺は自由に写真を撮ることができたが、東本願寺の堂内の撮影は駄目であった。また西本願寺と比較すると東本願寺は見どころは少ない。
東本願寺の名は通称であり、西本願寺に対して東に位置することに由来して、愛称は「お東」「お東さん」。
天正19年(1591)、浄土真宗本願寺派法主で本願寺11世の顕如は、豊臣秀吉により新たに寺地の寄進を受け、本願寺を大阪天満から京都堀川六条に移転させた。慶長7年(1602)に、後陽成天皇の勅許を背景に徳川家康から、豊臣秀吉の命により本願寺の寺内で隠居所を設けて、北方に隠居させられていた顕如の長男・教如へ烏丸七条に寺領が寄進された。これにより、本願寺は正式に顕如の三男・准如の西(本願寺)と、新たに分派してできた教如の東(大谷派)に分立した。
分立当初の両本願寺はともにいくつかの呼び名があったが、便宜上、堀川六条の本願寺の東側にある烏丸七条の本願寺が「東本願寺」と通称されたため、相対的に堀川六条の本願寺も「西本願寺」と通称されるようになった。
万治元年(1658)に、3年後の親鸞聖人四百回御遠忌があるため、老朽化していた阿弥陀堂・御影堂を再建する。天明8年(1788)の天明の大火によって両堂が焼失。その後、寛政10年(1798)に徳川幕府による用材の寄進があり、二つの堂は再建された。その後、度々の火災に遭うこと4度。その火災の多さから「火出し本願寺」と揶揄された。しかし、東本願寺が火元となったのは、文政6年(1823年)11月15日の火災のみである。現在の阿弥陀堂と御影堂は、明治13年(1880)から15年かけて明治28年(1895)にようやく落成した建物である。建築・障壁画等の製作には当時の第一級の職人が参加している。
東本願寺は、お東騒動と呼ばれる内紛が起こり、その結果、昭和62年(1987)に、「包括宗教法人 真宗大谷派」に吸収されてその直属の宗教施設となった。そこで、通称「東本願寺」は正式名称を「真宗本廟」に改称した。よって現在、真宗本廟は真宗大谷派が管理する伽藍で礼拝施設等の総称であり、宗教法人法による「寺院」ではない。
これ以降厳密には本願寺と呼ばれる寺院は、下京においては浄土真宗本願寺派本山の本願寺は、通称の西本願寺のみとなっている。いまでは真宗本廟の通称として「東本願寺」の名称が引き続いて使用されている。
参拝日 平成30年(2018)10月4日(土)天候曇り時々小雨
所在地 京都府京都市下京区烏丸通七条上ル常葉町754 山 号 なし 宗 旨 浄土真宗 宗 派 真宗大谷派 寺 格 本山 本 尊 阿弥陀如来 創建年 慶長7年(1602) 開 基 教如(本願寺12世) 中興年 文明3年(1471) 中 興 蓮如(本願寺第8世) 正式名 真宗本廟 別 称 お東、お東さん 文化財 御影堂、阿弥陀堂(国重要文化財)
東本願寺の前の烏丸通。 京都駅前から京都御所を通り烏丸北大路まで伸びる。
東本願寺を取り囲む築地塀と小さな堀が巡る。
御影堂門の前から京都タワーを見る。
境内の案内絵図。
阿弥陀堂門【国重要文化財】 明治44年(1911)に再建。切妻造り・檜皮葺きの四脚門。正背面に唐破風を設ける。境内で京都駅に一番近く、段差の無いバリアフリーの門である。江戸時代中頃に「唐門」の名称で建てられる。
境内の内側から見る。
菊の門(勅使門)【国有形文化財】 門扉に菊の紋があることから菊の門と呼ばれているが勅使門とも呼ばれる。慶長9年(1604)に徳川家康が寄進したが、幾たびかの火災で焼失した。
明治44年(1911)の親鸞聖人六百五十回忌迄の再建に間に合うよう、名古屋の信者2名が勅使門の寄進を申し出た。勅使門の設計は亀岡末吉、施工は名古屋の鈴木幸右衛門、金物製作は京都の中村猪之助、塗工は京都の三上治三郎という当代の第一人者が担当した。工事は2年かけ明治44年(1911)に完成した。
菊の紋は岩倉具定宮内大臣により、使用が特別に許可されたいきさつがある。
玄関門【国有形文化財】 明治44年(1911)再建。
御影堂門【国重要文化財】 明治44年(1911)に再建。高さ約28mの入母屋造・本瓦葺き・両脇に小さな門がある三門形式の二重門。東福寺、知恩院に当寺を合わせ京都三大門の1つである。上層(非公開)には、釈迦如来坐像を中央に、脇侍として向って右側に弥勒菩薩立像、左側に阿難尊者立像の三尊が安置されている。
「真宗本廟」の扁額を掲げる。
破風の飾り金物が煌びやかな妻側。
欅の柱と袖の彫刻模様。
門扉。
照明の下げ灯籠。真下から撮ってみた。
門内から御影堂を見る。
大きな御影堂が現れる。
御影堂門を潜り境内の入る。
境内から見る京都タワー。
総合案内所・お買い物広場。
阿弥陀堂【国重要文化財】 東本願寺の本堂。禅宗様を取り入れた仏堂で、本尊・阿弥陀如来立像を安置する。屋根は瓦葺きの単層入母屋造。建築規模は、間口52m・奥行き47m・高さ29mである。床広さは御影堂の半分以下しかないが、全国屈指の規模の仏堂である。現在の建物は、15年の歳月をかけ明治28年(1895)に完成した。平成に入り、5年間におよぶ修復工事は平成27年(2015)に完了。
向拝廻りを横から見る。正面は御影堂。
堂内は、内陣・外陣・参拝席に分かれている。内陣の本間中央に須弥壇を設け、その壇上の宮殿内に本尊・阿弥陀如来(木像・立像)が安置される。また、本間右側の壇上には「聖徳太子御影」の絵像が、本間左側の壇上には「源空上人御影」の絵像が奉掛される。
阿弥陀堂側から御影堂側を見る。
軒下の木組みの様子。
阿弥陀堂から阿弥陀堂門を見る。
境内から京都タワーを見る。京都駅の建物が壁のように見える。
手水舎【国重要文化財】
西に阿弥陀堂、東に御影堂と二つの堂宇を結ぶ渡り廊下。
渡り廊下【国重要文化財】「造り合い廊下」とも呼ばれ、明治の東本願寺再建に関連した毛綱、大橇 鼻橇、尾神嶽、雪崩被災のジオラマが展示されている。
渡り廊下から見た、外部の窓の意匠。
阿弥陀堂の妻側。
阿弥陀堂から御影堂と御影堂門を見る。
御影堂を見る。
御影堂の妻側を見る。
御影堂【国重要文化財】 「ごえいどう」と読む。 境内のほぼ中心に位置する。和様で建てられた、宗祖親鸞の坐像である「御真影」を安置する建物である。屋根は瓦葺きの重層入母屋造。外観が二重屋根であるため二層建築に見えるが、下部は裳腰であり単層建築である。
建築規模は、間口76m・奥行き58m・高さ38mで、建築面積は東大寺大仏殿を上回る。現在の建物は、明治13年(1880)に起工し、明治28年(1895)に完成した。平成16年(2004)から平成21年(2008)にかけて大規模修復が行われた。総工費は約98億円である。御影堂の瓦の枚数は175,967枚で、その内の3割は修復時の検査で合格した瓦を再利用して葺いている。再利用した瓦(明治瓦)は風雨に晒されにくい裳階の奥側、「受平瓦」よりも奥に用いられてた。
御影堂から御影堂門を見た。
向拝から。
扉の装飾金物がこげ茶の古木に鮮やかに映える。
堂の外側を巡る広い回廊。
堂内は阿弥陀堂と同じく、内陣・外陣・参拝席に分かれている。内陣は横に7つの室に分かれていて、中央の間を「内陣本間」と呼ぶ。「内陣本間」側から、左側の余間を「十字の間」・「九字の間」・「飛檐の間」と呼び、同じく右側の余間を「六軸の間」・「新六軸の間」・「御簾の間」と呼ぶ。
「内陣本間」の中央に須弥壇上を設け、その上に「御厨子」を置き、「御真影」を安置する。「内陣本間」の左右壇上には歴代門首の絵像が奉掛される。
御影堂はかつては「大師堂」と呼ばれていた。その由来は、明治9年(1876)に明治天皇から親鸞に対して「見真大師」の大師謚号(おくりごう)が贈られたためである。だが、昭和56年(1981)に「宗憲」が改正された際、「見真大師」号が削除され、同時に大師堂の呼称が取りやめられて御影堂の呼称に復された。
基壇から欄干の様子。
当日は、時々小雨。
巨大な御影堂門を見る。
梵鐘は、平成22年(2010)に新しく造られ、今まで使用していた梵鐘。
鐘楼【国重要文化財】 明治27年(1894)に再建されたもの。
境内から見る京都タワー。古都京都の寺町のシンボル・・・蝋燭をイメージして造られたそうだ。
案内図
五木寛之著「百寺巡礼」よりーーーー「わがはからいにあらず」広い御影堂に黙って座っていると、どこからか親鸞の静かな声が聞こえてくるような感じがした。 〈他力〉といえば、すぐに〈他力本願〉という言葉が浮かんでくるだろう。一般に他力本願といえば、「あなたまかせ」「他人まかせ」の意味で用いられることが多い。世間では〈自助努力〉の反対の表現として通用しているようだ。最近流行の〈自己責任〉を強調する際にも、他力本願ではいけない、と言われたりする。時代とともに言葉の意味が少しずつ変わってくるのは仕方がないことだが、〈他力本願〉の本当の意味は、決して「あなたまかせ」「他人まかせ」「無責任」ではない。それはひときわくっきりとした強い世界観にもとづく大きな思想であり、危機に直面した人間にとってのたのもしい力であると言っていい。他力とは、宗派を超えて現代人すべての心に働きかける激しく大きな力だと、私は思っている。そして、いま、この心の危機の時代にこそ、〈他力〉の考え方が輝いてくると感じないではいられないのだが。
御朱印
なし
東本願寺 終了
(参考文献) 東本願寺HP フリー百科事典Wikipedia
五木寛之著「百寺巡礼」第一巻京都(講談社)
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