『五木寛之の百寺巡礼』を往く

五木寛之著「百寺巡礼」に載っている寺100山と、全国に知られた古寺を訪ね写真に纏めたブログ。

29 正法寺

2023-09-05 | 岩手県

古寺を巡る 正法寺

 

 

 

参拝日    平成30年(2018)6月21日(木) 天候曇り

 

所在地    岩手県奥州市水沢黒石町字正法寺129                     山 号    大梅拈華山                                  宗 旨    曹洞宗                                    本 尊    如意輪観音                                  創建年    貞和4年(1348)                               開 山    無底良韶                                   文化財    総門、法堂、庫裡(国重要文化財)

 

正法寺は、黒石寺から3kmほどの先にある古寺。こちらの寺の認識はなかったが、知り合いから黒石寺まで行くなら直ぐ近くに有名な古寺がるからと聞き、参拝することになった。

正法寺は南北朝時代の貞和4年(1348年)に 無底良韶が曹洞禅の禅堂を建てたのがはじまり。東北地方で初の曹洞宗寺院となった。無底は、これに先立ち、康永元年(1342)に師である峨山韶硯から。開祖道元が中国から持ち帰った袈裟「僧伽梨(そうかり)」を授けられている。これは、道元から峨山まで、連綿と伝承されてきたものであって、これを授けるということは峨山門派を無底良韶が継承することを示唆していた。正法寺が開創されて2年後の観応元年(1350)に崇光天皇が、「出羽奥州両国における曹洞の第三の本寺」として、住職に紫衣の着用が許された。

その後、康安元年(1361)に13年の歳月を経ても跡を継ぐ門弟がないまま無底良韶が死去。そのため、師の峨山が、弟弟子の月泉良印に正法寺を継がせた。このとき、「正法寺は末代まで奥羽両州曹洞の本寺たるべし」とする書状を月泉良印に与えている。月泉は40年にわたってその住職をつとめ、正法寺発展の基礎をきずいた。東北地方に曹洞宗の拠点ができたことによって、布教は進み、月泉良印は「月泉四十四資」といわれる弟子を輩出することとなる。岩手県南部や宮城県を中心に次々に末寺が開かれることとなり、その数は508とも1200とも言われた。元和元年(1615)幕府法度により、本寺の格を失い、現在は72の末寺を持つのみである。正法寺は火災が多く、文安元年(1444)から寛政11年(1799)までの6回を記録している。寛政11年の最後の火事は、月泉良印の400回忌の当日に庫裏から出火したもので、惣門、土蔵、宝蔵を残すのみでほぼ全焼してしまった。このときは、仙台藩の庇護を受けていて、復興は仙台藩が行うことになっていたが、藩側も財政がひっ迫しており、50年経って、本堂と庫裏は再建された。仙台藩は、スポンサーような存在だったらしく、藩が関わったものには、藩の家紋が随所に入れられている。しかし、仏殿と山門は修理されず今日に至る。

 

 

正法寺の入り口。

 

総門【国重要文化財】切妻作り、とち葺の四脚門で寛文5年(1665)仙臺大工棟梁新田作兵衛による建築。寺院の四脚門としては岩手県最古の遺構。

 

 

 

 

 

掲げられた扁額は「大梅拈華山」。

 

 

蛇紋岩の石段はかなり急だが、古刹の風格を感じさせる。

 

 

石段を登り切り総門を振り返る。

 

 

法堂【国重要文化財】 仙台藩による造営で、江戸時代後期に再建されたもの。当初は「客殿」と称していた。入母屋造、茅葺き。正面30m、側面21mの大規模な建築である。本堂の茅葺屋根は、屋根の高さ約26m、勾配49度、面積は720坪と日本一の茅葺屋根を誇る。

 

 

元々、かなり多くの堂宇が建っていたようだ。その一つの仏殿の跡。

 

 

境内を見る。

 

 

茅葺の屋根の大きさが際立つ。

 

法堂  文化8年(1811年)に創建された。棟には伊達家の家紋、竹に雀、三引両、九曜がついている。仙臺伊達藩から寺領を受け、また建物の修復を受ける等別格の待遇を受けており、伊達家は正法寺にとって大檀越だったことを示している。

 

 

散る妻屋根の妻側には木彫りの飾り物が取り付けられている。

 

 

 

 

法堂正面。

 

 

 

法堂の庇下。大きな屋根は細かい間隔で地垂木と軒先側に飛燕垂木と二重に垂木が施され深い軒を造り出している。

 

 

正面入り口の扁額「円通正法寺」。

 

 

 

 

 

本堂の内陣を見る。

 

 

法堂とは住職が佛祖に代わって説法する道場。室内中央の須弥壇には本尊の如意輪観世音菩薩を祀る。

 

 

 

涅槃図 寛政年間頃(1700頃)の作品で伊達家からの寄進物。縦約4m、横約5mの大作。釋尊80歳の時、クシナガラの地で病に臥し、8本の沙羅双樹の間に北枕で右脇を下にして身を横たえ入滅される姿を描いたもの。周囲には嘆き悲しむ菩薩、弟子、天人、俗人、様々な動物たちが描かれており、右上には釋尊の母、摩耶夫人が飛来している。8本の沙羅双樹の中を選ばれたのは、佛の自在神力を示すためで、4本の沙羅双樹は最後の説法が終わるとたちまち枯れ、他の4本は青々と栄えたと言われる。これを四枯四栄といい、釋尊の肉体は涅槃に入りたもうとも、説かれし佛法は後世に残り栄えることを示す。毎年2月15日の涅槃会の時に開かれる。

 

釈迦三尊像 本来であれば佛殿に安置される三尊佛だが、寛政11年(1799)に火災に遭い、その後は佛殿は再建されず、法堂西序室中の上段に仮安置し現在に至っている。その為、現在は法堂西の間を佛殿としている。中央は釋迦牟尼如來、右は獅子座に乗る智慧の象徴の文殊菩薩。左は象座に乗る普賢菩薩は慈悲の実行の象徴の菩薩。

 

 

庫裡 寛政11年(1799年)頃に建築され、間口約33m、奥行約17mで、法堂に次ぐ規模の大きな茅葺の建物。

 

 

 

 

開山堂【岩手県指定有形文化財】 嘉永2年(1849)頃の再建。

 

 

開山堂への階段回廊。

 

お堂正面には永平寺開山道元禪師像、總持寺開山瑩山禪師像、總持寺二祖で正法寺開山の無底禪師の師匠にあたる峨山禪師像、歴代山主(住職)のお位牌をお奉りしている。

 

 

両脇には、釋尊の弟子で悟りを開かれた、特に優秀な16人の弟子である十六羅漢像が安置されている。

 

 

庭園。

 

 

開山堂から報道を見る。

 

 

 

 

庫裡・鐘楼堂【国重要文化財】江戸末期の建築で現在も定刻に時を知らせる梵鐘を一日も休むことなく撞いている。庫裡は寄棟造の160坪近い大建築で、応接間、尚事寮(寺務を司る)、旧典座寮(食事を司る)など様々な機能を持つ建物。

 

 

境内の様子。

 

 

案内図  東北新幹線水沢江刺駅から11.2km  東北自動車道奥州スマートICから12.7km

 

 

御朱印

 

 

正法寺 終了

 


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