『五木寛之の百寺巡礼』を往く

五木寛之著「百寺巡礼」に載っている寺100山と、全国に知られた古寺を訪ね写真に纏めたブログ。

41 東本願寺

2023-10-09 | 京都府

第26番 東本願寺

 

親鸞の思いが生き続ける大寺

 

西本願寺の次に東本願寺を参拝した。西本願寺は自由に写真を撮ることができたが、東本願寺の堂内の撮影は駄目であった。また西本願寺と比較すると東本願寺は見どころは少ない。

東本願寺の名は通称であり、西本願寺に対して東に位置することに由来して、愛称は「お東」「お東さん」。

天正19年(1591)、浄土真宗本願寺派法主で本願寺11世の顕如は、豊臣秀吉により新たに寺地の寄進を受け、本願寺を大阪天満から京都堀川六条に移転させた。慶長7年(1602)に、後陽成天皇の勅許を背景に徳川家康から、豊臣秀吉の命により本願寺の寺内で隠居所を設けて、北方に隠居させられていた顕如の長男・教如へ烏丸七条に寺領が寄進された。これにより、本願寺は正式に顕如の三男・准如の西(本願寺)と、新たに分派してできた教如の東(大谷派)に分立した。

分立当初の両本願寺はともにいくつかの呼び名があったが、便宜上、堀川六条の本願寺の東側にある烏丸七条の本願寺が「東本願寺」と通称されたため、相対的に堀川六条の本願寺も「西本願寺」と通称されるようになった。

万治元年(1658)に、3年後の親鸞聖人四百回御遠忌があるため、老朽化していた阿弥陀堂・御影堂を再建する。天明8年(1788)の天明の大火によって両堂が焼失。その後、寛政10年(1798)に徳川幕府による用材の寄進があり、二つの堂は再建された。その後、度々の火災に遭うこと4度。その火災の多さから「火出し本願寺」と揶揄された。しかし、東本願寺が火元となったのは、文政6年(1823年)11月15日の火災のみである。現在の阿弥陀堂と御影堂は、明治13年(1880)から15年かけて明治28年(1895)にようやく落成した建物である。建築・障壁画等の製作には当時の第一級の職人が参加している。

東本願寺は、お東騒動と呼ばれる内紛が起こり、その結果、昭和62年(1987)に、「包括宗教法人 真宗大谷派」に吸収されてその直属の宗教施設となった。そこで、通称「東本願寺」は正式名称を「真宗本廟」に改称した。よって現在、真宗本廟は真宗大谷派が管理する伽藍で礼拝施設等の総称であり、宗教法人法による「寺院」ではない。

これ以降厳密には本願寺と呼ばれる寺院は、下京においては浄土真宗本願寺派本山の本願寺は、通称の西本願寺のみとなっている。いまでは真宗本廟の通称として「東本願寺」の名称が引き続いて使用されている。

 

参拝日    平成30年(2018)10月4日(土)天候曇り時々小雨

 

所在地    京都府京都市下京区烏丸通七条上ル常葉町754                  山 号    なし                                    宗 旨    浄土真宗                                  宗 派    真宗大谷派                                 寺 格    本山                                    本 尊    阿弥陀如来                                 創建年    慶長7年(1602)                               開 基    教如(本願寺12世)                             中興年    文明3年(1471)                               中 興    蓮如(本願寺第8世)                             正式名    真宗本廟                                  別 称    お東、お東さん                               文化財    御影堂、阿弥陀堂(国重要文化財)  

 

 

東本願寺の前の烏丸通。 京都駅前から京都御所を通り烏丸北大路まで伸びる。

 

 

 

 

東本願寺を取り囲む築地塀と小さな堀が巡る。

 

 

 

 

 

御影堂門の前から京都タワーを見る。

 

 

境内の案内絵図。

 

阿弥陀堂門【国重要文化財】   明治44年(1911)に再建。切妻造り・檜皮葺きの四脚門。正背面に唐破風を設ける。境内で京都駅に一番近く、段差の無いバリアフリーの門である。江戸時代中頃に「唐門」の名称で建てられる。

 

 

境内の内側から見る。

 

菊の門(勅使門)【国有形文化財】     門扉に菊の紋があることから菊の門と呼ばれているが勅使門とも呼ばれる。慶長9年(1604)に徳川家康が寄進したが、幾たびかの火災で焼失した。

明治44年(1911)の親鸞聖人六百五十回忌迄の再建に間に合うよう、名古屋の信者2名が勅使門の寄進を申し出た。勅使門の設計は亀岡末吉、施工は名古屋の鈴木幸右衛門、金物製作は京都の中村猪之助、塗工は京都の三上治三郎という当代の第一人者が担当した。工事は2年かけ明治44年(1911)に完成した

 

 

菊の紋は岩倉具定宮内大臣により、使用が特別に許可されたいきさつがある

 

 

玄関門【国有形文化財】   明治44年(1911)再建。

 

御影堂門【国重要文化財】     明治44年(1911)に再建。高さ約28mの入母屋造・本瓦葺き・両脇に小さな門がある三門形式の二重門。東福寺、知恩院に当寺を合わせ京都三大門の1つである。上層(非公開)には、釈迦如来坐像を中央に、脇侍として向って右側に弥勒菩薩立像、左側に阿難尊者立像の三尊が安置されている。

 

 

「真宗本廟」の扁額を掲げる。

 

 

 

 

 

破風の飾り金物が煌びやかな妻側。

 

 

欅の柱と袖の彫刻模様。

 

 

門扉。

 

 

照明の下げ灯籠。真下から撮ってみた。

 

 

門内から御影堂を見る。

 

 

大きな御影堂が現れる。

 

 

御影堂門を潜り境内の入る。

 

 

境内から見る京都タワー。

 

 

総合案内所・お買い物広場。

 

阿弥陀堂【国重要文化財】  東本願寺の本堂。禅宗様を取り入れた仏堂で、本尊・阿弥陀如来立像を安置する。屋根は瓦葺きの単層入母屋造。建築規模は、間口52m・奥行き47m・高さ29mである。床広さは御影堂の半分以下しかないが、全国屈指の規模の仏堂である。現在の建物は、15年の歳月をかけ明治28年(1895)に完成した。平成に入り、5年間におよぶ修復工事は平成27年(2015)に完了。

 

 

向拝廻りを横から見る。正面は御影堂。

 

 

 

 

 

 

 

堂内は、内陣・外陣・参拝席に分かれている。内陣の本間中央に須弥壇を設け、その壇上の宮殿内に本尊・阿弥陀如来(木像・立像)が安置される。また、本間右側の壇上には「聖徳太子御影」の絵像が、本間左側の壇上には「源空上人御影」の絵像が奉掛される。

 

 

 

 

 

阿弥陀堂側から御影堂側を見る。

 

 

軒下の木組みの様子。

 

 

阿弥陀堂から阿弥陀堂門を見る。

 

 

境内から京都タワーを見る。京都駅の建物が壁のように見える。

 

 

手水舎【国重要文化財

 

 

西に阿弥陀堂、東に御影堂と二つの堂宇を結ぶ渡り廊下。

 

 

渡り廊下【国重要文化財】「造り合い廊下」とも呼ばれ、明治の東本願寺再建に関連した毛綱、大橇 鼻橇、尾神嶽、雪崩被災のジオラマが展示されている。

 

 

渡り廊下から見た、外部の窓の意匠。

 

 

 

阿弥陀堂の妻側。

 

 

阿弥陀堂から御影堂と御影堂門を見る。

 

 

御影堂を見る。

 

 

御影堂の妻側を見る。

 

御影堂【国重要文化財】  「ごえいどう」と読む。 境内のほぼ中心に位置する。和様で建てられた、宗祖親鸞の坐像である「御真影」を安置する建物である。屋根は瓦葺きの重層入母屋造。外観が二重屋根であるため二層建築に見えるが、下部は裳腰であり単層建築である

 

建築規模は、間口76m・奥行き58m・高さ38mで、建築面積は東大寺大仏殿を上回る。現在の建物は、明治13年(1880)に起工し、明治28年(1895)に完成した。平成16年(2004)から平成21年(2008)にかけて大規模修復が行われた。総工費は約98億円である。御影堂の瓦の枚数は175,967枚で、その内の3割は修復時の検査で合格した瓦を再利用して葺いている。再利用した瓦(明治瓦)は風雨に晒されにくい裳階の奥側、「受平瓦」よりも奥に用いられてた

 

 

御影堂から御影堂門を見た。

 

 

向拝から。

 

 

 

 

扉の装飾金物がこげ茶の古木に鮮やかに映える。

 

 

堂の外側を巡る広い回廊。

 

 

 

 

堂内は阿弥陀堂と同じく、内陣・外陣・参拝席に分かれている。内陣は横に7つの室に分かれていて、中央の間を「内陣本間」と呼ぶ。「内陣本間」側から、左側の余間を「十字の間」・「九字の間」・「飛檐の間」と呼び、同じく右側の余間を「六軸の間」・「新六軸の間」・「御簾の間」と呼ぶ

 

 

「内陣本間」の中央に須弥壇上を設け、その上に「御厨子」を置き、「御真影」を安置する。「内陣本間」の左右壇上には歴代門首の絵像が奉掛される。

 

御影堂はかつては「大師堂」と呼ばれていた。その由来は、明治9年(1876)に明治天皇から親鸞に対して「見真大師」の大師謚号(おくりごう)が贈られたためである。だが、昭和56年(1981)に「宗憲」が改正された際、「見真大師」号が削除され、同時に大師堂の呼称が取りやめられて御影堂の呼称に復された。

 

 

基壇から欄干の様子。

 

 

当日は、時々小雨。

 

 

巨大な御影堂門を見る。

 

 

 

 

 

梵鐘は、平成22年(2010)に新しく造られ、今まで使用していた梵鐘。

 

 

 

鐘楼【国重要文化財】  明治27年(1894)に再建されたもの。

 

 

 

 

 

境内から見る京都タワー。古都京都の寺町のシンボル・・・蝋燭をイメージして造られたそうだ。

 

 

案内図

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーーー「わがはからいにあらず」広い御影堂に黙って座っていると、どこからか親鸞の静かな声が聞こえてくるような感じがした。                 〈他力〉といえば、すぐに〈他力本願〉という言葉が浮かんでくるだろう。一般に他力本願といえば、「あなたまかせ」「他人まかせ」の意味で用いられることが多い。世間では〈自助努力〉の反対の表現として通用しているようだ。最近流行の〈自己責任〉を強調する際にも、他力本願ではいけない、と言われたりする。時代とともに言葉の意味が少しずつ変わってくるのは仕方がないことだが、〈他力本願〉の本当の意味は、決して「あなたまかせ」「他人まかせ」「無責任」ではない。それはひときわくっきりとした強い世界観にもとづく大きな思想であり、危機に直面した人間にとってのたのもしい力であると言っていい。他力とは、宗派を超えて現代人すべての心に働きかける激しく大きな力だと、私は思っている。そして、いま、この心の危機の時代にこそ、〈他力〉の考え方が輝いてくると感じないではいられないのだが。

 

 

御朱印

     なし

 

 

東本願寺 終了

 

(参考文献) 東本願寺HP フリー百科事典Wikipedia  

       五木寛之著「百寺巡礼」第一巻京都(講談社)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


40   岩松院 

2023-10-08 | 長野県

古寺を巡る 岩松院

葛飾北斎の天井絵のある信州・小布施の古寺

 

軽井沢に泊まりそこを起点に信州の街歩きを楽しむ、そんなことを年に一度は行っている。なかでも小布施まで足を延ばし、櫻井甘精堂の栗おこわを食べに行くことは例年の行事としている。その小布施には、葛飾北斎の天井絵で有名な古寺の岩松院があり、参拝をすることにした。文化財として価値のある建築物ではないが、戦国の武将福島正則や葛飾北斎、俳人小林一茶ゆかりの寺として名が知れた寺である。 境内には一茶の「やせ蛙まけるな一茶これにあり」という名句を詠んだ蛙合戦の池がある。
寺伝では永享2年(1430)に浄土教の千僧林念仏寺として創建され、文明4年(1472)、小布施の雁田城主・荻野備後守常倫の開基で、不琢玄珪禅師が開山となった。

 

 

参拝日    平成30年(2018)10月18日(木) 天候曇り

 

所在地    長野県上高井郡小布施町615                        山 号    梅洞山                                   宗 派    曹洞宗                                   本 尊    釈迦如来の書                                開 山    文明4年(1472)                              開 基    荻野備後守常倫                               文化財    天井図「大鳳凰図」 高井鴻山の書

 

参道の風景。

 

 

参道から山門へ。

 

 

拝観の案内。

 

 

山門。

 

 

山門。

 

 

仁王像は阿形像と吽形像と思われるが、寺を守る力強さや怖さがなくどこかユーモラスな像。

 

山門に掲げられた扁額「金剛屈」。

 

 

総欅造り。千社札がびっしり。

 

 

山門を潜った先の参道を見る。

 

 

階段を上がると正面に本堂が建つ。

 

 

本堂の全景。

 

 

本堂正面。

 

 

その通りだ!!。

 

 

香炉。香炉の下で香炉を支えている者は、何者だろうか?

 

この寺の目的はこれだ。

 

 

本堂を横から見る。写真の正面に庫裡。

 

 

本堂の軒下。

 

 

本堂の前から見た境内の全景。

 

 

本堂の正面に掲げられた山号の扁額。

 

 

本堂の入り口。

 

 

堂内に掲げられた寺名の扁額。

 

大鳳凰図【小布施町宝指定】   この寺の最大の関心ごとは、本堂の天井に葛飾北斎の晩年の大作「大鳳凰図」である。嘉永元年(1848)に北斎89歳の作の絵で21畳敷と言われる大きな絵が描かれている。図は、天井で実際に舞っているかのような迫力があり、その鳳凰は八方睨みをしていて、鋭い目はどこからみてもこちらを見据えている。(写真は岩松院HPより)

 

160年以上を経過したが鮮やかな色彩を保っている。図は、間口6.3m、奥行5.5mの大画面を12分割し、床に並べて彩絵した後、天井に取り付けられた。朱・鉛丹・石黄・岩緑青・花紺青・べろ藍・藍などの顔料を膠水で溶いた絵具で彩色され、周囲は胡粉、下地に白土を塗り重ね緊迫の砂子が蒔かれている。図にはかくし絵として富士山が描かれている。(写真は岩松院HPより)

 

 

本堂の脇に建つ庫裡。

 

 

 

福島正則の霊廟への石段。

 

元和5年(1619)、福島正則の居城・広島城を無断で改築したとして、当時の二代将軍徳川秀忠の徳川幕府により、城は元より統治していた安芸・備後50万ともに没収。信濃国の高井郡と越後国魚沼郡4万5千石を治めている高井野藩に改易された。岩松院はその福島正則の菩提寺である。

 

 

福島正則の霊廟。 寛永元年(1624)に建立。間口5.4m 奥行き6.3m。

 

 

小林一茶句碑『やせ蛙負けるな一茶是にあり』。

 

 

鐘楼。

 

 

 

 

 

帰りの本堂から山門へ。

 

 

寺院の全景。雁田山の裾に広がるのどかな寺の風景。

 

 

案内図

 

 

御朱印

 

 

 

岩松院 終了

 


39 西本願寺

2023-10-06 | 京都府

第27番 西本願寺

 

信じる力が生み出すエネルギー

 

西本願寺は初めてである。かなり見ごたえがある寺なのだが、東山や嵯峨野などと比べると観光客が断然少なくゆっくり参拝できる。境内は大きく、巨大な堂宇が二つもあり、京都三閣(ほか金閣、銀閣)の一つ飛雲閣も建っている。一日中見てても見飽きない唐門。それに桃山文化が見事な書院がある。国宝と重文だらけの寺院は、そのお宝をなかなか見せてくれない。飛雲閣と唐門は修繕工事中(飛雲閣は常日でも非公開である・・・)で、書院も通常非公開。書院は通常非公開だが、月の法要日に参拝すれば見学できるそうだ。ということで、見どころ満載の寺院は、見れない個所だらけだった。

真宗大谷派の本山である東本願寺(正式名称「真宗本廟」)と区別するため、両派の本山は通称で呼ばれることが多い。京都市民からは「お西さん」の愛称でも親しまれている。

文久7年(1272)に、親鸞の末娘の覚信尼が東山の大谷に親鸞の遺骨を改葬し、廟堂を建てたことに始まる。室町時代には、多数の門徒を抱える仏教集団に発展した。その後、比叡山延暦寺から迫害を受けるなど場所は転々とし、現在地には天正19年(1591)に豊臣秀吉の寄進により、大阪天満から移転した。

 

参拝日    平成30年(2018)10月4日(土) 天候曇り

 

所在地    京都府京都市下京区堀川通花屋町下る門前町60
山 号    龍谷山
寺 名    西本願寺
宗 旨    浄土真宗
宗 派    浄土真宗本願寺派
寺 格    本山
別 称    お西さん   
本 尊    阿弥陀如来                                 創建年       大谷本願寺・元享元年(1321)  西本願寺・天正19年(1591)                          開 山    大谷本願寺・覚如(本願寺第3世) 西本願寺・顕如(本願寺第11世)  
開 基    本願寺第11世顕如                                 正式名    竜谷山本願寺                                   中興年     文明3年(1471)                              中 興    連如(本願寺第8世)
文化財    御影堂 阿弥陀堂 書院 唐門 飛雲閣ほか(国宝)  
       経堂 鐘楼 手水場 総門ほか(国重要文化財)
 

 

 

境内地図

 

本願寺伝道院【国重要文化財】    塔屋のイスラム風が特徴の明治の洋館。明治28年(1895)に設立された真宗信徒生命保険会社の社屋として、東京帝国大学教授伊東忠太の設計、竹中工務店の施工により建築された。様々な使用を経た後に「浄土真宗本願寺派布教研究所」となり、昭和33年(1958)あそか診療所として1階が改修され使用された。その後、僧侶の教化育成の道場として今日にいたっている。

 

 

総門【国重要文化財】。 西本願寺の御影堂門の前に、堀川通りを挟み対面にある門。門の手前は仏壇や仏具の店が並ぶ門前町。

 

 

数珠を中心にした仏具の店。創業160年だと言う。

 

 

堀川道を渡り切って総門を振り返る。

 

 

堀川通と呼ばれる国道1号線。

 

 

堀川通と西本願寺の築地塀の間に小さな堀があるが水は無い。 

 

 

 

 

北小路通 北の西本願寺と南に建つ興正寺との間の通路。築地塀が京都らしい雰囲気を味わえる。塀は切妻造、本瓦葺の版築の塀で5本の定規筋が引かれている。江戸中期~後期の建築。右奥手に唐門(国宝)と手前右手に飛雲閣(国宝)があり、いづれも改修工事中。

 

唐門【国宝】  境内の南側、北小路通に南面して建ち、対面所のある書院の正門。桃山時代の豪華な装飾彫刻を充満した檜皮葺き・唐破風の四脚の造り。前後に計4本の控え柱をもつ四脚門形式。。総漆塗り、極彩色彫刻と鍍金金具で装飾しており、日暮し眺めても飽きないとされることから「日暮門」の俗称がある。いまだ以て、この門が最初に本願寺に現れた年代や事情ははっきりしていない。残念ながら参拝の際は、修繕工事中で工事用仮設に覆われ見ることはできなかった。次回、京都に来た際の撮影をしよう。(写真は西本願寺のHPより)

 

 

御影堂門【国重要文化財】   親鸞聖人600回大遠忌を前に、安政6年(1859)に大阪の講社が担当し修理。昭和35年(1960)には、親鸞聖人700回大遠忌を前に修理。平成18年(2006)にも3年をかけ修理を行っている。

 

 

 

 

 

目隠し塀【国重要文化財】 阿弥陀堂門を入り目の前にある独立塀。切妻造、本瓦葺、真壁造の塀で、江戸後期の建築。浄土真宗の宗祖・親鸞聖人をお祀りする御影堂が丸見えにならない目隠し。

 

 

阿弥陀堂の前の境内。

 

 

御影堂の西側には飛雲閣(国宝)があるが、ただ今修理中で仮設に覆われて何も見えない。

 

飛雲閣【国宝】 境内の東南隅にある名勝 滴翠園の池に建つ三層柿葺の楼閣建築。初層は入母屋造りに唐破風と千鳥破風を左右に、二層は寄棟造りに三方には小さな軒唐破風を配し、三層は寄棟造りと実に変化に富んだ屋根になっている。二層、三層と建物は小さくなり、その中心も東に移るという左右非対称ながら巧みな調和を持つ名建築として知られている。全体的に柱が細く障子の多いことから、空に浮かぶ雲のようだということで、飛雲閣と名づけられたといわれる。(写真は西本願寺HPより)

 

 

一層は主室の招賢殿と八景の間、舟入の間(写真右)、さらに後に増築された茶室・憶昔(写真左)からなる。庭園と一体となった、日本を代表する建築の一つ。(写真は西本願寺HPより)

 

 

鐘楼【国宝】 飛雲閣に付随し、江戸時代の元和4年(1618)に建立。桁行一間・梁間一間で、切妻造の陶製本瓦葺。妻側には彩色された彫刻が見られる。

 

 

 

 

 

龍虎殿  参拝の受け付け処。

 

 

御影堂【国宝】 「ごえいどう」と読む。寛永13年(1636)に再建された。中央に親鸞聖人の木像、両脇に本願寺歴代宗主の影像を安置。

 

 

堂の大きさは本堂の阿弥陀堂より大きい東西48、南北62m、高さ29m。江戸時代の建築物としては最大級の建物である。

 

 

堂の西側を見る。 軒先柱や建登せ柱(通し柱)でこの大きな屋根を支えている。

 

 

妻飾り部の懸漁。 妻側は、二重虹梁大瓶束で、蟇股および菊や波をあしらった透かし彫りで飾っている。(写真では判らない)

 

 

向拝正面。

 

 

向拝を横から見る。正面には三間幅の向拝を付して木階(きざはし)六級を設ける。

 

 

幅2間はある堂の外側を覆う広縁。

 

 

建登せ柱や軒柱、多様な紅梁など江戸時代前期の高度な架構や技法を駆使し、当時の超大型建築物を構築している。

 

 

堂の正面入り口。

 

 

外陣部は多数の門徒を収容するため、441畳の大きな空間を有し、太い柱が建ち並び上部に紅梁を掛けわたし大きな空間を支えている。 この堂の太い柱は100本以上使用されているという。

 

 

内陣まわりは、金箔、彫刻欄間、障壁画、彩色を施し壮厳さが感じる。

 

 

建立当時の明かりは、ろうそくなどが主体だったので、天井からの照明は現代の器具だろう。

 

 

内陣の正面には「見真」の扁額。見真の意味は、真実の理を見抜くことにあるが、浄土真宗の宗祖親鸞に対して明治9年(1876)11月28日に宣下された大師号。

 

 

金箔を施された内陣の造作。

 

 

背の高い障子戸と菱目格子の欄間。

 

 

御影堂から阿弥陀堂を見る。御影堂が阿弥陀堂よりも大きな造りとなっているには浄土宗と浄土真宗の大寺院の大きな特徴である。これは、阿弥陀如来を祀る本堂よりも宗祖を祀る御影堂の方を大きく作り、宗祖の像を背景として、大勢の信者・門徒を相手に法話を行うようにしているためである。

 

 

 

渡り廊下【国宝】  御影堂と阿弥陀堂を結ぶ渡り廊下。

 

 

阿弥陀堂から見た御影堂。

 

 

国宝御影堂と国宝阿弥陀堂を結ぶ渡り廊下。

 

 

阿弥陀堂に移り、阿弥陀堂から見た境内の様子。

 

 

手水舎【国重要文化財】 破風板には錺金具を付け、四周を開放し花崗岩の四半敷で中央に石製の井戸と水盤を据えている。軸部は方形礎盤に几帳面取角柱を立て、内法虹梁で繋ぎ、柱頂部の舟肘木と内法虹梁上の蟇股で受け、鏡天井を張っている。

 

 

 

 

 

雨受け石桝。 大きな石桝を支えているのは「雨の邪鬼」で、身長38㎝だそうだ。

 

阿弥陀堂【国宝】 西本願寺の本堂である。宝暦10年(1760)に 再建。南北45m、東西42m、高さ25m。中央に本尊の阿弥陀如来立像、両脇にインド・中国・日本の七高僧の内、龍樹菩薩・天親菩薩・曇鸞大師・道綽禅師・善導大師・源信和尚の六師を、両余間に法然聖人と聖徳太子の影像を安置している。

 

 

 

正面向拝を見る。

 

 

 

 

 

 

向拝を横から。

 

 

外陣から内陣を見る。

 

 

 

内陣は欄間彫刻や柱や壁に金箔を施した。

 

内陣。平成29年(2017)8月より4年8か月にかけて内陣の修復工事を行った。修復は格天井、丸柱の漆塗り修理、彫刻や組み物の彩色修理、天井画と無地金障壁・襖の表具修理。それに格天井・須弥壇の飾り金物の金具宇野修理。併せて宮殿の修復を行った。

 

 

2017年から修理が始まり、参拝したのは2018年の秋。修理工事中と全然気付かなかった。

 

 

外陣の様子。 285枚の畳敷きだそうだ。

 

大銀杏  まるで根っこを天に広げたような形から「逆さ銀杏」とも呼ばれる樹齢約400年の大銀杏。京都市の天然記念物に指定。本願寺が火災があった時、この銀杏から水が噴き出して消し止めたという伝説から、「水吹き銀杏」とも。

 

経堂【国重要文化財】    経蔵に納められている『大蔵経(一切経)』は天海僧正の開版されたもので、寛永12年(1635)に江戸の寛永寺で発起し、12年をかけて完成した。

 

 

総合案内所。 阿弥陀堂門を入った左側にありさすが大寺院だ。

 

書院【国宝】  桃山時代に発達した豪壮華麗な書院造の代表的なもの。間取りは、大きく分けて対面所と白書院がある。それぞれの部屋に座敷飾(床、違棚、帳台構、付書院)を完備し、金碧障壁画や彫刻で飾られている。対面所は寛永年間(1624~44)に建築され、白書院はそれよりやや古い建物である。書院の障壁画は、渡辺了慶とその一派により描かれている。

 

 

白書院 三の間(孔雀の間)から一の間(紫明の間)を見る。                           (以下室内の写真は西本願寺HPより)

 

 

一の間一の間(紫明の間)。

 

対面所 本願寺の書院で一番規模の大きい広間。主にご門主との対面に使われた。上段正面の欄間に鴻の透かし彫りがあることから、鴻の間とも呼ぶ。対面所の構成は上段と下段からなり、下段は一六二畳敷の広大な座敷で、二列の柱で三つに分けられている。

 

 

上々段の手前にある軍配型の火灯窓(左)上段左の帳台構(中)上々段右の付け書院と違い棚(右)

 

 

上段の欄間の鴻の透かし彫り(左) 上段正面床の張良引四皓謁太子図

 

対面所下段左側の巨松と花鳥を描いた金碧松鶴図。

 

虎渓の庭  対面所の東にあり、桃山時代の様式を伝える特別名勝の枯山水。虎渓とは中国江西省の廬山にある渓谷のことで、御影堂の屋根を名山・廬山に見立てた借景とし、北側の巨石で表された枯滝から砂礫の川の流れが大海に注ぐ様を表現。(写真は西本願寺HPより)

 

 

阿弥陀堂門【国重要文化財】 江戸時代後期、天明8年(1788)頃に大阪別院から移築された。昭和58年(1983)、檜皮の葺替、飾金物と金箔押などの補修が行われた。

 

 

 

 

唐破風と天井下部分。

 

 

 

 

 

門柱の基礎部分。

 

 

門の袖壁と扉。

 

 

境内側から見た門。

 

 

横から見た阿弥陀堂門。

 

 

御成門【国重要文化財】切妻造、本瓦葺の高麗門。江戸後期の建築。

 

太鼓楼【国重要文化財】  境内の東北角にある重層の楼閣。内部に今も残る大きな太鼓は、江戸時代には周囲に時刻を告げる合図となっていた。 幕末、本願寺を一時的に屯所としていた新撰組による刀傷が、今も残っていると伝えられている。

 

 

堀川通から西本願寺の全景を見る。

 

 

案内図

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」からーーー浄土真宗は一神教的といっても、キリスト教のように、自分の神こそ唯一絶対の神であるという原理主義的な一神教ではない。他の神仏も八百万の神も認めるが、自分は阿弥陀仏だけを信じるとかたく決める人間的な生き方だ。世の中には多数の母親がいるが、わが母はただ一人、というようなものかもしれない。信仰を持つことは、人生における目的になるだろうか。いや、人生には決められた目的というものはない、と私は思っている。それでも、目的のない人生はさびしいものだ。さびしいだけでなく、むなしい。むなしい人生は、大きな困難にぶつかったときに、なかなかつづかないものだ。人生の目的とは、「自分の人生の目的」をさがすことではないか、と私は前に書いた。自分ひとりの目的、世界中の誰ともちがう自分だけの「生きる意味」を見出すことこそ人生の目的なのでないだろうか。そのためには、まず生きなければならない。行きつづけていてこそ、目的もあきらかになるのである。そんな目的は、私たちが生きているあいだには、なかなか見つからないかもしれない。でも、人はなお生きつづけていく。

 

 

御朱印

なし

 

西本願寺 終了

 

(参考文献) 西本願寺HP フリー百科事典Wikipedia  WANDER国宝HP  閑古鳥旅行社HP

       五木寛之著「百寺巡礼」第一巻京都(講談社)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


38 浄瑠璃寺

2023-10-03 | 京都府

第28番 浄瑠璃寺

 

いのちの尊さを知る、浄瑠璃浄土

 

 

 

 

奈良駅前から1時間に1本のバスを利用し30分で浄瑠璃寺の前に到着。浄瑠璃寺の場所は、京都府木津川市の山中にあるが、奈良から直通のバスが出ているので、こちらが便利。地理的にも奈良の地域に入る。雨の降る中、山の中にある古寺に参拝する団体客はない。10月の初めの土曜日でこ個人の参拝客は、かなり少ない。浄土式の庭園は雨に濡れて、しっとりと落ち着いた風景はすごく雰囲気が良く、心から癒してくれる古寺だった。

本堂に9体の阿弥陀如来像を安置することから九体寺の通称がある。緑深い境内には、池を中心とした浄土式庭園と、平安末期に建立された本堂と三重塔が残り、平安朝寺院の雰囲気を今に伝える。本堂は当時京都を中心に多数建立された九体阿弥陀堂の唯一の遺構としてた貴重である。

浄瑠璃寺の所在する地区は「当尾の里」と呼ばれ、付近には当尾石仏群と呼ばれる、鎌倉時代からのぼる石仏、石塔などが点在している。

浄瑠璃寺の創立については、永承2年(1047)、義明上人により本堂が建立され、60年後の嘉承2年(1107)、本仏の薬師如来を「西堂」に移したとの記録がある。この嘉承2年に建立された新本堂が、現存する国宝の本堂であるとするのが通説である。それから50年後の保元2年(1157)には本堂を西岸に解体して移築した解釈できる記録が残っている。すなわち、現存する本堂の建つ位置にほかならない。その後、浄瑠璃寺は建造物が増えてゆく。久安2年(1146)食堂と釜屋を建設、同6年には摂政藤原忠道の子の覚継が寺を整備する際に池を築造した。

 

参拝日    平成30年(2018)10月4日(土) 天候小雨のち曇り

 

所在地    京都府木津川市加茂町西小札場40                         山 号    小田原山                                   院 号    法雲院                                    宗 派    真言律宗                                   本 尊    九体阿弥陀仏(国宝) 薬師如来(国重要文化財)                創建年    永承2年(1047)                               開 基    行基  多田満仲(源満仲)                          中 興    義明上人                                   正式名    小田原山法雲院淨瑠璃寺                            別 称    西小田原寺  九体寺                             札所等    仏塔古寺十八尊第10番 ほか                          文化財    本堂、三重塔、木造阿弥陀如来坐像9躯、木造四天王立像4躯(国宝)        文化財    木造吉祥天立像、木造薬師如来坐像、木造地蔵菩薩立像ほか(国重要文化財)             庭 園    国の特別名勝・史跡

 

 

浄瑠璃寺入り口。  バス停から直ぐのところ。

 

 

細い道の参道が続く。沿道の立木は馬酔木とのこと。

 

 

境内図                                   上部が北

 

 

 

山門。 武家の門のようだが小さな門。

 

 

 

 

 

門を入るとすぐに案内看板。さすが京都や奈良の大寺院の看板とは異なり、こんなところにも風情がある。

 

 

門を入るとすぐに宝池が見える。三方が小高い丘に囲まれた境内は、中央に宝池、右手に本堂、左手に三重塔。小雨が降る中、箱庭のような静かな境内に人影はなく、風情が一層我が身にしみる寺だ。

 

 

本堂の方向へ。

 

 

本堂への拝観手続きと入り口(建物右手)と出口(建物左手)となる寺の社務所のような建物。

 

本堂【国宝】 嘉承2年(1107)に再建された。寄棟造、本瓦葺き。桁行11間、梁間4間(柱間の数を表す)。平面は「九間四面」、すなわち、桁行9間、梁間2間の身舎の周囲に1間幅の庇をめぐらした形式になる。安置する9体の阿弥陀如来像のうち、中尊は他の8体より像高が大きく、中尊を安置する堂中央部分の柱間は他の柱間より2倍近く広くなっている。

 

 

堂正面の柱間には、左右両端間は上半を連子窓、下半を土壁とし、他の9間は板扉になっている。隅の柱上に舟肘木を用いるほか、外周の柱上には組物を用いない、簡素な建物である。

 

 

 

 

白河院、鳥羽院の院政期を中心とした11 - 12世紀には、多くの九体阿弥陀堂が建立された。記録に残るものだけで30数例を数えるが、現存するものは浄瑠璃寺本堂のみである。これらの九体阿弥陀堂の多くは天皇家や有力貴族の建立したもので、浄瑠璃寺本堂のように地方の豪族によって建立されたものは珍しい。

 

本堂正面。写真はないが、堂内は板敷きで、身舎の奥寄りに横長の須弥壇を設け、9体の阿弥陀如来坐像を横一列に安置する。天井は身舎、庇とも、天井板を張らず、垂木などの構造材を見せる「化粧屋根裏」とする。

阿弥陀堂には、平等院鳳凰堂や富貴寺大堂など堂内を極彩色の壁画で飾り立てているのが特徴であるが、浄瑠璃寺本堂にはそうした壁画の痕跡はない。柱上の組物も用いない(隅柱に舟肘木を置くのみ)など、全体に簡素な造りである。九体仏のうち中尊を安置する部分の柱間を特に広く造り、求心性の高い建物である点が特色である

 

 

 

 

木造阿弥陀如来坐像 9躯【国宝    平安時代の作品で現存するものは浄瑠璃寺像のみである。9体とも檜材の寄木造、漆箔仕上げで、像高は中尊像のみが他より大きく、224.0Cm、脇仏8体は139.0Cm~145.0Cm 。 9体とも永承2年(1047)の作とする説と、嘉承2年(1107)の作とする説があり、像の制作年は判明はしていない。(写真は浄瑠璃寺HPより)

 

吉祥天立像【国重要文化財】 本堂内に安置。像高90.0cm。檜材割矧ぎ造、彩色・截金。『浄瑠璃寺流記事』によれば、鎌倉時代の建暦2年(1212)に本堂に安置されている。九体阿弥陀の中尊の向かって左に置かれた厨子内に安置され、春、秋、正月の一定期間のみ扉が開かれる秘仏である。構造はヒノキ材。像は蓮華座上に直立し、右腕は下げて与願印(掌を前方に向けて開く)とし、左腕は肘を曲げ、掌を肩の辺に上げて宝珠を捧持する。体部を白肉色とし、衣部は繧繝彩色を含む極彩色である。『大吉祥天女念誦法』に「身色白にして十五歳の女の如く」とある姿を表現したものである。像は黒漆塗の春日厨子に安置される。この厨子の扉と後壁に描かれた仏画も鎌倉時代の絵画資料として貴重なものである。ただし、オリジナルの扉と後壁は明治時代に流出して東京芸術大学の所蔵となっている。  (写真は奈良県観光局HPから)

 

木造四天王立像【国宝】 持国天  像高167.0 - 169.7cm。寄木造。漆箔・彩色・截金。平安時代後期の作。当初の彩色と截金文様がよく残っている。4体のうち広目天は東京国立博物館、多聞天は京都国立博物館に寄託。持国天と増長天は本堂内に安置。(写真は浄瑠璃寺HPより)

 

 

 

宝池の此岸側から弁天社と九体阿弥陀堂を見る。

 

 

 

 

 

此岸側から本堂を見る。

 

池の反対側から本堂を見ると、中央の阿弥陀如来の顔は本堂の庇に隠れて見えないが、池に映った姿を見ると顔も見える。池に映して見ることで、極楽浄土の世界を見るように設計されていた。当日は扉が閉まり堂内は見えない。

 

 

浄土式庭園の代表格ともいえる庭園。奈良時代の仏教の伝来とともに創られた独特な庭園で、「死後に清らかな世界浄土への往生を願う浄土思想」を表現したと言われる。

 

 

本堂正面に中島の先端となる州浜が玉石で造られた。7つの石で浄土の世界を表している。洲浜は池泉を美しく魅せる技法である。

 

 

彼岸側から見た州浜の石組。

 

 

石橋や州浜が特徴の一つ。昭和の中頃まで池水は著しく汚濁していた。この状態を改善すべく昭和50年(1975)に、境内の発掘調査と大規模な庭園整備が行われた

 

 

 

 

 

三重塔から此岸を通し宝池全景を見る。。

 

 

宝池の中島に造られた弁天社を彼岸側から見る。弁天社は平成29年(2017)に修復された。

 

 

 

 

 

 

 

 

彼岸から見る三重塔。

 

 

 

 

 

 

 

 

三重塔【国宝】 『浄瑠璃寺流記事』によると治承2年(1178)、京都の一条大宮から移建したとするが、もともとどこの寺院にあったものか不明である。

 

 

 

 

構造上の特色は、初層内部には柱がないことで、心柱は初層の天井から立てられている。浄瑠璃寺に移築された後、初層内部に仏壇を置きその上に薬師如来像(重文、秘仏)が安置された。初層内部の壁面には十六羅漢像などの壁画が描かれている。

 

 

 

 

 

 

 

三重塔が見える宝池西岸を彼岸という。三途の川を挟み人間が住んでいる世界(現世)を此岸、そして向こう側の仏様の世界(来世)を彼岸という。つまりお彼岸とは、我々人間の迷いや苦しみの原因となる煩悩のない、悟りの境地に達した世界であり、極楽浄土のことを言う。春分・秋分には太陽が三重塔から昇り、九体阿弥陀堂に沈むように配置されていて、太陽が「来世」から「現世」へ移動するのである。

 

 

石灯籠【重要文化財】    貞治5年(1366)の造。花崗岩。六角型(般若寺型)。「貞治五年丙午正月十一日造立之為法界衆生願主阿闍梨祐実」の銘が刻まれている。

 

 

宝池は回遊式庭園であり、歩道が整備されている。

 

 

何かの石組の跡かな?

 

 

鐘楼。治承2年(1178)鐘楼の建立。

 

 

なにのための石かな?。

 

 

山門を出る。

 

 

山門を出た参道の右側に風情のある茅葺屋根の食事処が見えた。

 

 

 

 

 

参道に立つ案内板。

 

 

参道の土産物屋。ここから直ぐバス停。

 

 

案内図

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーーやっと雨がやんだ。私は庭園から裏側にまわって阿弥陀堂のなかに入った。一歩足を踏み入れて、あ、と息を呑んだ。居ならぶ九体の阿弥陀仏に圧倒されたのである。堂宇はどちらかというと素朴なのだが、そのなかに二メートル強、あるいは一メートル五十におよぶ阿弥陀仏が横一列にずらりと並んでいるのは、ものすごい迫力である。私がこれまでもっていた阿弥陀仏のイメージは、どこかやさしい母性的な感じだ。しかし、阿弥陀如来像も、歴史によってかなり変化するもののようだ。浄瑠璃寺の九体の阿弥陀如来像は藤原時代に流行した九体阿弥陀の唯一のいぶつだそうだが、体躯は堂々して、目から鼻、唇、肩、手にかけて、力強くしっかりしている。この九体は、同じデザインでつくられたそうだが、やはり彫る職人の個性がそれぞれにじみ出ているようだ。よく見ると一体一体が微妙に違う。機械的な仕事とはちがって人間の仕事はこうゆうところに面白みがある。堂々とした九体が、それぞれに縁なき衆生に顔を向け、それぞれの光を投げかけてくる。浄瑠璃寺という山間の寺の素朴な堂宇のなかに、おおらかでどっしりとした九体の阿弥陀如来が、天井低しとばかりに座っておられる姿は、あるショックを私にあたえた。

 

 

御朱印

 

 

浄瑠璃寺 終了

 

(参考文献) 浄瑠璃寺HP フリー百科事典Wikipedia  奈良県観光局観光プロモーション課HP(祈りの回廊) 五木寛之著「百寺巡礼」第三巻京都(講談社)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


37 元興寺

2023-10-01 | 奈良県

古寺を巡る 元興寺

日本最古の本格的仏教寺院の建物が移築された寺。

 

 

奈良市の中心部にある奈良町は、奈良時代の平城京の外京だったエリアで、平安末期の11~12世紀頃寺社の仕事に携わる人々によって形成された。中世以降は、「寺社のまち」、「商工業のまち」、「観光のまち」として発展してきた。豊かな歴史や文化が育み、町家などの歴史的建造物の家並が残り、風情のある街である。そのほぼ中心部に元興寺がある。

元興寺は、蘇我馬子が飛鳥に建立した日本最古の本格的仏教寺院である法興寺(飛鳥寺)が、平城京遷都に伴って平城京内に移転した寺院である。奈良時代には近隣の東大寺、興福寺と並ぶ大寺院であったが、中世以降次第に衰退して3つの寺院が分立した。

奈良時代の元興寺は、三論宗と法相宗の道場として栄え、東大寺や興福寺と並ぶ大伽藍を誇っていた。寺域は南北4町(約440m)、東西2町(約220m)と南北に細長く、興福寺の南にある猿沢の池の南方、奈良町と通称される地区の大部分が元は元興寺の境内であった。猿沢池南東側にある交番のあたりが旧境内の北東端、奈良市音声館(奈良市鳴川町)のあたりが旧境内の南西端にあたる。10から11世紀にかけて、東大寺、興福寺が勢力を増す一方で、元興寺は中央政権的な国家体制の律令制度が崩壊するに合わせ徐々に衰退していった。

極楽院と呼んでいた寺も明治以降は荒れ果て、本堂も昭和25年(1950)ころまでは床は落ち、屋根は破れるほどの荒れ方であった。極楽院の住職となった辻村泰圓は、戦後に社会福祉事業に尽力するかたわら、境内の整備や建物の修理を進めた。昭和37年(1962)に辻村氏により境内に財団法人元興寺仏教民俗資料研究所が設立され、昭和40年(1965)には寺宝を収蔵展示する収蔵庫が完成するなど、徐々に整備が進んだ。同研究所は、本堂解体修理中に屋根裏から発見された数万点の庶民信仰資料を研究することでスタート。昭和52年(1977)に「元興寺」と改称。平成22年(2010)禅室の一部に使用されている木材が世界最古の現役木製建築部材であることが確認された。

 

参拝日    平成30年(2018)10月2日(木) 天候晴れ

 

所在地    奈良県奈良市中院町11                           山 号    なし                                    宗 派    真言律宗                                  本 尊    智光曼荼羅                                 創建年    推古天皇元年(593)                             開 基    蘇我馬子                                  正式名    元興寺                                   別 称    元興寺極楽坊                                札所等    西国薬師四十九霊場第5番                           文化財    本堂、禅堂、五重塔小塔(国宝) ほか

 

 

奈良町と言われる古い町並みが並ぶ一角。

 

 

 

 

 

長名の由来が掲げられていた。

 

 

元興寺の塀の一画。

 

 

元興寺の入り口付近。

 

 

境内図。

 

 

元興寺への入り口。

 

 

東門【国重要文化財】。 鎌倉時代後期(1275~1332)に東大寺の塔頭であった西南院の門として建立された。室町時代前期の応永年間(1394~1427)に元興寺に移築したと言われている。鎌倉時代の寛元2年(1244)に本堂と禅室が大改造された際に、東向きの寺院に改めたことで東門が元興寺の正門になっている。

 

 

平成10年(1998)に古都奈良の文化財として世界遺産に登録された。

 

 

東門及び、拝観入り口。

 

 

東門を境内から見る。

 

 

東門から本堂を見る。

 

 

本堂の前の様子。

 

本堂【国宝】 極楽坊本堂または極楽堂とも呼ぶ。寄棟造、瓦葺で、東を正面として建つ(東を正面とするのは阿弥陀堂建築の特色)。この建物は寄棟造の妻側(屋根の形が台形でなく三角形に見える側)を正面とする点、正面柱間を偶数の6間とし、中央に柱が来ている点が珍しい(仏教の堂塔は正面柱間を3間、5間などの奇数とし、正面中央に柱が来ないようにするのが普通)。

 

 

 

 

向拝を見る。

 

 

柱の上の枓栱は単層で、ほかに彫刻や飾り物などの無い簡素な造り。

 

 

 

 

内部は板敷きの内陣の周囲を畳敷きの外陣がぐるりと囲んでおり、内陣の周囲を念仏を唱えながら歩き回る「行道」に適した構造になっている。鎌倉時代の寛元2年(1244)、旧僧房の東端部分を改造したもので、内陣周囲の太い角柱や天井板材には奈良時代の部材が再用されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本堂の南側を見る。

 

本堂の南側の境内に整然と並べられた石塔。禅室の北西部石舞台に積み上げられていたものを、昭和63年(1988)に、並べ直し浮図田と呼んでいる。(浮図とは仏陀のことで、仏像、仏塔が稲田のごとく並ぶ場所という意味)

 

 

本堂の西側に並ぶ禅堂。

 

禅室【国宝】   切妻造、瓦葺。本堂の西に軒を接して建つ。元は現・本堂と東西に長いひと続きの僧房であったものを鎌倉時代に改築した。正面の4箇所に板扉があり、区画に分かれていた。1区画には5-8人の僧が生活していた処。本堂と同様、部材や屋根瓦の一部には奈良時代のものが残っていて、西暦582年に伐採された樹木が使用されていて、本堂より古い材木が使用されている。

 

 

 

 

屋根瓦の一部にも飛鳥〜奈良時代の古瓦を使用。ここに使われている古瓦は上部が細くすぼまり、下部が幅広い独特の形をしており、この瓦を重ねる葺き方を行基葺(ぎょうきぶき)という。

 

 

家形石棺型手洗鉢。

 

 

かえる石。  境内北側にあるガマガエルのような石は、古くから有名な奇石で蛙石と呼ぶ。この石は、以前にかかわった有縁無縁一切の霊を供養して極楽にカエルと成就している。極楽堂に向って誓願の「無事かえる」「福かえる」など衆生の願を聞いてくれると言う。

 

 

獅子国型仏足石。 獅子国とはスリランカのことで、同国と元興寺の友好を機に設置された。

 

 

 

元興寺総合収蔵所。 昭和40年(1965)に建てられた鉄筋コンクリート造の宝物の展示館。

 

収蔵庫には、奈良時代の五重小塔(国宝)が見もの。境内に建てられた五重塔と同時に五重小塔も製作され現在まで保存されている。小さいが非常に精巧につくられいる。収蔵庫には他に、平安時代に描かれた板絵の智光曼荼羅(国重要文化財)、平安時代制作の阿弥陀如来坐像(国重要文化財)、鎌倉時代の聖徳太子立像(国重要文化財)、鎌倉時代の弘法大師坐像(国重要文化財)などがある。

 

 

五重小塔【国宝】  収蔵庫に安置。奈良時代の制作。高さ5.5m。小塔であるが、内部構造まで省略せずに忠実に造られているため「工芸品」ではなく「建造物」として国宝に指定。同じく建造物として国宝に指定されている海龍王寺の五重小塔は、奈良時代の作であるものの内部構造は省略されているため、現存唯一の奈良時代の五重塔の建築構造を伝える資料として貴重である。かつては「小塔院」の建物小塔堂内に安置されていたと伝えられる。一貫して屋内にあったため傷みが少ない。(写真は元興寺のHPより引用)

 

聖徳太子立像【国重要文化財】  本像は孝養像と呼ばれるもので、文永5年(1268)に仏師善春等によって作られ、僧俗約5千人による勧進結縁 で出来あがった。おそらく文永9年(1272)の太子生誕650年を記念して造立されたと推定される。太子16歳の時、父用明天皇の病気平癒を祈る姿だという。元興寺は「聖徳太子四十六ヶ伽藍之随一也」とする考えが成立し、南都の律僧達が太子信仰に拠って極楽坊をその拠点としたことが太子像造立の契機となった。(写真が元興寺HPより引用)

 

 

案内図

 

 

 

御朱印

 

 

元興寺 終了

 

(参考文献)   元興寺HP  フリー百科事典Wikipedia  奈良県観光局ならの観光力向上課HP

         五木寛之著「百寺巡礼」第一巻奈良(講談社)