詩と写真 *ミオ*

歩きながらちょっとした考えごとをするのが好きです。
日々に空いたポケットのような。そんな記録。

苦手なものにこそ才能がある?

2022年09月21日 | 雑記

現在『記号論への招待』(著者 池上嘉彦)を読んでいるのですが、「記号内容」とは「指示物」なのか「意味」なのか、というところで、はっとして、ここしばらく、なんとなく考えていたことが立ち上がってきたので、書き留めておきたいと思います。


(『記号論への招待』を読むきっかけについても書きたかったのですが、そうすると、いつまでも本題に辿り着けそうにないので諦めました。今度そこも書きたいです)
 
「人間が当事者となるような伝達では、多くの場合、同じ価値を有しているとされる一連の対象(指示物)に適用できるように記号内容が規定されているのが普通である」
 
記号内容は、指示物そのものを表すよりも、意味を表すことが、人の伝達においては一般的なのですが(たとえば、木と言ったら、ある一本の木を特定するわけではなくて、これこれこういうものを木と捉えている)、そのときに、何を同じと捉えるか、ということがとても重要な問題を孕んでいます。
 
このことは、以前読んだまた別の本に書かれていたことを思い出させて、とても興味深いです。その本には、人は、自ら考える、ということはできなくて、習慣によって処理できている物事を突き破ってくる現実によって考えさせられるのだ、といった内容のことが書かれていました(『哲子の部屋I 哲学って、考えるって何?』NHK出版』)。この習慣というのは、人が毎日を効率的に生きるために、毎日多少違う事象があっても、それらを「同じ」として捉えて対処することを指しています。
 
ところで、人は、不慣れなことに対しては、すべて異なるものとして捉えて処理するために、対応に時間がかかる(対応方法も学びながらですしもちろん)。やがて、それに慣れることによって、何を同じとして一括りに捉えて処理すればいいかがわかってくるので素早く対応ができるようになる(これは今井むつみ著『学びとは何か』で学びました)。
 
でも考えてみると、ある分野で才能があると言われる人は、人が同じと捉えてしまうことに対して繊細に違いを感じてしまう人なのではないでしょうか。つまりは、他の人が効率良く処理してしまうことに対して、引っかかってしまい、こだわってしまい、処理し続けようとしてしまう人たちなのではないか、などと、思ったのです。それを「好き」という言葉で表すこともできるのかもしれない。
 
新しいことを生み出す人というのは特に、多くの人が何も感じないところに引っかかってしまう(コードを無条件に受け取れない、もしくは違うふうに読んでしまう)ことによって、これまでなかったものを生み出すことができるのでしょう。
 
ということは、自分が効率良くできないこと、そこにこそ才能があるのかもしれない!?
 
そう考えるといろんなことに対して非常に効率の悪い私は、人生に対して、才能があるのかも!?と、
今日もやらなきゃいけないことがあるのに、このような記事を書いて、効率悪く過ごしてしまう私は思うのでした。
 
人が何を同じと捉えるか、ということ、言われてみれば本当に奥深いテーマで、予感だけで、すでにとても面白い。
 
同じではないものを、同じ仲間のように滑り込ませてしまうことによって与えるざらつきを、きらめくように創出してしまう詩とは、人間的な素晴らしいきらめきのひらめき、いや、ひらめきのきらめき(どちらでもいいか)なのかもしれないですね。
 
砂のざらつきも、楽しかったという感覚に結びつく


 
コードではなくて、コンテクストだったかもしれない……。
「愛とか」の記事も合わせてお読みいただけましたら、うれしいです。
記号学者のウンベルト・エーコが書いた小説『薔薇の名前』について書いています。
 
 
 
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