MIRO ITO発メディア=アート+メッセージ "The Medium is the message"

写真・映像作家、著述家、本物の日本遺産イニシアティブ+メディアアートリーグ代表。日本の1400年の精神文化を世界発信

奈良の季節:金春穂高氏の弁慶(安宅)と聖徳太子の見た夕陽

2008-03-28 00:31:49 | Weblog
奈良の季節
金春穂高氏の弁慶(安宅)と 聖徳太子の見た夕陽


12月、1月、2月、3月…と、奈良では太古の時代から続く宗教行事が目白押しであったため、この3~4ヶ月の間、足繁く奈良に通っていました。

12月の春日大社若宮おん祭り、1月の法隆寺の金堂修正会、2月の法隆寺西円堂修二会、3月の東大寺修二会(お水取り)、そしてこの日曜日からは薬師寺の修二会(花会式)が始まります。

先週23日には、私がコラボレーションをしている能楽師の金春穂高氏のお父様、故・金春晃實(てるちか)氏ならびにお祖父の金春流77世宗家=故・金春栄治郎の追善能(西御門金春会主催)がありました。

これまで伝統芸能と関わってきた5年あまりの歳月の中で、最高の御能の一つを観させていただきました。すばらしい名演技をされた金春穂高氏の「安宅」での、勧進聖としての弁慶役は、鬼気迫る、すばらしい迫真の演技でした。お面をつけない、ひた面でありながら「ヒト」であることを越えられた、大きな存在感とエネルギーの充実がそこに「在った」のです。

御能は、この世とあの世の境のような、さまざまな思いの集る場です。
御能の扱う「供養」のテーマ性については、もともと勧進聖(寺院の建立や修繕などのために寄付を集める方法として興行を催す僧侶)との関係が考察されています。お祖父さまとお父さまの供養のために、穂高氏の演じる弁慶は、それが方便としての勧進聖役であったとしても、まさにその境を越えるほどのダイナミックさと、神妙な集中力でした。

最初から最後までひた面(お面をつけない)で演じられたこともあって、400mmの望遠レンズ越しに拝見していた私には、穂高氏の魂が完全に透明に澄み切って天に放たれ、どこから大きな力がふり注いでいたのでしょうか、最高の霊気(オーラ)の漲りを感じました。
御能の「幽玄」とはこの霊気の充実のことなのだと、改めて深く感じ入った次第です。

またその前日の22日には、法隆寺の小会式(聖徳太子の命日の法要)を参拝してまいりました。

1月に法隆寺を訪れて以来、このところ聖徳太子への個人的な関心が高まっています。
宗教行事の撮影のついでに、かつて聖徳太子が子供たちに大陸からの渡来芸能である伎楽(ぎがく)を教えた、とされる「土舞台」跡を斑鳩の地に探し当てました。

奈良の桜井駅から徒歩10分ほどの場所であるはずだったのですが、地元の人もほとんど知らず、1時間ほど迷ってようやく探し当てたときは、夕陽が二上山を抱く神々の山麓に沈みかけていた時刻でした。

桜井の「土舞台」は、聖徳太子が、7世紀の初めに、日本で初めて「国立の演劇研究所」と「国立の劇場」とを設けられた場所として伝えられています。現在は、小学校の脇を上った小高い丘の上の雑木林に囲まれた、小さな一角でしたが、遥か1400年前の古代には、この同じ場所から聖徳太子が同じ夕陽を望むことができたことだろうかと思うと、感激がひとしおでした。

折から今週火曜日からは、上野の東京国立博物館の平成館にて薬師寺展が始まりました。
月光・日光菩薩が二体揃って、初めてお寺から「外出」して東京に来ており、早速観に行ってまいりました。

奈良には、30日からも薬師寺の花会式の撮影のために訪れます。
次回のブログは薬師寺から戻った後、東京に「訪問中」の日光・月光菩薩像について、ちょっと書いてみたいと思っています。

早春の上馬にて

伊藤美露
2008/3/28
text and photo by miro ito
sunset over ikaruga (view from TSUCHIBUTAI), 15.03.2008


 ☆☆☆☆☆☆☆☆  好評連載中 by 伊藤美露  ☆☆☆☆☆☆☆☆
 「極意で学ぶ 写真ごころ」(『アサヒカメラ』朝日新聞社)
 2008年の4月号のテーマは「写真の『迎え』と『先々の先」」p.202~205

 ☆☆☆☆☆☆☆☆  日本図書館協会選定図書  ☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 『魅せる写真術 発想とテーマを生かす撮影スタイル』
 著:伊藤美露 定価 : 2,079円 B5判/160P/オールカラー    
 ISBN 978-4-8443-5921-0
 発行:株式会社エムディエヌコーポレーション

「写真ごころ」の入り口:『極意で学ぶ 写真ごころ』についての解説(『アサヒカメラ』2008年3月号)

2008-03-01 20:26:51 | Weblog
「写真ごころ」の入り口 
小連載『極意で学ぶ 写真ごころ』についての解説(『アサヒカメラ』2008年3月号)


 現在『アサヒカメラ』で連載している「極意で学ぶ写真ごころ」は、日本文化の「極意論」と絡めて、「写真ごころ」とは何かを考えるエッセイを冒頭に、「基本」でありながら、「極意」である実技を伝授する講座です。

 写真ごころとは、写真における表現をめざす態度であり、現実の先に永遠なるものを視ようとする思いのことですが、今月号(3月号)では、「不射の射」を考えてみました。

「不射の射」といえば、「射らずして射る」という、まさに神業の世界です。
大正時代の弓道の大家・阿波研造師は、線香で照らしただけの暗闇の中で二本の弓矢を放ち、一本目は的の真ん中に命中。二本目は一本目の筈に当たり、一本目を引き裂いていた、という逸話があります。師は「それ(仏)が射た」と語りました(ドイツの哲学者のオイゲン・ヘリゲルの著作『弓と禅(日本の弓術)』より)が、「仏が射る」とはすなわち、仏と呼ぼうが神と呼ぼうが、宇宙本体の大本の力による業、という意味になるでしょうか。武道では、古来より中国の神仙術のごとき、こうした離れ技を伝えています。

 もとより、達人の世界は、常人の想像を絶する世界ですが、芸術の創造行為も、どこかこうした人智を越えた力の助けを得ています。いわゆる芸術のインスピレーションの源がどこかと考えると、それは自然の生命力だったり、さらに現実の時空の先に広がる次元(無意識)からの働きかけによるものです。
  詩人が万物から「声なき声」を聴くように、画家は見える世界を通して、その先にある「見えない世界」を視ようとします。
 私にとっては、絵も写真とは、自分の意識をそうしたより大きな世界に結びつける「こころの窓」の役割を果たしています。
 
「不射の射」とは、写真においては、「撮らずして撮ること」「視ずして視ること」と『アサヒカメラ』誌に書きましたが、それを追体験することが難しいようでしたら、一心に何かに打ち込んでいる自分を想像してみてください。

「無我夢中」という喩えのとおり、音楽を演奏するとき、絵を描くとき、詩を綴るとき、踊りを舞うとき、スポーツで記録に挑んでいるとき…でも、何でもいいのです。その時に、我を忘れることで、音楽そのもの、絵そのもの、詩そのもののエネルギーに自分を投げ入れ、どこか「永遠なるもの」に繋がっていく感覚が得られれば、それが「絵こごろ」であり「写真ごころ」「詩ごころ」の入り口となるのです。

『アサヒカメラ』の小連載では、極意論を語りながら、技に託された精神性を、また写真ごころについて考えながら、こうした芸術の中に宿された永遠性を語っていきたいと思います。

 毎回、哲学的な話を短い文章の中で語らなければならず、言葉足らずになってしまいますので、今回は少々「難しい」というご感想をいただきましたので、連載の解説をこの場で試みてみました。

 どうか連載の方もご愛読ください。


伊藤美露
2008年3月1日

(ブログの図版は『アサヒカメラ』3月号のp.176-177の見本です(最終稿ではありません)。(c) text and photo by Miro Ito for Asahi Camera/Asahi Shimbun Co., Ltd.)

 ☆☆☆☆☆☆☆☆  好評連載中 by 伊藤美露  ☆☆☆☆☆☆☆☆
 「極意で学ぶ 写真ごころ」(『アサヒカメラ』朝日新聞社)
 2008年の3月号のテーマは「写真の『不射の射』とは何か」」p.176~179

 ☆☆☆☆☆☆☆☆  日本図書館協会選定図書  ☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 『魅せる写真術 発想とテーマを生かす撮影スタイル』
 著:伊藤美露 定価 : 2,079円 B5判/160P/オールカラー    
 ISBN 978-4-8443-5921-0
 発行:株式会社エムディエヌコーポレーション