MIRO ITO発メディア=アート+メッセージ "The Medium is the message"

写真・映像作家、著述家、本物の日本遺産イニシアティブ+メディアアートリーグ代表。日本の1400年の精神文化を世界発信

永遠に向かう「いま」

2007-01-27 21:46:16 | Weblog
永遠に向かう「いま」

永遠の空が担うのは、
永久に繋がる「いま」という一瞬。

「いま」のこの一瞬へと こころの眼を開き、
調和と平静を内に見出すならば、
そこに魂の気づきも訪れる。

空は一瞬にして移ろうものの集合だ。
だからこそ 空の一瞬ごとに流れ移ろう姿を見極めること、
すべては依存し合って変化し、消えてはまた生まれることを、
空は気づかせてくれる。

「いま」の空が担うのは、永遠
空は「究極のいま」をいつも見せてくれる。

  ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

写真や詩が目指すのも まさに永遠に向かう「いま」_ですね。

photo & poem by miro ito, all rights reserved.
"sky over kamiuma", 22.01.2007

空の一日

2007-01-24 10:48:25 | Weblog
「空の一日」

雲は空の呼吸。
空の吐く息。

風は空の運動。
空の遊び。

雨は空の洗濯。
空のお浄め。

光は空の栄養。
空のお食事。

星は空の瞳。
空のまたたき。

夜は空の眠り。
空の休息。

そして今日も空の一日が始まる。

今日もどうかよい一日でありますように....

poem and photo by miro ito, all right reserved.
"sky over kamiuma", 28.12.2007

光の先には 何が在るのか?

2007-01-20 10:53:54 | Weblog

「光の先には 何が在るのか?」

 光の先には 何が在るのか?
 光の先には 光がある。
 そのまた先にも 光がある。
 その先の先にも また光がある。
 光は闇が来ても いつも天に溢れている。

 闇があるのは いつも地上に_
 闇が在るのは 太陽が見えなくなってしまうから。
 闇は 光を覆うものではなく、
 闇を消すには 光で照らすだけでいい。
 神々を喜ばせる踊りも かつて そうして始まった。
 たとえば 天の岩戸の前で。

 暴力に怒り狂った 日の女神の悲しみが癒され、
 そして日はまた昇り、地は光に覆われるようになった。

 けれども 地から闇はなくならない。
 光に気がつかない こころのために。
 闇があっても いつも天にあるのは 光。
 そのことを どうか忘れないでほしい。

 photo & poem by miro ito, all rights reserved. 

「明日よ、目覚めよ、されど、今宵に夢見よ」

2007-01-17 12:44:26 | Weblog
「明日よ、目覚めよ、されど、今宵に夢見よ」

 Emily Bronteの詩「How Clear She Shines」の詩から一節...

  天と地球とが わたしに囁きかける間に、
 「明日よ 目覚めよ されど 今宵に夢見よ」
 そうだ 空想よ おいで わたしの妖精の姿をした恋人よ!
 この脈に震える顳かみに  柔らかに接吻してほしいー
 そして わたしの寂しげな 長椅子の上に屈み
 わたしに 安らぎをもたらし、無上の歓びを与えてほしい。

 この詩は「月」を詠ったものです。タイトルは「How Clear She Shines」を「かくも澄んで輝くひとよ!」と訳してみました。
 ある英文学者の訳では「なんと皓々と 月は照ることか!」となっていました。

 月を語りながら、「月」と呼ばなかったエミリーの奥ゆかしさが、まさにこの詩の象徴性を際立たせ、イマジネーションを掻き立てるのですが、詩のタイトルというのは、実はとても難しい問題といえます。

 絵画にタイトルをつけることの是非と似ていて、観るものの想像力を刺激するのか、あるいは限定してしまうのか、作品によってケースはさまざまです。タイトルが抽象的であればあるほど、それがより強いインパクトを持つ場合もたくさんあります。逆にタイトル次第で、例えば、抽象的な絵画作品も「詩的」な余韻をもつようになります。
 テキストがそのまま芸術作品になる詩では、タイトルにこそ詩のもつ「生命力」というか、エッセンスとしてのエネルギーが集約されています。

 「皓々と月は照る」という事実は、「燦々と太陽が輝く」のと同じくらい自明のことなので、そのこと自体は象徴的力を持ちません。つまるところ、 訳詩の場合の問題は、英語でもドイツ語でも扱う言語に拘わらず、訳者にも「詩人の感性」が求められることです。言語のレベルを越えた、作者のイマジネーションを共有し「想い見る」という作業が求められます。

 逆に現実の世界から想像力の世界へと、想い見る「心の窓」があれば、それはもう詩人の感性の世界です。
 これは写真家についても同じことだと思います。
  写真家は「光の詩人」であってほしい、と私はいつも願っています。

 エミリーの詩の一節に似合う、写真を選んでみました。
 東京の空を撮っているシリーズからの一枚です。

 タイトルは、「明日よ 目覚めよ されど 今宵に夢見よ」__。

 伊藤美露
 2007.1.17
「"赤い月"のような太陽」 (Jan.13, 2007)
 text and photo by miro ito, all rights reserved.

空を 奇跡と呼びたい

2007-01-12 01:26:45 | Weblog

  「空を 奇跡と呼びたい」
 
  空を昨日 奇跡と呼んだ。
  光 風 雲 星 .... 
  空に散らばった 無数の奇跡を_。
 
  光の波の「輝跡」と呼びたい。
  雲の動きの「稀跡」と呼びたい。
  風の流れの「氣跡」と呼びたい。
  星へ想いの「期跡」と呼びたい。
  天への願いの「祈跡」と呼びたい。

  空を明日も 奇跡と呼びたい。

  photo & poem by miro ito, all rights reserved.
 "sky over kamiuma", 09.Jan.2007

空、そして二つの詩

2007-01-09 09:25:01 | Weblog
 思い起こさせてほしい、今日という日を
 憔悴せんばかりの捕われの身でありながら
 明日は二人とも高みへと飛び去ろう
 永遠に、まったきに、思いのままに  (”The Caged Bird” by Emile Bronte)


「地すべり」 ("Landslide" by Anno Birkin)

 生気を取り戻す太陽
 偽造者の 輩 ( やから ) から 光を 剥 ( は ) がして取り戻し
 均整のとれた線の描く 行き届いた秩序に戻しながら
 世界の夜明けの 欠片 ( かけら ) を切望しつつ
 時の矢を万物につなぎ止める …

 まだ走り続けながら

 まだ存在という舞台の出番を待ち続けて
 鼻歌混じりに
「まあだだよ … まあだだよ
 けれども僕 ちょっとだけ行き過ぎたみたいだ」
 僕らに罪を与えても 思考のミルクになるのが関の山

 主よ 地すべりをもたらし給え
 世界の表層を洗い浄めるために
 すべての悪なるものを葬るために
 童話の中の出来事のように 悪事はあるものの
 僕らはそいつを永遠に葬り去ろう

(アンノ・バーキン著 『Who Said the Race is Over ?』より、伊藤美露訳)

 関連リンク:アンノのサイト(http://www.anno.co.uk)
「地滑り」のオリジナルの英語の詩(http://www.kicksjoydarkness.co.uk/words.shtml#Landslide)
 伊藤美露のサイト("Anno meets Anno" - http://www.miroito/anno1.html)
 photo by miro ito "sky over kamiuma", 2007.1.5

気づきの写真と詩の世界へようこそ

2007-01-04 22:49:56 | Weblog
 写真を撮るということは、日常の向こう側の隠された世界を想い見ることです。
 カメラが一種の「窓」になって、ファインダーがそれを見つめる「眼鏡」の役割を果たしてくれます。
 この窓を通して、身のまわりのさまざまな事物の細部にまず眼を向けます。
 その細部がどれほど豊かな形と色彩であるか、突然輝いて見え始めたら、
 それが「こころの眼」が開かれる瞬間です。

 写真を撮るということは、詩人のように、万物が生まれ、死滅する時間の流れと自分の心を一体化させる、全く直感的な作業です。
 詩人ほど想像力を駆使させることなくても、直感の火花といえるような、時空の瞬きやひらめきを捕まえるような… その意味では、俳人に 近いものかもしれません。

 このブログでは、こころの眼、そして癒しのことばを募集していきたいと思います。
 あなた自身が出会った「こころの眼」の体験、そして癒しのことばを教えてください。
 私も20年来、アーティストとして写真を撮り、詩を綴りながら、その経験を分かち合っていきたいと思います。

 皆さんと綴る、 こころの眼・癒しのことばが、少しでも世の中を豊かに彩り、そして争いやいじめを減らすために、少しでも役立つものとなりますように!

 2007年1月4日
 伊藤美露