気心は未だ若い「老生」の「余話」

このブログは、閑居の間に
「言・観・考・読・聴」した事柄に関する
 雑感を主に綴った呆け防止のための雑記帳です。

ある日の教訓から・・・何事も事の次第の基の確認が大事

2016-03-16 22:52:42 | 日常

最近ある会の日時・場所のことで、昔の仲間と電話中に当方が誤認識(会の日時・場所)していることに気付かされ、電話して良かったと思ったことがあった。

このように、人が何かの行動を為すためには、正しい情報が必要なのだが、人は時として諸々の理由から誤認識に気付かずに、ある行為・行動・処置をする場合も少なくない。

ところで、ある事柄について最初にその人が知った情報のことをある筋では、「端緒情報」と称している。そして、一般的に情報とは、「ある人や組織が、次に判断・行動するための知識」のことであると当方は認識している。

最初に知ったこの「端緒情報」の確認が等閑にされたまま、次の判断処置がなされると、時には取り返しのつかない事件や事例を招来することになってしまう。

最近の卑近な事例では、A窃盗事犯記事を事実と信じて志望校の変更指導したことが、結果的に中学3年生の自殺事案を惹起する誘因になったと考えられる事件」や、一向に減る傾向が見えないB「振り込め詐欺被害事件」の教訓事例を見れば明らかである。

Aの例では、端緒情報の持つ意味の重大性から推して、指導記録簿上の記事の真偽や把握の経緯・内容の詳細等を確認する方法は諸々あった筈である。しかし、「記事は正しいもの」としてじ後の判断・処置が為されたようである。

Bの事件例について云えば、今受けている「息子から」と称する電話の声や内容等は果たして「本当なのか」、騙される方にも結果的に相応の落ち度もある筈だ・・とは言いたくはない。しかし、身内や警察に相談もせずに「息子を助けたい一心から、今為そうとしている事柄の基(元)の話は、果して確かなのか・・」自分なりに確認する何らかの処置は出来そうな筈なのに、それが出来ない理由は一体何故なのだろうか・・。過去にこの種事件紛いの不審電話を何度か受け、被害を回避出来たことのある同世代の当方としては、大変疑問に思えてならない。

では、正しい判断・処置のための情報の真偽をどのように確かめれば良いか。それは、原則的には、端緒となる情報の評価の三要件つまり、「正確性」「信頼性」「適格性」をその人なりやその組織なりに、知見を駆使して確認することだ。と当方は思っている。

原則論的には確かにそうだろうと思う。ならばその三要件についてどう具体的に確認すれば良いのだろうか。となると、これはもう「情報概論」の域になるので、詳述は略す。

いづれにしても、冒頭に記したように、人や組織が「行動するために必要な知識」つまり情報には、とかく誤認識を伴うことも少なくないので、最初から自分の認識・判断・受け取り方に間違いが無いと信じ込まない普段の心得こそが、誤情報に基づく誤判断・処置を抑える最善の策ではないだろうか。  

 


爺の中国・韓国語 学習雑考(3/3)

2016-03-05 16:54:10 | 自学

中国で日常的な常用漢字として用いられている字数は約3500字(1988年現代漢字常用字表)と定められている。

漢字Onlyの常用字数としては少ないように思う。事実、2010年版の「漢字大辞典」には6万370字、1994年版の「中華字海」には実に8万5568字も収められているそうだ。

一体どんな漢字がどんな場合にどう使われるのか、思っただけでも気が滅入りそうになる。それは兎も角、中国語で日常的に使う常用漢字は、多寡が約3500字である。

だから、その記憶・読み書きはさほど苦にならないだろうと思いきや、これがさにあらずで、旧漢字を簡略化した簡体字が多いこともあり、元の字がどんな字だったのか見当も付かない漢字が相当ある。

簡体字では単なる略字にしか見えず、意味は不明でも元の字を見て納得出来る漢字も随分多い。例えば、図-  親- 節- 聴- 郵- 書- 開- 作- 認識-认识、復習-复习、議論-议论、進行-前进遅刻-迟到のような次第である。

手元に「日中字形対照表(字数:625字)を置いて、簡略化された元の字がどういう字なのかその都度確認している。この簡体字の意味はこうで、書き方はこうだと丸覚えすれば元の字確認は不要な筈だ。

だが、理屈を承知しないと、物覚えが出来にくい年寄りの悪い癖があるから覚えるのに時間もかかる。だから進度はとろい。僅か600余字、されど一字で多様な使い方(動詞、副詞、形容詞、接続詞的用法)をする字もかなりある。でも、そうした用法も含め、そのうちこれらの漢字の意味と読み書き及びその用法を何とか習得したいと願っている。

ところで、国により文字の特徴は当然異なるけれども、その文字が示す意味には全て共通性がある。前記の例のように例えば、中国語では、議論-议论 進行-前进 遅刻-迟到と書くが、これらの言葉を他の言語で表現してもその意味は世界共通だ。どんな国の言葉にも全て世界共通の意味があるから、そのことが言語学習のベースになっているのだろう。

今の時代は、語学の勉強の面でも大変有難い環境条件が整った時代である。多種多様な語学教材・教具に選択に困る程多過ぎる語学関連情報等にも恵まれ過ぎている。その昔の先人達はどんな手法で多言語を短期間で学んだのか、ラジオを通して懇切に中国語講座を進めて呉れる講師の教えを聞きながら、ふとそんなことを瞑想する時もある。

その昔、聖徳太子は西暦600年に初めて遣隋使を派遣した際「日出処天子、至書日没処天子無恙云々」の親書を使わしたと日本書紀に記されているそうだ。

当時、隋に派遣された先人達は、事前情報も極めて乏しく、かつ基礎的語学力も殆ど無き状態で異国に渡り、その異郷の地で如何にして相互理解を深め、限られた年数内で異国語を理解乃至は習得して帰来したのだろうか。

鎌倉時代の初期、曹洞宗の開祖・道元禅師は、西暦1223年に南宋に渡り、1228年28歳で帰国、この間膨大な仏典を持帰り、後年その仏典を「正法眼蔵(全33巻)」と称する仏教思想書として集大成しているとのことだ。

そんな先人達の業績を語学習得の側面から思い描くと、僅か3500字程度の中国常用漢字の習得に四苦八苦している自分が如何にもお粗末に思えてならない。だから、この辺で老生の駄長な語学学習談義もこれで終わりとする。(完)