最近ある会の日時・場所のことで、昔の仲間と電話中に当方が誤認識(会の日時・場所)していることに気付かされ、電話して良かったと思ったことがあった。
このように、人が何かの行動を為すためには、正しい情報が必要なのだが、人は時として諸々の理由から誤認識に気付かずに、ある行為・行動・処置をする場合も少なくない。
ところで、ある事柄について最初にその人が知った情報のことをある筋では、「端緒情報」と称している。そして、一般的に情報とは、「ある人や組織が、次に判断・行動するための知識」のことであると当方は認識している。
最初に知ったこの「端緒情報」の確認が等閑にされたまま、次の判断処置がなされると、時には取り返しのつかない事件や事例を招来することになってしまう。
最近の卑近な事例では、A「窃盗事犯記事を事実と信じて志望校の変更指導したことが、結果的に中学3年生の自殺事案を惹起する誘因になったと考えられる事件」や、一向に減る傾向が見えないB「振り込め詐欺被害事件」の教訓事例を見れば明らかである。
Aの例では、端緒情報の持つ意味の重大性から推して、指導記録簿上の記事の真偽や把握の経緯・内容の詳細等を確認する方法は諸々あった筈である。しかし、「記事は正しいもの」としてじ後の判断・処置が為されたようである。
Bの事件例について云えば、今受けている「息子から」と称する電話の声や内容等は果たして「本当なのか」、騙される方にも結果的に相応の落ち度もある筈だ・・とは言いたくはない。しかし、身内や警察に相談もせずに「息子を助けたい一心から、今為そうとしている事柄の基(元)の話は、果して確かなのか・・」自分なりに確認する何らかの処置は出来そうな筈なのに、それが出来ない理由は一体何故なのだろうか・・。過去にこの種事件紛いの不審電話を何度か受け、被害を回避出来たことのある同世代の当方としては、大変疑問に思えてならない。
では、正しい判断・処置のための情報の真偽をどのように確かめれば良いか。それは、原則的には、端緒となる情報の評価の三要件つまり、「正確性」「信頼性」「適格性」をその人なりやその組織なりに、知見を駆使して確認することだ。と当方は思っている。
原則論的には確かにそうだろうと思う。ならばその三要件についてどう具体的に確認すれば良いのだろうか。となると、これはもう「情報概論」の域になるので、詳述は略す。
いづれにしても、冒頭に記したように、人や組織が「行動するために必要な知識」つまり情報には、とかく誤認識を伴うことも少なくないので、最初から自分の認識・判断・受け取り方に間違いが無いと信じ込まない普段の心得こそが、誤情報に基づく誤判断・処置を抑える最善の策ではないだろうか。