気心は未だ若い「老生」の「余話」

このブログは、閑居の間に
「言・観・考・読・聴」した事柄に関する
 雑感を主に綴った呆け防止のための雑記帳です。

形あるものに関する素朴な疑問

2018-02-07 22:40:52 | 環境

自然界や人間の世界には摩訶不思議なことが多過ぎる。まして、世間で当たり前の常識とされている事柄であっても、その事柄に関する詳しい知識もない老生にとっては、何故そうなのか?と素朴に思うことがよくある。

過日(H30.1.31)の夜空での天体ショウ―(皆既月食:スーパーブルームーン)を観ながら特にそう思った。改めてそう考えさせられた謎は次のようなことだ。  

謎その1:何千億個もある天体は何故、丸いのか。

この謎を知るには、約46億年前と云われる地球誕生時迄遡る必要があるそうだ。

だが、地球誕生の背景・経緯等を含む宇宙に関する平易な解説書(例:面白いほどよくわかる宇宙の不思議、日本文芸社)を読んでも諸々の謎は深まるばかりだ。

地球は何故丸いのか、そして更に、大きさや質量が全て異なる何千億個もの星達は、球軸に対しどこから観ても変らない対称性を有しているのか・・という極めて素朴な疑問は残ったままだ。

前記の解説本等には、「・・宇宙空間中の極微小の塵が、塵を巻き込んで回転しながら肥大化し、球形化して今の姿になった・・」との説明が一般的である。

更に、太陽系の惑星が太陽を中心に夫々の公転軌道上を自転しながら回っているのは、惑星の「円運動の法則」に従っているからだとのことで、成程そうか・・と一応その理屈は納得出来る。

しかし、よく考えるとこの説明も、天体の球形化の理由付け同様、物事の現在の事象や現象を捉えて結果的に後付けした理由付けでしかないのではないか。


謎その2:天体以外の生命体も全て何故、左右対称になって出来ているのか。

球形であることに伴う天体の対称性以上に、ごく普通に感ずる疑問は、この地球上の生きとし生ける全ての動植物は何故、対称性(シンメトリーsymmetry)を以てこの世に存在しているのか・・という疑問である。

 シンメトリーとは、物体等の構成が、中心軸に対しその形状等が左右又は上下均等に配置され,両者が一定の相似関係にあることを現わす表現である。

最初は点にも満たない生命細胞から、個体によって形状は様々だが、その異なる個体の両眼・両耳・両腕・両足手指等が夫々左右均一になっており、全体としては、鼻から臍の縦線を中心にして見事に左右均等な人や動物が形成されるのか。極小の蟻達から太古の巨大恐竜等に至るまで全てこ左右均等性を有している。

この左右均衡性は動物だけに観られることではない。一見左右非対称に見える樹木も、その幹の中心線に沿って均等な年輪があるし、その葉っぱの葉筋・葉脈の出方はみな違うけれども、葉の幹筋を中心に殆ど全てが左右対称になっている。

動植物全てにこの左右対称な属性があるのは、夫々の固体が個体本来の活動に最も適するように、夫々の生存域で、何万年もの進化の過程を経てそうなったからだ・・と一般的には説かれている。

しかし、この説明も後付けの結果論的な理由づけに過ぎないのではないか。

これに対し、人工物の対称性(例:建造物や什器・備品等)は、安定性、耐久性、経済性、効率性、美観等諸々の観点から多角的に検討されて、最も理に適った方法で設計・製作されている。なので、この点に関しては素直に理解できる。

全知全能の「絶対神」が、天地を始め森羅万象全てのものを最も理想的な姿形に創造したから・・全てのものはそうなっている・・・との主観的な創生論で割り切れば、前記のような他愛無い疑問の余地は無くなるだろう。だがしかし、老生はそうした「天地創生論」を信じてはいない。

愚問 その3:相互に引き合う天体の引力に均衡性があるのは何故か

ニュートンが約400年も前に発見した「万有引力の法則」は、今では、極めてありふれた常識になっている。月にも引力(地球の約1/7)があり、その引力により、月から約38万kmも離れている地球上の顕著な所では、海面潮位が約15m余も満ち引きする程の影響をこの地球が受けている。

何故そうなるのだろうか。条件は違うが、上空約400Kを周回する国際宇宙ステーション等は遠心力と求心力が均衡出来る高度に位置しているから周回出来ているとのことだが、月の引力を受けるようなことは全くないのだろうか。

更に、引力に関して不思議に思うことは、惑星等の全ての天体が、何万k又は何光年も離れた位置関係にありながら、夫々引き合う相関関係を保ちつつ、何故自転しながら公転もしているのか。

その根本的な理由は何故なのか等々、過日の皆既月食を観ながら、今迄眠っていた以前からの極めて単純・素朴な不思議感が又沸々と湧いて来た。

この素朴な老生の疑問は、今後も解けない謎として脳裏に残り続けることだろう。

(H30.2.6記)