気心は未だ若い「老生」の「余話」

このブログは、閑居の間に
「言・観・考・読・聴」した事柄に関する
 雑感を主に綴った呆け防止のための雑記帳です。

古くて新しい「憲法関連問題」(5-終稿)

2015-02-27 14:50:48 | 時評

「諸外国における国民の防衛意識と責務」というようなタイトルは、我国では禁句に類するイメージとひびきのある言葉だと誤解され易い。しかし、諸外国ではそうではなく、国民の防衛意識は総じて高く、憲法で明確に「兵役義務」を設けている国々も多い。

近年に至り「徴兵制」を廃止して「志願制」に移行又はその過程にある国もあるようだが、まずは、兵役義務に関する諸国の憲法関係条文(下表)を暫し概読して頂きたい。

一瞥しても明らかな通り、上記に例示の諸国は、いずれも祖国防衛を国民の責務として明文化している点である。だが、我国では、こうした事実が殆ど伝えられることはないし、勿論学校で教わることもない。に顕著なことは、ロシア以下旧ソ連系の諸国の兵役規定では、「祖国防衛は国民の神聖な義務又は偉大な名誉であり権利である」と明示されていることである。

そう明記されている理由・背景には、これらの諸国に共通したML主義(マルクス・レーニン)流の戦争観があり、その戦争観によれば、戦争には「正義の戦い」と「不正義の戦い」があり、祖国防衛や植民地解放の為の戦争は「正義の戦争」で、帝国主義者が行う侵略戦争等は「不正義の戦争」だと云う戦争観が今も生きているからだろう。

「防衛は義務であり、名誉であり、権利である」としている諸国の「防衛に関する国の常識」、「諸国民の公正と信義」を信頼することにより平和が担保され、憲法9条のお蔭で、戦後の平和が維持されて来たとする傾向も顕著な国の「防衛意識やその関連常識」は正に正反対である。

今なお信条(心情)的には「親中露系で現憲法擁護サイド」の人達は、同系諸国の憲法に明記されている国民の防衛意識や兵役義務に関する諸規定をどう評価しているのだろうか

当方は、もとより兵役義務化を望む者ではない。我国で今後、仮に憲法改正賛成の世論が多数を占め、自衛隊が晴れて「軍隊」として容認される情勢に至っても、国民に兵役義務を課すような国防体制は採るべきではないし、そんなことを志向する改憲論は絶対に避けるべきだと思っている。

何故なら、国内では多年に亘り、兵役忌避感情が既に完全に定着した国民感情になっていること。加えて将来人口や社会構成上「兵役制」を採れる国情ではないからだ。とはいえ、「国の安全保障と国民の責務」は密接に絡んでいる故に、改憲の際には、「自らの国は自ら守る勇気と気概を持つべし・・」とする趣旨の文言が、改正草案のどこかに明記されて然るべきであると願っている。

この点に関し、自民党の改正草案(24.4)の前文には、「・・日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重し・・」云々と規定されているが、この程度の表現で良いのか疑問だし、議論の余地はなお残っているのではなかろうか。

これまで5回に分けて、現行憲法に関する「当方なりの疑問点を改憲の立場」から観てきた。偏見や誤解も多々あるかも知れない。この「古くて新しい憲法に関する問題」としては、他にも、1.緊急事態対応、2.改正手続き3.衆参両院や地方自治体の在り方4.環境保全5.財政関連規定等見直し又は新設すべき項目や条文は少なくない。

与党内には、ハードルの高い9条(戦争放棄)96(改正手続き)」は後回しにして、最初は、「緊急事態や環境保全関連等」院内外で多少でも合意を得られ易い、憲法上の不備を補う加憲」の方向からの憲法改正を志向する動きもみられる。

いずれにしても憲法改正の道程は「厳しくて不透明だ」。しかし、現行憲法については、どの条文も見直や改正の必要がない。就中、9条は「平和憲法の象徴」だから未来永劫決して改正してはならない」とする憲法観で良いのか。答は、「NO」だと当方は硬く信じている。

願わくば、努めて5年以内位に、我々の子孫と日本の未来のためにも、日本の現状と将来を見越し、世界に大手を振って宣言出来るような『新しい憲法』が制定施行されることを切望し、拙い所論を閉じることにする。 (概読頂いた諸氏に心から感謝する。) 


古くて新しい「憲法関連問題」(4)

2015-02-22 17:22:41 | 故郷

現行憲法改正の是非論に関する最大の論点は、憲法第9条の規定内容とその解釈・適用についてのことであろうと当方は思う。第9条では、1項の「戦争放棄」と2項の「戦力不保持」「交戦権の否認」に分けて次のように規定されている。

1項:日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては永久にこれを放棄する。

2項:前項の目的を達するため陸海空軍その他の戦力、これを保持しない国の交戦権は、これを認めない。

確かに文言から受ける印象は、立派な戦争放棄宣言である。だが、1項の規定を素直に読めば「全ての戦争を放棄している訳ではない。」と解釈するのが自然である。

だから歴代政府は、この9条の解釈については、日本は、国家固有の権利として認められている自国自衛のための自衛権までも放棄した訳ではない。」故に「自衛のための必要最小限度の軍事力は、9条2項の戦力に該当しない。」永久に放棄したのは、国際紛争解決の手段として行う戦争と武力による威嚇又は武力の行使である」という解釈をして来ている。

しかし、この解釈は、「伏字を辿って繋ぐ読み取り解釈」のようなものであり、異なる9条観を生む理由にもなっている。これが問題の第1である。

2の問題は、「国際紛争解決の手段としてではない、自衛のための武力による威嚇又は武力の行使は、現憲法の下でも許される。」との解釈も、無理な解釈だ。何故なら、自衛目的で始まった自国周辺での武力行使と雖も、国際的に観れば地域における国際紛争であり、その紛争が長引いたり、武力行使の範囲や程度が拡大したりすれば、関係国が絡む国際的な紛争解決の手段としての戦争に発展する虞が多分にあるからだ。

かってのベトナム戦争がそうだったし、目下休戦中だが、ウクライナ内の紛争が代理戦争に至る恐れも指摘されているように、自国内又は隣国との紛争が、国際紛争に発展するとの観方もあることは確かである。

3の重大な問題は、9条2項の「戦力不保持」及び「交戦権の否認」に関する規定とその解釈についてである。「自衛のための必要最小限度の軍事力」の保持は可能。だからその範囲内で整備されているとされる「現在の自衛隊の軍事力」は「戦力」でない。との見方は常識的に解釈しても、「9条の拡大解釈」だと言わざるを得ない。

周知のとおり、現在の自衛隊は、世界第5位の防衛費(H26年度約4.9兆円)で維持され、最新の装備と質の高い陸海空自衛隊員(総数約23万人)を有している。現行自衛隊の編制・機能・国内外での活動と潜在戦力や諸外国からの評価等の現況を至当に評価すれば、「自衛隊は事実上の軍隊であると評価・認識すべきである

9条2項の規定と現在の自衛隊の実態が、如何に乖離・食い違っているか」多くの国民も基本的にはそう認識しているし、この認識は正直で正しい認識だと思う。

4の問題は、我国は、交戦権を否認した国だが自衛の為の「交戦=戦い」は許されると解釈されている点である。わが国の戦争放棄に似たイタリヤ憲法11条には「・・・、国際紛争を解決する方法としての戦争を否認する・・。」との規定はあるが、同国憲法には、交戦権の否認についての規定はない。

なお、防衛省の防衛白書では、交戦権は自衛権は別個の概念で、この交戦権は「戦いを交える権利という意味ではなく、交戦国が国際法上有する種々の権利の総称」であると説明されている。しかし、この解釈が9条2項の「交戦権」とどう繋がるのか、理解しにくい。

第5の問題、それは、日々訓練に励んでいる隊員諸氏が、自衛隊の憲法上の位置づけについて、一様に信じて疑わない定見を有しているか疑わしいと観られていることだ。その遠因は、9条の規定に由来しているからであろう。

この傾向は、自衛隊創立後61年の今日も全く変わっていないだろう。加えて、集団的自衛権の行使容認等を前提とする「安保法制」関連論議が進んでいる昨今の情勢の下で、「自衛隊の役割拡大」に伴う疑念は広がるばかりだろう。

政府は、国民に対し「自衛隊の役割拡大と憲法9条等との関係」についても、機会を捉えて認識啓蒙すべきだ。しかし、この問題は政府にとっても「痛し痒し」の問題のようで、さしたる努力は未だ為されていない。

自衛隊の任務は、「我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、直接侵略及び間接侵略に対し我が国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ、公共の秩序の維持に当たるものとする(自衛隊法第3条)」と規定されている。

そのために、自衛隊は、年々整備強化されている。なお未だ防衛力は不備だと観ている軍事専門家諸氏の意見もあるが、しかし、現在の自衛隊の実態を市民目線で観れば、「自衛隊は立派な軍隊であり、自衛官は軍人である」との見方が多かろうと当方は思う。

6の問題は、国民各層に潜在している「軍隊・軍人は軍国主義に繋がる」との負の意識是正について、歴代政府による啓蒙努力が殆どなされず、むしろ避けて来ていることである。

こうした努力の欠如もあり、「わが国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する。(自民党の改憲草案)」と聞いただけで「自衛隊に対する負のイメージ」が増幅される風潮を生じたりしている。

諸外国では「自衛官は軍人として遇されている」ことを示す最近の具体例がある。それは、ソマリヤ沖周辺での多国籍軍による海賊対処部隊の司令官に、日本の海上自衛隊の海将補がその任に当たる(輪番制でH27.5末~7.23)と報道された(2月3日防衛省発表)」ことである。

海外では事実上軍人扱いになっているが故に、優秀な高級将官が限定的とは云え、多国籍軍の司令官に任命されたのだと当方は解釈した「自衛隊を軍隊、自衛官を軍人」に位置づけることに伴う諸々の法的対応努力は今後逐次推進されるだろうが、改憲の際は、誤解・疑念のない条文として明文化されて然るべきだ。

いずれにしても、国民の大多数が認めている自衛隊が、「政府の解釈改憲」上は「合憲」だとされていても、それは厳しく評すれば「政治的詭弁」であり、解釈上は「自衛隊を継子扱い」しているようなものだ。そう感じている国民も少なからずおられることを信じている。

おわりに、現行憲法9条の全文を読んで素直に、「確かに自衛隊は、存在及び期待されている役割の面でも条文上全く疑義なし」と確信をもって理解・認識出来る人は、相当練れた憲法解釈通か或いは理屈抜きの自衛隊支持者、乃至は「定見のないイエスマン」だと当方は思う。

以上のような諸疑問が近い将来改憲条文の中で解消されることをこの頑固爺は、心から期待している。次回は、「諸外国における国民の防衛義務」のことについて若干紹介したい。


古くて新しい「憲法関連問題」(3)

2015-02-21 08:15:28 | 自学

現行憲法の「前文」についてまず冒頭から違和感を感ずるのは、総じて文章構文及び表現が、どこか翻訳調の文体のように当方には思えることだ。

長い英文の翻訳ものによくある傾向が観られる。このことは、「日本国民は、政党に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われわれとわれわれの子孫のために諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」とのくだり迄、150字で一文になっている長い書き出しの部分に端的に表れている。

それはともかく、憲法「前文」は、国の在り方に関する国民の総意や決意・願望等憲法全体を律する基本原理を示すものである。この「前文」の前半部分で、この憲法は、「主権が国民に存すること」と「国政は国民の厳粛な信託によるものであり、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」との「主権在民」の理念を明確に示している。これは、民主主義の根幹をなす当然の理念の宣言であり、不変の鉄則である。

しかし、問題は「前文」の後半部分にある。「日本国民は、恒久の平和を念願し、イ、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、ロ、諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」と書かれているこの部分である。恒久平和を念願しない国民は誰もいない。

だが、イの部分の「人間相互の関係を支配する崇高な理想」とは一体どんな理想か、文面からは読み取れないし、解らない国民は多いだろう。耳触りは良いが中身不明の表現で、この部分について解説した憲法関連書を調べて観たが、説得力のある解説は殆ど見当たらない。

ロの部分の決意は、「国の平和と安全保障」の基本に関わる極めて大切な文言である。にも拘わらず、前記の表現は、「近隣には邪心・邪悪な者はいないから、私達は近所の人を信じて生きます。」と一方的に宣言しているに等しい文言であり、あまりにも他力本願的で、現実的でない願望に過ぎない。このことは、卑近な例としては「拉致問題」「竹島・尖閣等の領土問題」「靖国問題がらみの反日運動」等の経緯・現況を観れば明らかだ。

現憲法制定以来、特に日本の近隣諸国が、平和を愛する国として、我国に対し「公正と信義」を示して来ているか否か、ケースにより当然異なる観方もあるが、総じていえば、答えは「否」であろう。今日世界の各地で散発している国際紛争の多くは、「当該国民の感情とは異なる形で、時の政府により、信義や公正が歪められ、利害の対立関係が深まって生じている。

利害が相反する関係であれば有る程、こうした国家間の関係はエンドレスに続く。だから、我国のみが、諸国の公正と信義を永久に信じて、「われらの安全と生存」を信じていいのか。大いに疑問である。

「前文」の最後の部分に「われわれは、いずれの国家も自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の原則は、普遍的なものであり云々」の記述がある。ここで云う「政治道徳の原則」とは、前文中のどの部分の、どんな原則のことなのか、これも即答しにくい表現である。

ここでも、本稿の最初に触れた「人間相互の関係を支配する崇高な理想」の記述と同様、我々普通の国民が、普通にこの「前文」を読んだだけでは、読み取れない原則や理念・理想が、この憲法の基本原理の如く示されている。賢明な憲法擁護派の諸氏は、上記のような諸点について明確な理解をされているのだろう。だが、頑固爺にとっては大いなる疑問だらけである。

他にも「前文」についての疑問点は未だあるが、割愛して次回は憲法9条のことに関して記したい。


古くて新しい「憲法改正関連」問題(2)

2015-02-17 11:24:17 | 自学

当方は、憲法について特に詳しく学んだ訳ではない。だから以下の記述は一般論であり、当方の意見は、偏見や誤解・曲解が多いと思われる点も多々あるだろうが、その点についての評価は、読んで頂く諸氏の良識に委ねたい。

さて、憲法問題について考える場合の一般的スタンスは、「改正」か「加憲」か「擁護」の三つである。「加憲」は「改正」に繋がるので、実質的には「改正の要否」のいずれの立場に近いかにより、人夫々の憲法観は変わる。背景には、その人がどんな政治的信条や感覚の人かにより、「憲法改正の要否」に関する関心の度合いも大きく異なってくるのだろう。

これ迄の世論調査の結果を観ると、改正賛成と反対が拮抗している。例えば、H26.5.3日の調査結果(読売新聞)では、憲法改正に賛成「42%」反対「41%」となっている。質問の項目や仕方によって結果が異なる。戦争放棄を定めた9条の改正に賛成か反対か、憲法改正に関する手続きを定めた96条の改正に賛成か反対かとの問いに対しては、いずれも反対の世論が多い傾向が観られる。

ところで、当方は、改正賛成派の爺である。何故改正が望ましいか。いろいろあるが、次の4点について略記する。

憲法制定約70年、この間世界情勢は、日本の憲法「前文」に謳われているような理想的な情勢とは随分様変わりしている。今後も日本は、「・・平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した・・」等と云う純粋な決意だけでは、厳しい国際環境の中で、この国と民の平和と安全を維持出来る状況ではなくなっていること。

戦争放棄・戦力不保持等を定めた9条の条文内容と、現実の日本の防衛体制やその実態との関係、更にはその間の矛盾・乖離が大ありである。最近は一部の野党を除き、「自衛隊は憲法違反」等と正面から論陣を張る論客も影を潜めている。しかし、現実はもはや「憲法解釈」だけで、そうした問題に対応することは、もう限界に来ているように当方には思えてならないこと。

憲法は不磨の大典だから改正のハードルは高い方がいいとの意見もある。しかし、憲法の絶対不可侵性を盾にして、時代の要請上真に必要な改正までも封殺するような条文はやはり見直すべきであること。

現憲法は決して自主的に制定された憲法ではないため、前記のような憲法上の諸矛盾が顕著になっている。だからこうした諸点について全面的に見直す理由と必要性があること。以上が、当方が「憲法改正が望ましい」と考える主な理由である。

項に関し、若干補足する。改正反対側の識者等は、現憲法は、押しつけ憲法ではなく、自主的に起案制定されたものであるやに強弁している。しかし、敗戦直後の完全な占領統治下で、占領軍の干渉等を全く受けずに、現行憲法が制定されたとは、常識的に考えても理解出来る話ではない。この点について、当方が学生の頃、憲法の講義担当の教授は、「押しつけ憲法」であることを認めたうえで、今で云う「憲法擁護論者」だったことを大変懐かしく思い出した。

なお、最近読んだ「なぜ、基地と原発を止められないか」戦後70年の謎を解く(矢部宏治著)の中にも、現憲法の制定に関して次のような記述があったので、要点を転記しておく。

昭21年2月4日から12日にかけ、GHQ民生局次長ケーディ大佐を執筆責任者とし、25人の軍人達が11の章毎に分かれて書き上げ、この草案が日本側に提案されて制定されたものである・・・」憲法制定に関するこうした記録は他にもあるが、割愛し、次回からは当方が現憲法について特におかしいと思っている点を取り上げたい。


古くて新しい「憲法改正関連」問題(1)

2015-02-13 12:22:03 | 自学

この問題を語る前に、一寸長くなるが、先日の建国記念日に纏わることに触れたい。

今年も立場・主張を異にする2月11日関連の集いが都内でも例年の如く行われた。外国人から観れば、巷に国旗が殆ど見当たらず、それらしいお祝い行事等何処を見ても認められない日本の建国記念日程不思議な祝日はない・・と思われているだろう。

諸外国での建国記念日は、国の独立・他国との戦いや支配からの解放等を記念して制定された日である。云わば先人の「血と汗」の代償の結果制定された特別の日だから、国民的関心がことの他高いのは当然だ。

幸いなことに、わが国の建国に伴う歴史には、諸外国のような負の側面の遺産は無かった筈だ。加えてどの国よりも、建国の起源とされる時期は古くその時期は、神武天皇が即位した西暦前990年とされている。神話の時代のことだから、客観的事実については大いに疑問だ。

でも、裏付けはなくても、我が国の建国記念由来の起源・時期は歴史的にかなり古いことは確かだ。だから、明治政府は、明治6年(1873年)2月11日を「紀元節」として指定し、終戦直前まで全国各地で奉祝行事が行われていた。当時小学生低学年だった当方には、今もその記憶がかなり鮮明に残っている。

戦後長い間、この「紀元節」という日は、占領政策のもとで埋没していたが、昭和41年(1966年)、名称を変え、「建国記念日」として復活した。この復活と呼称についても、当時「建国記念日」設置反対の世論や運動があり、その流れが、近年では「憲法改正の是非論」に繋がって来ている。

明治6年の制定から我国の建国の日として、既に約140年も経ているのに、この日自体を無視又は否定する側の人達や団体がいることは、嘆かわしいことであると思う。

そして、この日のことをとかく批判する人達や団体は、何故か日本の憲法については絶対擁護の立場に立っている。他方、建国の日擁護の人達や団体は、自主憲法制定を声高に主張している。何故二つの流れになっているのだろうか。・・・理由は諸々あるからだ。

学生の頃当方は、憲法の講義等を通じこの憲法は世界に誇るべき素晴らしい憲法だと思っていた。だが現在は、例えば「憲法前文の諸記述内容」や「憲法9条と自衛隊」の問題一つをとっても諸々の疑義があると感じている。

平和憲法と称する神聖不可侵の法典があるから、日本の安全は守られているとの主張があるが、これは誠に手前勝手な論理であり、その論理はこれからの世界には通用しないと当方は思っている。

建国記念日と憲法問題に関し、当方は改めてそう認識しているし、現憲法上の諸々の疑義について拙いブログで愚痴りたいので、次回はそんなことを綴りたい。