「諸外国における国民の防衛意識と責務」というようなタイトルは、我国では禁句に類するイメージとひびきのある言葉だと誤解され易い。しかし、諸外国ではそうではなく、国民の防衛意識は総じて高く、憲法で明確に「兵役義務」を設けている国々も多い。
近年に至り「徴兵制」を廃止して「志願制」に移行又はその過程にある国もあるようだが、まずは、兵役義務に関する諸国の憲法関係条文(下表)を暫し概読して頂きたい。
一瞥しても明らかな通り、上記に例示の諸国は、いずれも祖国防衛を国民の責務として明文化している点である。だが、我国では、こうした事実が殆ど伝えられることはないし、勿論学校で教わることもない。特に顕著なことは、ロシア以下旧ソ連系の諸国の兵役規定では、「祖国防衛は国民の神聖な義務又は偉大な名誉であり権利である」と明示されていることである。
そう明記されている理由・背景には、これらの諸国に共通したML主義(マルクス・レーニン)流の戦争観があり、その戦争観によれば、戦争には「正義の戦い」と「不正義の戦い」があり、祖国防衛や植民地解放の為の戦争は「正義の戦争」で、帝国主義者が行う侵略戦争等は「不正義の戦争」だと云う戦争観が今も生きているからだろう。
「防衛は義務であり、名誉であり、権利である」としている諸国の「防衛に関する国の常識」と、「諸国民の公正と信義」を信頼することにより平和が担保され、憲法9条のお蔭で、戦後の平和が維持されて来たとする傾向も顕著な国の「防衛意識やその関連常識」は正に正反対である。
今なお信条(心情)的には「親中露系で現憲法擁護サイド」の人達は、同系諸国の憲法に明記されている国民の防衛意識や兵役義務に関する諸規定をどう評価しているのだろうか。
当方は、もとより兵役義務化を望む者ではない。我国で今後、仮に憲法改正賛成の世論が多数を占め、自衛隊が晴れて「軍隊」として容認される情勢に至っても、国民に兵役義務を課すような国防体制は採るべきではないし、そんなことを志向する改憲論は絶対に避けるべきだと思っている。
何故なら、国内では多年に亘り、兵役忌避感情が既に完全に定着した国民感情になっていること。加えて将来人口や社会構成上「兵役制」を採れる国情ではないからだ。とはいえ、「国の安全保障と国民の責務」は密接に絡んでいる故に、改憲の際には、「自らの国は自ら守る勇気と気概を持つべし・・」とする趣旨の文言が、改正草案のどこかに明記されて然るべきであると願っている。
この点に関し、自民党の改正草案(H24.4)の前文には、「・・日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重し・・」云々と規定されているが、この程度の表現で良いのか疑問だし、議論の余地はなお残っているのではなかろうか。
これまで5回に分けて、現行憲法に関する「当方なりの疑問点を改憲の立場」から観てきた。偏見や誤解も多々あるかも知れない。この「古くて新しい憲法に関する問題」としては、他にも、1.緊急事態対応、2.改正手続き3.衆参両院や地方自治体の在り方4.環境保全5.財政関連規定等見直し又は新設すべき項目や条文は少なくない。
与党内には、ハードルの高い「9条(戦争放棄)と96条(改正手続き)」は後回しにして、最初は、「緊急事態や環境保全関連等」院内外で多少でも合意を得られ易い、「憲法上の不備を補う加憲」の方向からの憲法改正を志向する動きもみられる。
いずれにしても憲法改正の道程は「厳しくて不透明だ」。しかし、「現行憲法については、どの条文も見直や改正の必要がない。就中、第9条は「平和憲法の象徴」だから未来永劫決して改正してはならない」とする憲法観で良いのか。答は、「NO」だと当方は硬く信じている。
願わくば、努めて5年以内位に、我々の子孫と日本の未来のためにも、日本の現状と将来を見越し、世界に大手を振って宣言出来るような『新しい憲法』が制定施行されることを切望し、拙い所論を閉じることにする。 (概読頂いた諸氏に心から感謝する。)