気心は未だ若い「老生」の「余話」

このブログは、閑居の間に
「言・観・考・読・聴」した事柄に関する
 雑感を主に綴った呆け防止のための雑記帳です。

人生のロスタイム

2016-02-10 10:12:30 | 終活

20001年の元旦から毎日、平均300~400文字程の日記を書き始めて今年でもう15年になるその日に書けなくて、後で時には2~3日分を纏めて書くときもある。思えば結構続いているものだと思う。新潮社が毎年発行している文庫版(白紙の各頁に月日と曜日のみが

      

印字されている)を用いて書いている。日誌に綴っているのは、その時々印象に残った事柄に関する略記や雑感が主である。書き続ける主目的は二つ ・呆け防止・自分史の一部として家人達に残す為である。  

但し、家人等が当方亡き後、不要と思えば破棄するもよしで、このマイブックのじ後処置のことは解らない。書棚に並んでいるこの私本を時折、何気なく手にして読み返す時もある。読んで改めて感じたり、為になることも又多い。

先日、孫が生まれた年(2003年)にどんなことを書いていたのか、同年の日記を手にして斜め読みしていたら、9月26日の日記に「塩爺の名せり」とのタイトルで書いた記事が目に留まった。

塩爺(愛称=塩じい)とは、当時第一次小泉内閣の財務大臣で、内閣の重鎮としての存在感も抜群だった「塩川正十郎代議士」(H27.9.19、享年93歳)のことである。

その塩爺が、第一次小泉内閣改造時、総理から高齢にも拘わらず手腕を買われて続投を要請されたが就任を固辞し、その後の記者会見の際、退任理由を問われた記者団に対し、当の塩じいは、要旨次のような引退のセリフを残している。

人生のホイッスルが鳴る迄未だ若干のロスタイムがあるのではないかな・・節制すれば未だ若干は長生きする気がする。しかし、お役目はこのくらいにして、そのロスタイムを大事に使いたいんですよ・・・」と。

このコメントを聞いた小泉総理は、「寂しいと同時に塩川さんらしい潔い見事な引き際で敬意を表する」との所感を述べたと当時の新聞は伝えている。

当方は、その日の新聞報道を引用した日記の末尾に、ご両人の所感はどちらも実に味のある言葉だ。確かにそれ相応の立場にある者は、いつ迄も地位・立場に居座り続けるべきでない。人生のロスタイムを控え、塩爺はそんな人生哲学を以て傘寿直前に政界から引退することを前々から決めていたのだろう・・と書いている。

立場は塩爺とは天と地程の開きはあるが、自分も既に80歳。塩爺流に云えば確かに「人生のロスタイムを真面に考える時期」に入っているんだな・・・。ならば、そういう時期を迎えている自分に正直に向き合おう。でも生きることに執着する訳ではないが、折角与えられた尊い命だから、これを大切に守りつつ、「人生のロスタイムの幅と奥行きを今少し頑張って伸ばして行きたいものである。

自分には、あとどの位のロスタイムが残されているのか、長くはなかろう。それは運命の神のみが知ることだが、13年前のある日の日記を読み返しながら前記のようなことを再認識した次第である。

 


人の死と自分の死(続いた人の死・自分の葬り方)

2015-03-15 15:22:42 | 終活

1、 昨今特に身近に感ずる「人の死」

人の死を比較的身近に感ずるようになったのは、50歳頃からである。その頃から、親しくしている学校仲間、所属団体、元職場や地域の先輩や同輩、時には後輩の訃報を知る機会が多くなった。

訃報を受ければ、可能な限り会葬するように心がけて今日に至っている。葬儀場で、最後の体面をして永久の別れをする度に、「やがて自分も遠からず、そして必ずその日が来るのだ」と実感するようになった。

年毎にそんな機会が増え、その度に、「自分の終わり=自分の死はいつか」などと野辺送りになる順番を気にするようになっている。これは、特に高齢者に共通する最も関心のある潜在意識だとも云えるだろう。

今月二人の同輩が相次いで他界し、そのことを又改めて強く感じた。

自宅療養中だったO・T君の病状が2月末に急変・悪化し、3月1日前立腺癌で他界した。その1週間後に1年前から入院治療中のO・Y君が末期肝臓癌で、O・T君に続く旅立ちをした。長い人生の中で、同一月に2週続いて友人の葬儀に会葬するのは、勿論初めてのことである。

両人が、闘病の終末期に、気持ちの面でどれ程「死期」を意識していたのか、詳しくはわからない。だが、「死期」が近いことは薄々承知し、覚悟も出来ていたようである。

現在、日本人の平均寿命は、男子80.2歳・女子86.6歳で、愚生の世代は正に、統計上の、傘寿世代を生きている。だから、自分達は、いつお迎えが来てもおかしくない人生終末の只中を日々生きているのである。

2.自分の「エンディング」についての意志の確認と家族の認識

人には必ず終わりがある。その際自分はどう扱って貰いたいのか、事前に意思を明確に近親者に伝えておくことは、終活の大事な決め事の一つである。2年ほど前からそう考えて思いを整理し、当方の「葬り方=エンディング」を最近次の10則に纏めた。

a.終末期に至り、意識不明の状態が長引けば延命処置の継続は必要なし。

b.可能な限り先ず「直葬(葬儀の前に火葬)」にする。

c.葬儀は、内々のキリスト教式家族葬とする。(当方を除き妻・娘夫婦等がクリスチャンでもあるので)

d.会葬者は子供達及び兄弟姉妹又はその代表者等少人数に限る。

e.縁戚、知友人へのお知らせは、家族葬終了後1~2ケ月以内に行う。

g.御香料は頂かず、死亡叙勲の資格はあっても申請はしない。

j.市営(目下造成中)の樹木墓地に埋葬を希望。一家用墓地は設けない。

h.機会を設け妻帰省の際、故郷若狭の海に小数片の散骨をする。

i.偲ぶ会的な行事や周忌記念の類の会等も一切行わない。

j.拝礼の対象となるようなモチーフ類等も不要、額付手札相当の写真一枚あれば良し。

 以上の10則が遺言の一部のようなものだ。このことについては、最近妻子にも話し、概ねの了解・合意も得ている。終活の準備には、まだまだ処置しておくべきことが多いので、自分のエンディングに関するその他の決め事についても、元気なうちに逐次整理し、話しておく積りである。

3.死は終わりの始まり

仏教には、「輪廻転生」つまり、命には限りはあるが、その命が滅しても、また新たな生を齎し、生と死は永遠に繰り返す。

だから「生を明らめ、死を明らめる(生き死にとはどういうことかよく考えること)」ことが必要で、「人の死」をマイナス評価ばかりしてはいけないとの教えがある。

人は滅し、魂は滅んでも、形を変えて永遠に生き続けるという仏教のこの「流転の発想」は、現代流で評すれば、プラスの発想である。

当方は特にこの数年来、「人の死」を極めて身近な定めとして、完全に受け入れられるようになっている。今は元気でも、「次は自分が人生の終了宣告を受けるかも知れない・・」との思いが、、知友人の訃報を知る度に、切実な実感に変わりつつある。

そんな心情の変化や、宿命観についての理解が出来て来ている今は、「自分の死」は怖くはない。何故なら、それは、かの世での「新たな初めての一歩」になるからだ。

誰も見たことのない死後の世界では、そんな第一歩を踏み出したい。きっとそうした第一歩を踏み出せるだろうと信じている。だから、この先のある時期、避けられないお迎えが来れば、従容としてそのお迎えに従えるだろう。

だけれども愚生は、まだ暫くは「生」に拘り、95歳で天寿を全うしたいという実に欲張りな願望の持ち主でもある。果たして黄泉の国の王はそんな願いを許して呉れるのだろうか。(完)


人の死と自分の死(人の死のことと臨死体験)

2015-03-07 11:53:10 | 終活

1、 初めて「人の死」に面したのは、5歳の頃で、祖母の葬儀の時だった。祖母の遺体は、立棺の中に、両手合掌・座りの姿勢で収められていた。

出棺の際は、若い衆が籠担ぎの要領で、立棺を交代で担いで村中の墓地に運び、坊さん最後の読経の間に、事前に掘られた立穴に埋め、土をかけて埋葬する様子は今もよく覚えている。田舎の葬義にはいろんな「役」があり、中でも墓穴堀りの役は大変な労力を要する「役」だった。

この役のことを「六尺」と称していたことは成人してから知った。役名の由来は、墓穴掘り役は、背丈が六尺位の力の強い男でないと務まらないところから来ていたようだ。そんな葬儀の風習に何となく無常さを感ずるようになったのは、中学生になってからのことだ。

田舎では「葬儀は家での家庭葬、棺桶は縦型使用で、埋葬方式は土葬」という風習は、昭30年頃まで続いていたようだ。近年は家庭での葬儀は殆ど見られなくなったし、葬儀時の「役割」はすごく簡単になったものの、その名残は今も一部残っている。

2、 亡くなった人の死を知った2度目の体験も忘れられない思い出だ。終戦(S20.8)直後のある日、魚市場の一角に水兵服を着たままの遺体が仮安置されていた。大人達の話では、航行中の軍用船の乗組員が敗戦を悔やみ、投身自殺したのだ。とのことだった。事実、水兵さんの遺体は、その後も漁船で何体かが収容されていたと聞いた。

余談だが、終戦直前、村の漁港の外湾内に一隻の輸送船が避難していた。その輸送船めがけて、米軍機が爆弾を投下したが命中せず、大きな水柱を上げて海に落ちた光景を偶々学校の帰りに、目撃したこともある。終戦直後、輸送船に積まれていた米俵が陸揚げ後、村中に分配され、白米を食べれた記憶も懐かしい思い出だ。こうしたことは、一漁村における終戦直後の裏面史の一部として今も記憶に残っている。

3、 終戦年の秋に友達のM君が急逝肺炎で病死した。先生に引率され自宅での葬儀に参列して、同級生でお別れをした。翌年の春今度は当方が、急性肺炎に罹り約75日自宅療養した。容態が最悪の頃は3日間全くの意識不明で、父母も内心絶望的になっていたとのことだった。

でも、幸いなことに、親戚の元軍医の世話により、当時は高価だった「ペニシリン注射」による療法や元看護婦だった母親の看病により、一命を取り留めた。意識不明の間、今でいう「臨死体験」もした。

愚生の臨死の記憶では、背中に羽のようなものを付けて、実に気持ち良く静かに深い井戸の底に下がって行き、もうすぐ、少し揺れて光っている底の水面に着きそうだ・・と感じた時に目が覚めた。傍に付き添っていた母は「お前は3日間も意識不明の状態だったんだよ・・」と教えて呉れた。

後年、作家:立花隆の「臨死体験」(文春文庫)上下を読んで、自分もあの時は、死の淵まで行く「臨死体験」の体験者になっていたことを改めて知った。

だが、療養の間、いずれ自分も、M君同様死ぬのかな・・・などとは何故か全く思った記憶もない。これも、少年だったが故に「人の死」は「他人事」位にしか認識していなかったからであろう。

 


人の死・自分の死(欲張りな長生き目標)

2015-03-02 22:13:27 | 終活

前回迄のような「ややこしい話」は暫し止め、「人の死・自分の死」のことについて書き出していた矢先、今朝友人の訃報を受けた。

昨今知友人の不幸を知らされる機会がめっきり増えた。このことは、いずれ別稿で触れることにして、この稿では、愚生の「欲張りな長生き目標」のことについて書きたい。

人は一般に、若いうちは「生きていることが当たり前」だと思い、中年以降になると、これからも「生きていたい」と感じ、高齢になるに従い、これからは願うことなら、「元気で長生きしたい」という「生についての意識」を潜在的に有しているのだそうだ

自分の人生を振り返ると確かにそう思う。この潜在意識はいずれの人にもあるのだろう。しかし、世の中には若い頃から、いろんな事情で厭世的意識から抜け出せず、悶々として日々を過ごす人もおられるだろう。中年の頃の一時期、当方にもそれに似た時期があった。

しかし、「傘寿」間もない今は、これからも、もっと元気で長生きしたいとの「願望」がむしろ増して来ている。生きることに対する執着心が強いのか、厚釜しいのかそのいずれかであろう。「人は信念と共に若く、疑惑と共に老ゆる。人は自信と共に若く、恐怖と共に老い朽ちる。希望ある限り若く、失望と共に老い朽ちる。・・・(サミュエル・ウルマン「青春」の詩の一部)」ものらしい。

彼の詩は、中年以下の者向けに書かれているように思う。けれども、この詩の全文は、年代を問わず、人生における「気力(意志力)」の大切さを教えて呉れている名言が詰まっているので、愚生が最も好きな詩でもある。

とは言え、「生きる意思」がどんなに強くても、「天命」か「運命」かは知らないが、「命」には「限り」があり、いつか終焉の時を迎え、それが突然来る場合もある。その日が「明日」かも知れないのにそのことを感知する術を知らず、我々はこの世を生き、生かされている。

だからその面では、時に「運命の悪戯に翻弄される場合もある」が、生涯を通して観ると人は「有難い生き方」をしているのではないかと思う。

生は、当面の生存目標を少なくともあと6年、85歳迄。叶うことなら、次なる目標は更にその10年後の95歳迄だと勝手に設定している。

理由は以下のように至極単純なことだ。

・現在、軽い持病はあるが、大病に至る兆候はなく、至って元気で「未だなお生きられそうな、自信のようなものがある」こと。

・5年後の東京オリンピックを孫と会場で観戦し、世紀の臨場感を実感したいこと。(昭39年の東京オリンピック時は、代々木選手村の警備支援に関った経験もあり、2度目の東京オリンピックを今度は、じっくり観戦し、冥途土産の一つにしたい。)

・急逝した兄や94歳迄元気だった父の分も含め親族一の長寿者で終わりたいこと。

・「多死社会の到来」が昨今話題にもなっている中で、15年後の世の中がどう変化発展しているか、孫・子や親族がどう成長・変化しているかよく見納めたい思いも強いこと。

そのためにも、その時まで寝たきりにならず、足腰に多少の衰えはあっても、認識力が普通程度に残っていて元気であることが前提なので、その時迄日々相応の努力は今後も続けたい。・・以下次稿

 


年賀状と終活

2014-11-20 16:22:16 | 終活

今年もそろそろ年賀状を準備し始めようかな…と思う時期になった。 当方は3年前から次のような構図の賀状を用いている。ところで、この年賀状に類する文を差出す慣習は、日本では、古くは平安朝後期に貴族社会で既に行われていたとのことだが、この慣習が一般庶民に迄広まったのは、明治4年の郵便制度の施行に続き、明治6年に制度化された郵便葉書制度の登場以降のことだそうだ。

縁あって長年交情を重ねるに至っている者が、互いに年に一度、無事息災と互いの多幸を願って賀状で交歓しあうこと。又高齢になってもそう出来る健康状態で過ごせることは、誠に幸いなことである。何時まで続けられるのか先のことは神のみぞ知るである。

だから、ある意味で形式的な慣習に捉われるのもどうかと思う年齢になると、この辺で区切りをつけて、年賀状とも決別される知友人も年々増えている。今年も、そんなお知らせの葉書をMさんはじめ親しい友からも何通か頂いている。加えて大変残念なことだが、ご本人又はそのご夫人の逝去に関する「喪中はがき」の範囲は、より身近で親しい間柄の諸氏が目立つようになって来ている。

 

世に云う「終活」の一環として、今年はともかく、来年以降当方も、「年賀状差出手控えのお知らせ」を出すのも、年越しの選択肢の一つとして考えるべき時期に来ているようにも思っている。

往時は400枚余の賀状を差し上げていたが、昨年は丁度その半分になった。この分では来年は100枚台になるだろう。

今年もパソコン仕様の年賀状のすべてに手書きで一筆書き添える積りだ。知友人の自然減と共に 我が人生も益々先細りの感深しだ。だが、マイナス思考は避けたいので、行く年を惜しむ一方、来る年に又新たな元気と幸せを託したい。

いずれにしても27年度版の賀状の作成完了は12月中旬とし、今年も賀状差出を元気でいることの証として行う予定だ。