気心は未だ若い「老生」の「余話」

このブログは、閑居の間に
「言・観・考・読・聴」した事柄に関する
 雑感を主に綴った呆け防止のための雑記帳です。

季節の輪廻

2018-09-03 09:07:10 | 環境

季節は完全にもう秋である。

異常尽くめだったあの酷暑の時期を、この老生も何とか乗り切れたのだから高齢者にとっては、凌ぎ易い季節の到来は実に有難い。

この自然界は、春・夏・秋・冬の四局面で流転・変化しており、その変化や特徴の現れ方は、年により変化があるのは当然だが、近年はその変化の振り幅が大きく、極端すぎる傾向が観られる。

特に今年の場合は、「猛暑」と「豪雨」のWパンチに見舞われた「特別に異常な」夏だったので、特にその感深しである。

正常と異常の概念は、全く対置する概念だ。だが、この異常な状態は、何時迄も長続きはせず、軈て、正常な局面に変わるのが自然の摂理であり、誰もがそう認識している。

その通りの季節がようやくやって来た。

時効の挨拶の言葉からは、酷暑のことは、過去形で語られるようになり、「とても暑かった」との認識も人々の脳裏から薄らいで、そのうちゼロ化することだろう。

何はともあれ、異常な季節はもう真っ平御免蒙りたい。

 酷暑から解放されてやっと迎えた季節の変化が、この先、一時的に台風等で波乱局面を迎えるようなことがあっても、総じて観れば概ね「正常な状態」でぜひ推移して貰いたいものである。


形あるものに関する素朴な疑問

2018-02-07 22:40:52 | 環境

自然界や人間の世界には摩訶不思議なことが多過ぎる。まして、世間で当たり前の常識とされている事柄であっても、その事柄に関する詳しい知識もない老生にとっては、何故そうなのか?と素朴に思うことがよくある。

過日(H30.1.31)の夜空での天体ショウ―(皆既月食:スーパーブルームーン)を観ながら特にそう思った。改めてそう考えさせられた謎は次のようなことだ。  

謎その1:何千億個もある天体は何故、丸いのか。

この謎を知るには、約46億年前と云われる地球誕生時迄遡る必要があるそうだ。

だが、地球誕生の背景・経緯等を含む宇宙に関する平易な解説書(例:面白いほどよくわかる宇宙の不思議、日本文芸社)を読んでも諸々の謎は深まるばかりだ。

地球は何故丸いのか、そして更に、大きさや質量が全て異なる何千億個もの星達は、球軸に対しどこから観ても変らない対称性を有しているのか・・という極めて素朴な疑問は残ったままだ。

前記の解説本等には、「・・宇宙空間中の極微小の塵が、塵を巻き込んで回転しながら肥大化し、球形化して今の姿になった・・」との説明が一般的である。

更に、太陽系の惑星が太陽を中心に夫々の公転軌道上を自転しながら回っているのは、惑星の「円運動の法則」に従っているからだとのことで、成程そうか・・と一応その理屈は納得出来る。

しかし、よく考えるとこの説明も、天体の球形化の理由付け同様、物事の現在の事象や現象を捉えて結果的に後付けした理由付けでしかないのではないか。


謎その2:天体以外の生命体も全て何故、左右対称になって出来ているのか。

球形であることに伴う天体の対称性以上に、ごく普通に感ずる疑問は、この地球上の生きとし生ける全ての動植物は何故、対称性(シンメトリーsymmetry)を以てこの世に存在しているのか・・という疑問である。

 シンメトリーとは、物体等の構成が、中心軸に対しその形状等が左右又は上下均等に配置され,両者が一定の相似関係にあることを現わす表現である。

最初は点にも満たない生命細胞から、個体によって形状は様々だが、その異なる個体の両眼・両耳・両腕・両足手指等が夫々左右均一になっており、全体としては、鼻から臍の縦線を中心にして見事に左右均等な人や動物が形成されるのか。極小の蟻達から太古の巨大恐竜等に至るまで全てこ左右均等性を有している。

この左右均衡性は動物だけに観られることではない。一見左右非対称に見える樹木も、その幹の中心線に沿って均等な年輪があるし、その葉っぱの葉筋・葉脈の出方はみな違うけれども、葉の幹筋を中心に殆ど全てが左右対称になっている。

動植物全てにこの左右対称な属性があるのは、夫々の固体が個体本来の活動に最も適するように、夫々の生存域で、何万年もの進化の過程を経てそうなったからだ・・と一般的には説かれている。

しかし、この説明も後付けの結果論的な理由づけに過ぎないのではないか。

これに対し、人工物の対称性(例:建造物や什器・備品等)は、安定性、耐久性、経済性、効率性、美観等諸々の観点から多角的に検討されて、最も理に適った方法で設計・製作されている。なので、この点に関しては素直に理解できる。

全知全能の「絶対神」が、天地を始め森羅万象全てのものを最も理想的な姿形に創造したから・・全てのものはそうなっている・・・との主観的な創生論で割り切れば、前記のような他愛無い疑問の余地は無くなるだろう。だがしかし、老生はそうした「天地創生論」を信じてはいない。

愚問 その3:相互に引き合う天体の引力に均衡性があるのは何故か

ニュートンが約400年も前に発見した「万有引力の法則」は、今では、極めてありふれた常識になっている。月にも引力(地球の約1/7)があり、その引力により、月から約38万kmも離れている地球上の顕著な所では、海面潮位が約15m余も満ち引きする程の影響をこの地球が受けている。

何故そうなるのだろうか。条件は違うが、上空約400Kを周回する国際宇宙ステーション等は遠心力と求心力が均衡出来る高度に位置しているから周回出来ているとのことだが、月の引力を受けるようなことは全くないのだろうか。

更に、引力に関して不思議に思うことは、惑星等の全ての天体が、何万k又は何光年も離れた位置関係にありながら、夫々引き合う相関関係を保ちつつ、何故自転しながら公転もしているのか。

その根本的な理由は何故なのか等々、過日の皆既月食を観ながら、今迄眠っていた以前からの極めて単純・素朴な不思議感が又沸々と湧いて来た。

この素朴な老生の疑問は、今後も解けない謎として脳裏に残り続けることだろう。

(H30.2.6記)                                                                                                  

 


遊び好きな小鳥のフー太郎

2017-11-21 22:59:49 | 環境

 ボタンインコのフー太郎を飼い始めてもう7年余になる。この種の鳥の寿命は、平均10年程度だそうなので、彼は既にもう老鳥なのだろう。

 しかし、これまで一度も体調異変等もなく、極めて元気である。老鳥なのに籠の中で静かにしているのが大嫌いなようで、とても遊び好き、悪戯好きである。

  

 時々鳥籠に近ずくと、身体を左右に何度も動かして、籠から出して呉とせがむような動作を繰り返す。そんな懇願振りに負けて、一日に何度か籠の蓋を開けると嬉しいのか、甲高い鳴き声を出しながら一旦籠の枠にとまり、暫し周りの様子をじっと観ている。

  直ぐには飛び出さない。野鳥本来の警戒心があるからだろう。蓋を開けた状態で傍に立っていると、決まって肩や頭の上に飛んで来て止まる。体調の15倍位の高さの所迄、瞬時にかつ垂直に飛び上がってくる。その垂直離籠の芸当は、実に見事である。

 

手を差出すと警戒もせず、その手に乗り移って来て暫くじっとしている。足の指は長短前後に2本ずつあり、血の気が少ないためか意外に冷たい。冷たいが故に、温もりのない所でも平気に止まれる反面、温もりのある所に止まる好みもあるようだ。

 人を恐れず、手や腕・肩・頭等によく止まるのは、暖かい所を好む原産地・南アフリカ産の習性に由来しているのだろうか。

一旦放鳥(籠からだす)すると、よほどの空腹状態でない限り、自分で籠に帰ることは殆どない。放っておけば何時間でも、あちこち我がもの顔で時々飛び移り、諸所で遊んでいる。止まっている際に、身体を低くして、お尻をやや上げる姿勢をしている時は要注意で、こんな時は必ず、白い糞を落とすのでその度に後始末を強いられる。

  

 テーブルやパソコンの周辺に白い紙類がある場合の鳥の行動には特に要注意だ、得意の噛み・喰いちぎりが始まるからだ。噛み切った紙片を口に銜えて上下左右に動かし乍遊んでいる時が、フー太郎にとっては自慢の見せ場であり、得意ホーズのひと時である。

   

時折、籠の上に戻りガラス越しに外を眺めている時もある。外の世界が恋しいのか、それとも籠の中の餌にありつきたいのか、老鳥なりに思案しているのかも知れない。

 

残念ながら、このフー太郎は、物まねは全く出来ない。でも音には敏感で、朝ベランダ側のカーテンを開けると元気な声で必ず2・3度は鳴く。その声は、鳥籠に夜間用として懸けている毛布を、早く取って呉れとの鳴き声のようにも聞こえる。毛布を取らないと同じ声で何度も鳴くのがいじらしい。日中でもフー太郎と呼ぶと、顔を上に向けながら、ピーと甲高い一声で応えたりもする。もの云わぬフー太郎と老夫婦との繋がりが、いつまで続くのか先のことは解らない。解っていることは、このフー太郎が、とても遊び好きでかつ放浪癖のある老鳥だが、老生や毎日立ち寄る娘夫婦や孫達にとっては、愛想の良い大切なペットであることだ。 (完)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


小雨上がりの散りゆく桜

2017-04-09 23:06:25 | 環境

都内神田の学士会館であった「郷里の会」(正式名:東京敦賀人会)の帰路、近くの九段下通りを経て皇居東御苑内周辺を散策した。都心での最後の桜を観収めるためだった。

折しも小雨上がりで苑内は閑散としていたし、天候の所為(せい)なのか、樹種の違いなのかよく解らないが桜の色・姿にも顕著な違いがあるものだ。 苑内の桜も既に満開を過ぎていた。そんな散りゆく桜を見つめながら、年相応なのだろうか、何となく「侘しさと寂寥感のようなもの」を感じさせられた。

「散る桜 残る桜も 散る桜」散り行く桜を眺めていると、確かに先人の歌の風情がよく伝わって来るものだ。

一ケ所だけ、何故か「散り急ぎだよ」と云いたくなる桜に出くわした。桜にも人間同様、一風変わった現象(振舞い)を常とする種類もあるのだろう。

曇り空の条件に加え、スマホの手ぶれもこれありで、鮮明画像ゼロ枚だが雰囲気だけは何となく伝わるだろうと思って投稿したのだが・・・撮影技量の未熟さを温めて痛感した。

少ない人出だったのに、欧米系外人さんが比率的には多かった。彼等にもやはり桜は、特別な鑑賞の対象だそうだ

江戸と現代を象徴するこの単純な構図も人気の写真スポットになっていた。

 

お堀端の桜も小雨に濡れてしっとりし、水面に落ちた花びらの群れもかなリ広がっていた。

好天時の写真で、ピントが合っていればこの写真が構図的には、上出来だと思う。来年も、なお元気だったら、愛用のカメラで再び苑内の桜と再開したいものだ・・・と思った。御苑を出たのは閉苑時間過ぎの16時半頃だった。(2017.4.9記)

 


春暖の日中、老人福祉センターで温泉気分を満喫

2017-04-06 22:43:36 | 環境

例年に比してかなり遅い市内の桜もやっと満開に近い状態になった。自転車で市内の郵便局(本局)に来た序(ついで)に、その直ぐ近くにある老人福祉センターに立ち寄り、同センター内の素敵な入浴施設で暫し温泉気分を味わった。

市内在住の65歳以上の高齢者(事前登録制)なら誰でも、10時~15時の日中(日曜・祝祭日・年末年始を除き)自由に利用できる。貸しタオルを受けて約40分程寛いだ。

当方が入館した時には、玄関ホールに続く娯楽コーナーでは、既に何組かの人達が囲碁将棋に熱中していた。

3階建て、延べ床面積約3000㎡のこのセンターには、入浴施設以外にカラオケ完備で90畳もある舞台付大広間や陶芸・工芸・ダーツ・社交ダンス・麻雀等向けの区画施設やコーナ・ホール等も揃っている。

実に至れり尽くせりで多目的機能が備わっており、利用し甲斐のある施設である。

娯楽コーナの先に入浴エリアがある。入口には、一見旅館風の浴室表示の暖簾が掛かっている。

暖簾をくぐるとそこは、明るくて広い脱衣場だ。その先の浴室は広く、同時に25人が利用可能な洗い場には、シャンプー等も備え付けられているし、タイル張りの湯船のお湯も実に綺麗で、常時40℃前後に保たれ、温度管理もしっかりしている。

当方の入館は、11時頃だっこともあり、入湯者は僅か8名程だった。湯船につかり乍らストレッチをしたり、どこかの温泉宿に行った気分になった積りで、暫し物思いに耽ったりもした。

風呂上りの後、コーヒを飲みながらパソコンコーナで時局に関する国内外ニュース記事等を拾い読みした。

折しも明日(4月7日)から、米中の「トランプ・習」会談が、フロリダのトランプ豪邸「マール・ア・ラーゴ」で行われる。この会談で、最近益々暴君振りが目立っていると云わざるを得ない「金正恩」独裁国家に関して、どんなやり取りが行われ、その結果、両国の今後の対北政策がどう推進されるのか。これも又興味と関心が尽きない国際問題だ。風呂上りにふとそんなことを思いながら、同センターを後にした。