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元NHKの子ども番組の「歌のお兄さん」が歌う、絵本作家のぶみ氏作詞の「あたし おかあさんだから」の歌詞が、ネット上で炎上しているということです。
「一人暮らししてたの おかあさんになるまえ
ヒールはいてネイルして 立派に働けるって強がってた
今は爪切るわ 子供と遊ぶため 走れる服着るの パート行くから
あたしおかあさんだから 眠いまま朝5時に起きるの
あたしおかあさんだから 大好きなおかずあげるの
あたしおかあさんだから 新幹線の名前覚えるの
あたしおかあさんだから あたしよりあなたの事ばかり」
「あたしおかあさんだから」と、母親であるがゆえにしている様々な「ガマン」を列挙していくこの歌詞に対して、「献身的なお母さん像を呪いのように押し付けている」「ワンオペ育児賛歌だ」などと、違和感を指摘する人が相次いでいるということです。
男性が作詞し男性が歌っているだけに、確かに母親の自己犠牲を美化しているような「変な感じ」はありますが、その一方で(ネット上のコメントなどには)「母親の生活なんて所詮あんな感じ」とか「それで幸せ感じてんだったらいいんじゃないの」などといった書き込みも数多く見受けられます。
聞いた人読んだ人の経験や子育てへの受け止め方などによって、歌詞の印象は随分と異なるのでしょう。
それだけ聞いていれば「どうってこともない」ような言葉の羅列でも、場合によっては「そうじゃない」お母さんの否定にも聞こえてくる。歌詞にされNHKなどで流された途端に押しつけがましい「いやらしさ」のようなものがにじみ出て、プレッシャーに感じるお母さんたちも多いのかも知れません。
そんなデリケートさを孕むこの歌の歌詞について、2月12日の日本経済新聞の連載コラム「ダイバーシティ進化論」に、女流詩人で国学院大学教授(社会学)の水無田気流(みなした・きりう)氏が、『何とも苛烈な「理想の母」』と題する興味深い論評を寄せています。
水無田氏によれば、この歌の歌詞に多くの現役の母親が反応し批判の矛先を向けた理由は、
(1)母の過度の自己犠牲の当然視
(2)働く女性や子どもを産んでいない女性への無自覚な非難
の大きくふたつに集約されるということです。
特に反感を買ったのが、「子どものためにすべてをささげて自己犠牲に励む母親」対「自分のことだけ考えるキャリアウーマン」という二項対立図式を、独善的に描いていることだと水無田氏は言います。
以前はヒールをはきネイルをして「立派に働けるって強がってた」女性が、母親になったら爪を切り、走ることができる服を着てパートに行く。
(それはそれとしても)そこで、「なぜならあたしはおかあさんだから」と言ってしまえば、「それじゃなにかい?子どもを産まない女性やバリバリ働く女性(や母親)は間違っているってこと?」と読めてしまうということです。
さらにこの歌詞の問題は、母の自己犠牲の程度が極端で俗世を離れ一切の我欲を捨てるべしという、修行僧か修験者のような子育てを推奨している(ように見える)点にあると氏は説明しています。
歌の中では、好きなことも服を買うこともやめて、食事も趣味も子ども中心に変え、「それ全部よりおかあさんになれてよかった」と締めるのが「おかあさん」で、そこには、最後まで父親の姿は見えて来ないということです。
水無田氏は、「母子の生活」とは、親が子を一方的に守るのではなく母・子が互いに独立した個人として尊重し合う人間関係を築くこと、(子育てが)他の家族や地域コミュニティなどからなる日常生活の一環としてあることが求められると説明しています。
なので、この歌の歌詞にあるような「あなたのために、全て諦めて(あなたのためだけに)尽くしたのに…」という母親では、健全な巣立ちも子どもの自立も困難になると考えられるということです。
(ことに日本では)女性は「母」になると「個人」として生きることが困難になると、水無田氏はこの論評で述べています。
(極論すれば)この国で「理想の母親」となることは、「人として当たり前の自由や権利の放棄」に結びつくほど苛烈となる。しかもそれは、「美しい」とか「正しい」とかいった母親像の称揚によって、女性たちに「自発的に」自由を捨て去ることを強いてきたということです。
さて、この歌の歌詞ばかりでなく、「お母さんになる前」と「なった後」で、日本の女性たちが異なるカテゴリーに分類されがちなのは(恐らく)事実でしょう。
お母さんはヒールのある靴を履かず、爪は短いのが当たり前。以前は立派に働けると思っていたけれど、それはお母さんになるまえの話。今は5時に起きて夫のお弁当を作り、昼はパートの仕事をしているけれど、母親としての幸せをかみしめている。
そんなふうに、周囲の大人たちが(寄ってたかって)彼女らを「母親」という既成の枠組みの中に押し込める。母親として振る舞うことは「お母さんなのだから」当然だと、負担を無自覚に押し付けているということです。
一方、彼女たちは(今は)優先順位を付けて合理的に生活しているけれども、実際は時にネイルをしたり、おしゃれして出かけたりしたい「お母さん」も多いはず。少なくとも「こうあれ」と、人から言われたくなどないでしょう。
親として生きていく限りは、確かに多少の「がまん」も必要かもしれませんが、しかし気が付けば、母親がひとりで育児を担うことを、社会全体が当然視してしまっているのではないか。
だからこそ、「本件が示す問題の根は深い」と結ばれたこの論評の指摘を、私も重く受け止めたところです。
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