2月5日午後、熊本市内の九州自動車道で、福岡に向かっていた高速バスにあおり運転をし、バスの運転手と乗客の5人に首に軽いけがをさせた危険運転傷害の疑いで、一人のドライバーが逮捕されました。
報道によれば、容疑者の車はバスが高速道路のバス停から走行車線に入ってまもなく猛スピードで近づき、幅寄せ運転や前に出ての急ブレーキなどおよそ800メートルにわたってあおり運転を続けたということです。
警察の調べに対し、男は「バスが割り込んできて頭にきた」などと供述し、容疑を認めているとのこと。警察庁によれば、3年前の罰則強化後もあおり運転は相次いで確認されており、おととし1年間の検挙数は96件。また、去年も検挙は相次いでいて、11月末時点で94件に上っているということです。
また、危険運転のきっかけについて、多くの事案で「相手の無理な運転」「危険な割込み」などが主張されているということであり、「相手に非がある」と思い込むことで怒りが爆発、処罰感情が止まらなくなり(見境のない)「あおり運転」に繋がっているとされています。
実際にどうだったのかはわかりませんが、それにしても「自分が正しい」という思い込みが「だから懲らしめる」に直結し、人から平常心を失わせるケースというのは確かにあるのでしょう。相手にだっていろいろ事情はあることは(理性では)わかっていても、他者に向かった怒りの気持ちはなぜ止められないのか。
2月10日に配信された「デイリー新潮(online)」が、『(脳科学者)中野信子氏が解説する「正義のやっかいさ』と題する興味深い記事を掲載しているので、参考までにここに残しておきたいと思います。
最近では「ポリティカルコレクトネス」などとも呼ばれる、誰もが認める「正しさ」という空気のような何かがある。そこから逸脱した人をたたく行為が、この数年目立つようになったと、中野氏は記事の中で話しています。
「正しさハラスメント」とでも呼べるような、時にはひどく息苦しく感じられる現象。「正義のためなら誰かを傷つけてもいい」「平和のためなら暴力を行使してもいい」という思考をもつ人が増えているのではないかというのが氏の認識です。
脳ではこの「正しさ」はどのように処理されているのか。前頭前野には、良心や倫理の感覚を司っているとされる領域があり、内側前頭前皮質と呼ばれている。倫理的に正しい行動を取ればこの部分が活性化され、快楽が得られる仕組みになっていると氏は説明しています。
一方、「正しさ」に反する行いをした場合には逆に、ストレスが生じて苦痛を感じさせる。誰が見ていなくても、悪いことをするとうしろめたさを感じるものだが、それがこの苦痛だと考えてよいということです
これだけ書くと、人間の行動を「正しい」側に持っていこうと制御する素晴らしいシステムのように聞こえるが、実際の運用上はそうなっているとも限らないのがやっかいなところだと氏は言います。
この良心の領域は、自分が「正しさ」に反する行いをした場合だけでなく、自分ではない誰かが「正しさ」に反する行いをした場合にも苦痛を感じさせ、それを解消しようと時には攻撃的な行動を取らせたりもする。正しさを逸脱した人物に対して制裁を加えたいという欲求、つまり「正義のためなら誰かを傷つけてもいい」という、よく考えれば矛盾した思考がこの場所に生まれてくるということです。
その人物に制裁を加えても自分には何の利益にならないのに、なぜ攻撃するのかという問題に、この知見は一つの示唆を与えてくれると氏はしています。利益にならないどころか、返り討ちに遭う危険すらあるのに、それでもその人を罰せずにはいられない。その感情の源泉には、制裁が功を奏してその人物が行動を悔い改めれば、自らの苦痛が解消されて快楽物質ドーパミンが分泌されるからだと考えれば説明がつくということです。
悪行を重ねる代官を叩きのめし印籠をかざす水戸黄門や、理不尽な上司に土下座を迫る半沢直樹に私たちが留飲を下げるのは、脳内のそうした動きによるものなのでしょうか。
お節介な事に、脳は時として不必要なまでに人々に「正義」を押しつけることがある。正義の味方としてルールから逸脱した誰かを見つけ、そこに制裁を加えるだけで、お手軽に快楽物質が分泌されるのだとしたら、こんなに手軽なエンタメは他にはないと中野氏は言います。
「ざまあみろ」「自業自得だ」…そんな台詞が頭の中をよぎるのを、私たちは決して抑えられない。人間が今の姿である限り、週刊誌的な記事はこれからも書かれ続け読まれ続けることだろうと結ばれたこの記事を、私も興味深く読んだところです。
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